第6話 羊の紋の馬車
「家令を追い出したそうだな」
応接間の椅子に座るなり、父は言った。
挨拶もなかった。外套も脱がなかった。
エーリヒ・ローデン。ローデン商会の主で、商人ギルドの評議員。俺の父だ。
今日は、ひと月に一度の訪問日ではない。
「耳が早いですね」
「質問に答えろ」
「横領していました。三年分の修繕費を、二重に払わせていた。証拠もあります」
「証拠など、どうとでもなる」
父は、苛立たしげに指で肘掛けを叩いた。
トン、トン、トン。
子どもの頃から聞き慣れた音だ。父がこの音を立てるとき、商談はたいてい、相手の負けで終わる。
「婿の分際で、伯爵家の家の者を勝手に処分するとは、何を考えている。ローデン家の名に傷がつく」
「誓約書に基づいた処分です。父上も、署名なさった誓約書ですよ」
「あんなものは、祝いの席の飾りだ」
飾り。
祖父が聞いたら、墓の下で寝返りを打つだろう。
◇
「それより」
父は、身を乗り出した。
「お前の妻のことだ」
来た、と思った。
「夜中に若い男を、屋敷に連れこんだそうじゃないか」
俺は、黙って父の顔を見た。
「離縁しろ」
父は、当然のことのように言った。
「妻の不貞は、立派な離縁の理由になる。婿が恥をかかされたのだ。ギルドも、王都の公証院も、お前の味方をする。慰謝料も取れる。伯爵家に注ぎこんだ持参金も、取り返せる」
「……」
「うちに戻ってこい。悪いようにはしない」
算盤が、勝手に珠を弾いた。
――離縁すれば、持参金は戻る。慰謝料も取れる。伯爵家の名は失うが、ローデン家の損は小さい。
うん。
数字の上では、父の言うとおりだ。
商人の息子なら、損と得で考えろ。
父の教えどおりに考えれば、答えは一つしかない。
「考えておきます」
俺はそう答えた。
父は、ふん、と鼻を鳴らした。
「考えるまでもないことだ。来週、公証院の書記を寄こす。書類はこちらで用意しておく」
そう言って立ち上がった。
出された茶には、最後まで手をつけなかった。
◇
父の馬車が門を出ていくのを、俺は窓から見送った。
扉には、羊の紋。
月の終わりの決まった日に、グスタフを迎えに来ていた馬車にも、同じ紋がついていたという。
さて。
ここで、一つ考えてみてほしい。
妻が若い男を連れて帰ってきたのは、昨日の夜だ。
雨の夜で、屋敷の外には誰もいなかった。
知っているのは、屋敷の中の人間だけ。使用人たちは噂好きだが、まだ屋敷の外には出ていない。今朝、町へ買い出しに行った者もいない。
それなのに、父は、もう知っていた。
家令を追い出したことは、まあ、わかる。衛兵隊に届けを出したのだから、商人ギルドの評議員の耳に入ってもおかしくない。
でも、若い男のことは?
――なぜ、もう知っているのだろう。
屋敷の中から、父に知らせた人間がいる。
それも、昨日の夜から今朝までのあいだに。
グスタフは今朝、衛兵隊に連れていかれた。その前の晩なら、あの男は自由に動けた。
算盤の珠が、一つ、また一つと、嫌な位置に並んでいく。
俺は、それを見ないようにした。
父の商会と取引のある家は多い。羊の紋の馬車なんて、王都じゅうを走っている。
そう、自分に言い聞かせた。
◇
客間の前を通りかかると、扉が少しだけ開いていた。
中で、例の若い男が、窓辺に立っていた。
俺に気づいて、慌てて頭を下げる。
「あの、すみません。さっきの、馬車は」
「ああ。俺の父だ」
若い男の顔から、すっと血の気が引いた。
「ローデン商会の……」
「知っているのか」
「……いえ」
若い男は、首を横に振った。
「羊の紋は、王都で、見たことがあるだけです」
嘘をつくのが、下手な男だ。
俺は、それ以上聞かなかった。
聞けば、この男はもっと下手な嘘をつくだろう。
その代わりに、一つだけ言った。
「この屋敷では、誰も君を殴らない。少なくとも、俺がいるあいだは」
若い男は、しばらく俺を見ていた。
それから、さっきより深く頭を下げた。
……と、言ったそばからである。
翌日の昼、俺は自分の言葉を、早くも撤回しなければならなくなった。
この屋敷には、もう一人、人を殴ることにまったくためらいのない人がいたのだ。




