第2話 財布の三年
客間の薪、ひと晩分。
食事、一人分。
衣服、とりあえず俺のお古でいいだろう。
帳簿に項目を書き足しながら、俺はついでに、ここ三年分の屋敷の出費を見返していた。
これは、癖みたいなものだ。
ローデン商会では、子どもの頃から帳簿を読まされた。六つの冬に父から算盤を渡されて、十の頃には商会の倉の在庫を数えていた。
数字は嘘をつかない。
嘘をつくのは、数字を書く人間の方だ。
これも、祖父の言葉である。
◇
ついでに、三年前のことも話しておこう。
婿入りが決まったのは、俺が二十三の春だった。
ヴァルト伯爵家の先代が亡くなって、跡を継いだのは一人娘のユリア。女伯爵だ。
ところが、継いだものの大半は、借金だった。
そこで伯爵家は、借金を肩代わりしてくれる婿を探した。持参金と引き換えに、名家の婿の座をどうぞ、というわけだ。
そこに手を挙げたのが、俺の父、エーリヒ・ローデンである。
「伯爵家の名は、ローデン家の得になる」
婿入りの前の晩、父はそう言った。
「商人の息子なら、損と得で考えろ。お前の役目は、その得を守ることだ」
それだけだった。
おめでとうも、体に気をつけろも、なかった。
まあ、父はそういう人だ。俺は、一度も父に褒められたことがない。
……いや、一度だけあったかもしれないが、それはまた今度話そう。
◇
婿入りの儀の日のことは、よく覚えている。
祝いの席で、俺は伯爵家の人々に、一枚の紙への署名を頼んだ。
「ローデン家のしきたりでして」
そう言うと、皆、笑って署名してくれた。
義母も、家令のグスタフも、妻も。それに、俺の父も。
祝いの席で、婿の家の古いしきたりを断る人はいない。
誓約書には、こう書いてある。
『この婚姻に連なる者が、家を食い物にし、人を踏みにじり、信を売ったときは、婿はその者との縁を切ることができる』
『婿の持ちこんだ財と商いは、その者から引き上げられる』
商人ギルドの公証人の印も押してある。
つまり、ただの紙切れではない。法と同じ力を持つ紙だ。
祖父の三通の離縁状は、この誓約書と一組になって、初めて意味を持つ。
署名した人間は、自分の署名に縛られる。
祝いの席で、笑いながら書いた署名に、だ。
◇
婿入りした夜のことも、覚えている。
伯爵家の寝室は、広すぎた。
ローデン家の俺の部屋が、まるごと三つは入る。
妻は、窓辺に立って、長いこと外を見ていた。
俺は、何を話せばいいのかわからず、部屋の真ん中に突っ立っていた。
どれくらいそうしていたのか。
やがて妻が、こちらを振り返りもせずに、ひと言だけ言った。
「……帳簿を、お願いします」
それが、妻が俺に最初に頼んだことだった。
なるほど。
俺は、そういう役目で呼ばれたわけだ。
わかりやすくて、いい。
その夜、俺は寝室の隣の小部屋に移った。妻は何も言わなかった。それから三年、俺たちの寝室は別々のままだ。
◇
それからの三年は、帳簿と借金の三年だった。
債権者を一軒ずつ回って、返済の順番を組み直した。
領地の羊毛を、地元の仲買人に安く買い叩かれていたのをやめさせ、王都の染め物屋に直接卸す道を作った。
抵当に入っていた屋敷の東棟を取り戻したのが一年目。西棟が二年目。
去年の秋、最後の抵当が外れた。
帳簿の数字が、初めて黒くなった。
妻は、相変わらずだった。
食卓で向かい合っても、交わすのは天気の話くらい。
「……今日は、雨になりそうです」
「そうですね」
以上である。
会話というより、気象の報告だ。
領地の視察に出れば、何日も帰らない。
戻ってくると、小作人の暮らしぶりを細かい字で紙に書きつけて、黙って俺の机に置いていく。
どこの村の井戸が涸れかけている。どこの家の屋根が落ちそうだ。どこの羊が病気をしている。
報告としては、満点だ。
夫婦の会話としては、零点だが。
ただ、一つだけ、妙なことがあった。
俺が夜更けまで帳簿をつけた翌朝には、なぜか机の上に、ラベンダーがひと枝置いてあるのだ。
最初は、婿入りして十日目の朝だった。
次は、借金の返済の目処が立った夜の、翌朝。
屋敷の最後の抵当が外れた日の翌朝には、ひと枝ではなく、小さな花束になっていた。
侍女の誰かの心づかいだろう。
アガーテあたりかもしれない。あの人は、よく気がつく。
一度、礼を言おうかと思ったこともある。でも、違っていたら気まずい。だから、何も言わずにいる。
◇
父は、ひと月に一度、屋敷を訪ねてきた。
「伯爵家の土地は、どうなっている。北の丘のあたりは、まだ手つかずか」
決まって、土地の話をした。
それから、婿としての心得を説き、ローデン商会の得になる取引を一つ二つ持ちかけて帰っていく。
「北の丘、ですか。羊も放せない岩山ですよ」
「そうか。ならいい」
父は、それ以上何も言わない。
毎月、毎月。北の丘。北の丘。
岩山がそんなに好きなのだろうか。
俺の方は、ひと月に一度、父に手紙を書いた。
伯爵家の帳簿のこと。羊毛の売れ行きのこと。返した借金の額。
返事が来たことは、一度もない。
褒められたことも、もちろんない。
それでも書き続けたのは、たぶん、子どもの頃と同じだ。
帳簿を読めるようになれば。在庫を数えられるようになれば。いつか父が、よくやったと言ってくれるかもしれない。
二十六にもなって、まだそんなことを思っているのか、と自分でも呆れる。
でも、まあ、人間そんなものだ。
――以上が、俺の三年間である。
帳簿をめくる手が、ふと止まった。
家令のグスタフが管理している、屋敷の修繕費の欄だった。




