第1話 知らない男
妻が、知らない男を連れて帰ってきた。
雨の夜だった。
玄関ホールの扉が開いて、濡れた外套の妻が入ってくる。その後ろに、もう一人。
頭から旅の外套をかぶった、若い男だった。
年は十六か、十七。外套の裾から、泥だらけの靴がのぞいている。寒いのか、怖いのか、小さく肩を震わせていた。
「……しばらく、この人を屋敷に置きます」
妻のユリアは、それだけ言った。
誰なのか。どこで拾ってきたのか。なぜ屋敷に置くのか。
一つも言わない。
いつものことだ。
この人は、結婚して三年、必要なことの半分も口にしたためしがない。
ホールに出てきていた使用人たちが、一斉に息をのんだ。
視線が、若い男と、俺のあいだを行ったり来たりする。
愛人。
その二文字が、声にならないまま廊下を駆け抜けていくのが、はっきりわかった。
頭の中で、算盤の珠がパチリと鳴った。
――妻が若い男を連れ帰った。婿の面目、丸つぶれ。損だ。
いや、待て。
面目なんて、最初からあってないようなものだ。俺は婿だ。それも、持参金つきで買われてきた婿である。
減るものがないなら、損もない。
よし。差し引き、ゼロ。
「わかりました」
俺はそう答えた。
「部屋を用意させましょう。アガーテ、客間に火を入れてくれ。それと、温かいスープを」
「……かしこまりました、旦那様」
侍女のアガーテが、いちばん先に我に返って頭を下げた。右手の甲に古い火傷の痕のある、年配の侍女だ。
若い男が、外套の陰からちらりと俺を見た。
怯えた目だった。殴られるとでも思っていたらしい。
殴らないよ。
殴っても、一銭にもならないからな。
妻は、俺の返事を聞くと、小さくうなずいた。
それから若い男の背に手を添えて、二階へ上がっていった。
一度も、振り返らなかった。
◇
ホールに残された使用人たちが、気まずそうに散っていく。
その中で一人だけ、にこやかな顔のまま残っている男がいた。
「旦那様。よろしいのですか」
家令のグスタフ・ハインだ。
白髪まじりの髪をきれいになでつけた、人当たりのいい男。この三年、屋敷のことで俺が何か尋ねるたびに、この笑顔で丁寧に答えてくれた。
「何がだ」
「いえ。奥様のお連れになった方のことで。何かと、外聞が」
「外聞で腹は膨れない」
グスタフは、困ったように笑った。
「さすが、ローデン商会のご子息は割り切りがよろしい」
「褒め言葉として受け取っておくよ」
俺は笑い返して、自室へ向かった。
背中に、グスタフの視線が張りついているのを感じた。
◇
ここで少し、自己紹介をしておこう。
俺の名はマティアス。二十六歳。
王都の商家、ローデン商会の次男に生まれた。羊毛と染め物で三代かけて財をなした家だ。
そして三年前、ヴァルト伯爵家に婿入りした。
古い名家だが、中身は火の車。先代が残した借金で、屋敷の半分が抵当に入っていた。そこへ、商家の次男が持参金を抱えて婿に入る。
つまり、金で買われた結婚というやつだ。
世間では、こういう婿をなんと呼ぶか知っているだろうか。
持参金つきの婿。
略して、財布である。
まあ、それはいい。
婿入りしてからの三年で、俺は伯爵家の帳簿を引き受け、借金を返し、領地の羊毛を王都で売る道をつけた。屋敷の抵当は全部外れて、去年からは黒字だ。
財布にしては、よく働いた方だと思う。
自室の書き物机に向かって、腰を下ろす。
机の端に、ラベンダーがひと枝、置いてあった。
ゆうべ遅くまで帳簿をつけていた。そういう夜の翌朝には、なぜか必ず、これが置いてある。
侍女の誰かの心づかいだろう。
ありがたいことに、俺は眠りが浅い。この匂いをかぐと、少しだけ眠れる気がする。
さて。
俺は、書き物机のいちばん下の引き出しを開けた。
そこには、三通の封書が入っている。
どれも、宛名は空白のまま。
封の表には、一行ずつ、祖父の字が書いてある。
『家を食い物にした者へ』
『人を踏みにじった者へ』
『信を売った者へ』
離縁状だ。
三年前、婿入りの日の朝に、俺が自分で用意したものだった。
◇
誤解のないように言っておくと、別に妻と別れたくて用意したわけではない。
これは、ローデン家のしきたりなのだ。
ローデン家の男が婿に入るときは、離縁状を三通持っていく。
始めたのは、祖父のヨアヒムだった。
祖父は若い頃、借金のかたに、ある家へ婿として売られたのだという。
その家で、ずいぶんひどい目に遭ったらしい。どんな目に遭ったのか、祖父は最後まで話さなかった。
ただ、祖父は黙って耐えるだけでは終わらなかった。
三通の手紙で、自分の人生を取り戻した。
そして、口癖のようにこう言った。
「慈悲を本とし、大切なることは赦さず」
子どもの俺には、さっぱり意味がわからなかった。
祖父は、俺の頭をなでながら、言い直してくれた。
「たいていのことは、赦してやれ。人は間違うものだ。だがな、マティアス。大切なことだけは、赦しちゃいかん」
「大切なことって?」
「三つだけだ。家を食い物にすること。人を踏みにじること。信を売ること」
だから、三通。
赦してはいけないことは、三つしかない。それ以外は、全部赦せ。
それが、祖父の教えだった。
俺は、三通の封書を指先でなぞった。
この三年、一度も宛名を書いたことはない。
書く日が来るとも、思っていなかった。
◇
部屋の外で、ひそひそと声がした。
使用人たちが、廊下の角で立ち話をしているらしい。
「旦那様、お可哀想に……」
「だって奥様、あの方とは口もきかないもの」
「三年も一緒にいて、名前で呼んだこともないんでしょう?」
「やっぱり、お金で来た方だから……」
うん。
だいたい合っている。
妻は、俺を名前で呼んだことがない。食卓で向かい合っても、天気の話しかしない。領地の視察に出れば何日も帰らず、戻ってきても、紙に書いた報告を黙って俺の机に置いていくだけだ。
冷たい人なのだと、俺も思っている。
金で買われた婿と、口をききたくないのだろう。
そこへ、若い男だ。
算盤が、また鳴った。
――世間の目で見れば、離縁の理由としては十分。婿の側から申し立てれば、ギルドも公証院も味方につく。
知ってるよ。
わかっている。商人の息子として、それくらいの計算はできる。
でも、俺は引き出しを閉めた。
あの若い男は、怯えていた。
妻は、一度も振り返らなかった。
振り返らなかったのに、若い男の背中に添えた手だけは、ずっと離さなかった。
何かある。
何かあるのに、あの人は、それを俺に言わない。
窓の外で、雨が強くなった。
俺は帳簿を開いた。考えごとをするときは、数字を見るのがいちばんいい。
あの若い男を屋敷に置くなら、薪と食事と衣服の分を、帳簿に足しておかないといけない。
このときの俺は、まだ知らなかった。
帳簿のその欄を開いたせいで、三通の封書のうち、最初の一通に宛名を書くことになるなんて。




