第4話 ラベンダーを買う女
――ユリアの話。
私は、口下手だ。
いえ、口下手という言葉では足りない。
言いたいことが十あるとすると、口から出るのは一つくらい。残りの九つは、喉のあたりで渋滞を起こして、そのまま消えていく。
今夜も、そうだった。
「……しばらく、この人を屋敷に置きます」
玄関で、私はそれだけ言った。
言えなかったことは、たくさんある。
この子は弟です。父が侍女に産ませた子です。母親を亡くして、私を訪ねてきました。大変なものを見てしまったので、匿わなければなりません。あなたに関わることなので、どう話せばいいのか、まだわかりません。それと、遅くなってごめんなさい。雨で、橋が通れなくて。
――全部、喉で渋滞した。
出てきたのは、最初の一行だけだった。
夫は、少しだけ私を見て、言った。
「わかりました。部屋を用意させましょう」
わかりました。
それだけだった。
怒らない。問いたださない。いつもの、落ち着いた声。
使用人たちが、何を考えているかは、わかっている。愛人。屋敷じゅうが、その二文字で埋まっていた。
夫もきっと、そう思っている。
それなのに、あの人は、アガーテに温かいスープを言いつけた。
振り返ったら、たぶん、泣いてしまう。
だから私は、一度も振り返らずに階段を上がった。
リオの背中に添えた手が、ずっと震えていた。
◇
私が夫を知ったのは、三年前の春だ。
父が亡くなって、残ったのは借金だった。
婿の候補は、五人いた。どの家も、伯爵家の借金を肩代わりする代わりに、名家の名を欲しがった。
五人と、一人ずつ会った。
最初の四人は、まず持参金の話をした。それから、伯爵家の屋敷の広さを褒め、領地の羊の数を尋ねた。一人は、私の顔を褒めた。少しも嬉しくなかった。
五人目が、ローデン商会の次男だった。
五人の中で、いちばん家柄が低い人だった。
その人は、席につくなり、こう言った。
「持参金の話の前に、伯爵家の帳簿を見せていただけますか」
私は、驚いて、たぶん変な顔をした。
「借金の額を知らずに、返済の約束はできませんから」
それから、その人は帳簿を三刻かけて読んだ。私の前で。ひと言もしゃべらずに。
読み終えると、顔を上げて言った。
「五年あれば、返せます。屋敷を売らずに」
この人なら、この家を食い物にしない。
そう思った。
だから、私が選んだ。
……ということを、私は三年間、一度も夫に言っていない。
喉で、渋滞したので。
◇
婿入りした夜、私は寝室の窓辺に立って、外ばかり見ていた。
何か言わなければ、と思っていた。
来てくださって、ありがとうございます。あなたを選んだのは私です。これからよろしくお願いします。
頭の中で、何度も練習した。
振り返って、口を開いて。
出てきたのは、これだった。
「……帳簿を、お願いします」
違う。
そうじゃない。
帳簿じゃない。いや帳簿もお願いしたいけれど、今言うことじゃない。
夫は、少し黙ってから、「わかりました」と言った。
それから、隣の小部屋へ移っていった。
私は、窓辺で、声を出さずに泣いた。
あとで、アガーテにだけ打ち明けた。
「奥様。旦那様は、奥様に嫌われていると思っておいでですよ」
「……そう、でしょうね」
「おっしゃればよろしいのに」
「……言おうとすると、帳簿が出てくるの」
アガーテは、しばらく私を見て、それから小さく笑った。
三年間で、アガーテが笑ったのは、あのときだけだ。
◇
婿入りして十日目の夜。
廊下で、夫がアガーテと話しているのが聞こえた。
「慣れない屋敷で、どうも眠れなくてね」
それだけの、何気ない言葉だった。
次の朝、私は夜明け前に起きて、町の花屋まで歩いた。
眠れないときには、ラベンダーがいいと、昔、本で読んだのだ。
花屋の主人は、まだ店を開けていなかった。戸を叩いて、ひと枝だけ売ってもらった。
夫が起きる前に、書斎の机に置いた。
置いて、急いで逃げた。
それから三年、夫が夜更けまで帳簿をつけた翌朝には、必ず置いた。
花屋の主人とは、すっかり顔なじみになった。
抵当が最後に外れた日には、嬉しくて、ひと枝では足りなくて、小さな花束にした。
夫は、一度も何も言わなかった。
たぶん、侍女の誰かだと思っている。
それでいい。
言われたら、私はきっと、また帳簿の話をしてしまうから。
◇
客間で、リオは震えていた。
アガーテが運んできたスープを、両手で包むように持って、それでも飲めずにいる。
「姉さん」
リオは、私をそう呼ぶ。
つい半月前、初めて会ったばかりの弟だ。
「旦那様は、怒っていませんでしたか」
「……怒らない人なの」
「俺のこと、何て」
「何も聞かなかった」
リオは、目を丸くした。
「何も?」
「……あの人は、そういう人」
リオは、懐から、一枚の紙を出した。
油紙で何重にも包んで、肌身離さず持っていた紙だ。
「これ、旦那様に見せなくていいんですか」
私は、紙を受け取った。
もう、何度も読んだ。
読むたびに、喉が締めつけられた。
手紙の最後の署名は、エーリヒ・ローデン。
夫の、お父上の名前だった。
「……まだ、言えない」
私は、紙を自分の懐にしまった。
「あの人は、毎月、お父上に手紙を書いているの」
褒められたことがないのに。返事が来たことも、ないのに。
それでも書き続けている人に、どう言えばいいのだろう。
あなたのお父上が、あなたを売ろうとしている、なんて。
「私が、片をつける」
私は言った。
「あの人には、知らせずに済ませたい」
――この判断が間違っていたことを、私は数日後に思い知ることになる。
夫が、自分で帳簿の中から、答えにたどりついてしまったので。




