第3話 修繕費の欄
三年前から、毎月ほぼ同じ額が、同じ大工の名前で払われていた。
『屋根の葺き替え』
『外壁の塗り直し』
『厩の床の張り替え』
ふむ。
まじめな家令だ。屋敷の手入れを欠かさない。
……と言いたいところだが。
この三年、屋敷の屋根を葺き替えた覚えはない。
雨漏りがしたのは去年の秋、北の角部屋だけで、それは俺が自分で職人を呼んで直させた。
厩の床もそうだ。去年の春、馬丁に頼まれて、俺が別の大工に頼んで張り替えさせた。
同じ修繕に、二回払っている。
算盤が、パチリ。
――二重払い。
いやいや、待て。早まるな。
大きな屋敷だ。俺の知らない修繕もあるかもしれない。厩が二つあるのかもしれない。
……ないな。
この屋敷の厩は一つだ。三年住んでいるから、知っている。
◇
俺は、修繕費の受け取りを、三年分全部抜き出した。
大工の受け取りには、毎回、大工本人の署名がある。
机の上に、月の順に並べていく。
三十六枚。
並べ終えて、もう一度、端から見ていった。
変だ。
大工の名前は、毎回同じだ。
なのに、字が少しずつ違う。
最初の月の署名は、角ばった癖のある字。半年後には、それがほんの少し丸くなる。一年後には、名前の最後のはねが、別の方向へはねている。
同じ人間が、同じ自分の名前を書くのだ。そう毎回、癖が変わるものじゃない。
まるで、誰かが手本を見ながら、少しずつ真似を続けたみたいに――。
いや、「まるで」じゃないな。
たぶん、そのままの意味だ。
合計を出してみた。
三年分の修繕費。
屋敷の抵当を、一つ外せる額だった。
…………。
うちの家令、優秀すぎない?
俺が三年かけて借金を返している横で、三年かけて、借金を一つ分、こっそり作っていたわけだ。
◇
真夜中を過ぎた頃、喉が渇いて厨房へ下りた。
灯りがついていた。
料理番の婆さんが起きるには、まだ早すぎる時間だ。
そっと戸口からのぞくと、竈の前に、誰かがしゃがみこんでいた。
ゆうべの、若い男だった。
外套を脱いだ姿は、思っていたよりずっと痩せていた。
袖をまくり、竈の灰を、火かき棒で丁寧にかき出している。朝の火を起こしやすいように、乾いた薪を手前に並べてあった。
料理番の婆さんが起きる前に、朝の支度をしておくつもりらしい。
「……すみません」
男は、俺に気づいて、弾かれたように立ち上がった。
「勝手に、厨房を」
「いや、いい。眠れなかったのか」
「置いていただくあいだ、何もしないわけにはいかないので」
男は、深く頭を下げた。
「ご迷惑は、かけません」
腰が低い。
というか、低すぎる。
初めての屋敷で、こんな時間に竈の灰をかき出す客人がいるだろうか。
これは、使われることに慣れた人間の動きだ。
調理台の上に、紙切れが一枚置いてあった。
料理番の婆さんの、明日の買い物の覚え書きだ。
婆さんは字が書けない。いつもは俺が口で聞いて、市場への使いに伝えている。
なのに、その紙には、品目と数と、値段の見当まで、きちんと並んでいた。
『卵 二十 銅貨八枚ほど』
『玉葱 十 銅貨三枚ほど』
『小麦粉 一袋 銅貨十二枚(先週より一枚高い)』
先週より一枚高い。
ここまで書いてある。
「これは、君が?」
「……はい。お婆さんが、困っていたので」
「計算もできるのか」
「母に、字と計算だけは教わりました」
男は、それ以上、自分のことを話さなかった。
名前も、言わなかった。
俺も、聞かなかった。
妻の愛人かもしれない男の書いた字は、癖がなく、まっすぐだった。
大工の、毎月ちがう署名とは、正反対の字だった。
◇
夜明け前、書斎の扉が小さく叩かれた。
「旦那様」
アガーテだった。湯気の立つ茶を、盆に載せている。
「ひと晩じゅう、灯りがついておりましたので」
「ああ、すまない。起こしたか」
「いいえ。年を取ると、早く目が覚めるものでございます」
アガーテは、茶を机に置いた。
それから、机の上に並んだ三十六枚の受け取りに、目を落とした。
しばらく、何か迷うように口を動かしていた。
この侍女は、余計なことを言わない人だ。三年間、俺が尋ねたことにしか答えたことがない。
その人が、今、何かを言おうとしている。
俺は、黙って待った。
「……差し出がましいことを、申しますが」
小さな声だった。
「グスタフ様は、毎月、町の商会の方とお会いになっています。月の終わりの、決まった日に」
「どこの商会だ」
「存じません。ただ」
アガーテは、火傷の痕のある右手を、左手でそっと押さえた。
「お迎えの馬車の扉に、羊の紋がございました」
羊の紋。
算盤が、鳴らなかった。
鳴らすまでもなかった。
羊の紋は、ローデン商会の紋だ。
俺の、実家の紋だった。




