第5話 一通目
――マティアスの話に戻る。
翌朝、俺は二つの手を打った。
一つ目。
受け取りに名前のある大工の家へ、使いを出した。屋敷の下男の中で、いちばん口の堅い男に、銀貨を一枚握らせて。
二つ目。
商人ギルドの公証人、ハンス・ベルガーに手紙を書いた。三年前、婿入りの誓約書に印を押してくれた人だ。
『明朝、書斎までお越し願いたい。誓約書の件で』
それだけ書いて、封をした。
昼過ぎ、使いが戻ってきた。
大工の親方は、こう言ったそうだ。
「伯爵家の仕事は、この三年で一度きり。厩の床だけだ。屋根? 外壁? 知らねえな。その受け取りの署名、俺の字じゃねえよ」
だろうな。
算盤が、珠を全部弾き終えた。
――確定。
◇
翌朝、俺はグスタフを書斎に呼んだ。
「お呼びでしょうか、旦那様」
グスタフは、いつもの笑顔で入ってきた。
書斎の隅に、見慣れない男が一人立っているのに気づいて、わずかに眉を動かした。ベルガーだ。灰色の上着の、物静かな初老の男である。
「座ってくれ」
俺は、机の上の三十六枚を、グスタフの前に押しやった。
「この三年の、修繕費の受け取りだ」
「はあ」
「屋根の葺き替えに、外壁の塗り直し。厩の床」
「ええ。屋敷の手入れは、家令の大事な務めでございますから」
「この屋敷の屋根を、三年のあいだに葺き替えた覚えがないんだ」
「旦那様のお勘違いでは。屋根の上のことは、下からではわかりにくいものです」
なるほど。
うまいことを言う。
「厩の床は、去年、俺が別の大工に頼んで張り替えた」
「……それは」
「それと、この大工のところへ、昨日、人をやって確かめた」
俺は、グスタフの目を見た。
「伯爵家から仕事を請けたのは、三年で一度だけ。それも、俺が頼んだ厩の床だけだそうだ。それ以外の受け取りの署名は、自分の字じゃないと言っていた」
グスタフの笑顔が、少しだけ固まった。
ほんの少しだ。
口の端が、半分ほど下がって、すぐに戻る。
さすが、三年間、この笑顔で俺をだまし続けた男だ。崩れ方まで品がいい。
「……それで、旦那様は、どうなさるおつもりで」
「こうする」
俺は、書き物机のいちばん下の引き出しを開けた。
三通の封書。
その一通目を取り出して、ペンを取る。
宛名の欄に、初めて、名前を書いた。
『家を食い物にした者へ グスタフ・ハイン殿』
インクが、少しだけにじんだ。
三年、使わずに取っておいた紙だ。
「それから、これを」
俺は、三年前の誓約書を、封書の横に広げた。
家令の欄に、グスタフ自身の署名がある。
婿入りの祝いの席で、笑いながら書いた署名だ。
『この婚姻に連なる者が、家を食い物にし、人を踏みにじり、信を売ったときは、婿はその者との縁を切ることができる』
ベルガーが、一歩前に出た。
「商人ギルド公証人、ハンス・ベルガーです」
抑揚のない、静かな声だった。
「本誓約書は、ギルドの公証を経た正式な証文です。誓約に基づき、ヴァルト伯爵家の家令職は、本日をもって解かれます。また、修繕費の横領の件は、王都の衛兵隊に届け出ることとなります」
グスタフは、長いあいだ、誓約書の上の自分の署名を見つめていた。
祝いの席で、どんな気持ちでこの名前を書いたのだろう。
婿の家の、古くさいしきたり。商人の小僧の、子どもじみたおまじない。
たぶん、そう思って笑っていたはずだ。
やがて、グスタフは顔を上げた。
口の端だけで、笑った。
さっきまでの笑顔とは、まるで違う笑い方だった。
品のいい家令の顔の下から、別の男の顔が出てきた。
「一通目で済むと、お思いですか。旦那様」
俺は、眉をひそめた。
「どういう意味だ」
グスタフは答えなかった。
ベルガーが呼んでおいた衛兵が二人、書斎の扉を開けて入ってくる。グスタフは、立ち上がって自分から両手を差し出した。
抵抗もしなかった。
衛兵に連れられて出ていくとき、扉の前で、一度だけ振り返った。
「せいぜい、三通とも使い切らないよう、お気をつけて」
扉が、閉まった。
◇
書斎に、静けさが戻った。
ベルガーが、誓約書をていねいに巻き直しながら、言った。
「ローデン殿。……いえ、ヴァルト殿」
「マティアスでいい」
「では、マティアス殿。お祖父様の誓約書が使われるのを、わたしは初めて見ました」
「俺も、初めて使った」
「お見事でした」
ベルガーは、誓約書を俺に返した。
「ですが、あの家令の最後の言葉は、気にかけておかれたほうがよろしい。あれは、負け惜しみの顔ではありませんでした」
「……ああ」
俺も、そう思っていた。
一通目で済むと思うな。
三通とも使い切らないよう、気をつけろ。
まるで、二通目と三通目の宛名を、あの男は知っているみたいじゃないか。
算盤が、珠を弾こうとして、止まった。
わからない数字は、弾けない。
その日の夕方。
門の外に、一台の馬車が停まった。
扉に、羊の紋のついた馬車だった。




