第9話 三通目
三通目の封書を前に、俺は一晩、眠らなかった。
机の端に、ラベンダーがあった。
妻が、今夜も置いていったのだ。もう隠す必要がなくなったからか、今夜は、俺の目の前で。
その匂いがしても、眠れなかった。
『信を売った者へ』
宛名の欄にペン先を置いては、また上げた。
インクが、ペン先で乾いていく。
つけ直す。また乾く。
◇
父は、俺を育ててくれた人だ。
六つの冬、父は初めて俺に算盤を持たせた。
商会の帳場の隅で、小さな指で珠を弾いた。間違えるたびに、父は黙って珠を戻して、もう一度、と言った。
もう一度。もう一度。もう一度。
その晩、俺は熱を出した。母は父を責めた。父は、何も言わなかった。翌朝、俺の枕元に、子ども用の小さな算盤が置いてあった。
九つの春には、市場へ連れていってくれた。
羊毛の値の決まり方。目利きの仕方。客の顔の見方。
「値札を見るな。人の手を見ろ」
父は、そう言った。
「手が荒れている客には、まけてやれ。手が白い客からは、きっちり取れ」
帰り道、焼き栗を一袋、買ってくれた。
二人で歩きながら食べた。父は、栗の皮をむくのが下手だった。
「お前は、数字の筋がいい」
栗をかじりながら、父は前を向いたまま、そう言った。
あれが、父に褒められた、たった一度のことだったのかもしれない。
二十年近く前の、焼き栗の匂いのする一言を、俺はずっと覚えている。
覚えているから、毎月、手紙を書いた。
――あの父と。
羊の紋の馬車で、月末に家令と会っていた父が。
同じ人だとは、思いたくなかった。
その父が、息子を婿に出した家を、息子ごと売ろうとしていた。
妻を心の病ということにして、俺に離縁させ、伯爵家の土地を奪う。
俺が三年かけて立て直した家を、銀の鉱脈ごと。
算盤が、鳴った。
――父と縁を切れば、ローデン家を失う。商人としての後ろ盾を失う。父を訴えれば、ローデンの名にも泥がつく。
うるさい。
わかっている。
損だ。どう計算しても、損だ。
それでも。
慈悲を本とし、大切なることは赦さず。
祖父の声が、耳の奥で鳴った。
信を売ること。
赦してはいけない、三つ目。
夜明け前、俺は宛名を書いた。
『信を売った者へ エーリヒ・ローデン殿』
インクは、にじまなかった。
◇
三日後は、商人ギルドの評議の日だった。
王都の中心にあるギルドの会館。その大広間に、王都の大きな商会の主たちが並ぶ。
大広間の壁には、歴代の評議員の肖像画が並んでいる。
その中に、祖父ヨアヒムの肖像もあった。
婿に売られた家から三通の手紙で抜け出し、一代で商会を興した人。
肖像の中の祖父は、少し困ったような顔で笑っていた。
生きていた頃も、ああいう顔で笑う人だった。
評議員である父は、その肖像のすぐ下、議長席の隣に座っていた。
大広間に入ってきた俺の顔を見て、少し眉を上げただけだった。
「マティアス。伯爵家の婿殿が、こんな場所に何の用だ」
「父上に、手紙を持ってきました」
俺は、議長の前に進み出た。
三通目の封書と。
三年前の誓約書と。
グスタフに宛てた、父の手紙。
三つを、並べて置いた。
誓約書の、婿の父の欄には、父の署名がある。
この婚姻に連なる者として、伯爵家に信を尽くすと誓った署名だ。
祝いの席の、飾りの署名だ。
議長が、眼鏡をかけ直した。
手紙と誓約書を、ゆっくりと見比べた。
それから、顔を上げて、父のほうを見た。
大広間が、静まり返った。
◇
「……お前を、ここまで育ててやったのは誰だ」
父の声は、低かった。
怒鳴りはしなかった。
父は、商談で怒鳴ったことがない。
「父上です」
俺は頷いた。
「婿入りの前の晩、父上はおっしゃいました。商人の息子なら、損と得で考えろ、と」
父の目が、わずかに揺れた。
「考えました。三晩かけて」
俺は、父の目を見た。
「……父上とのご縁は、損です」
大広間の誰かが、小さく息をのんだ。
父は、何も言わなかった。
肘掛けの上の指が、トン、と一度だけ鳴って、止まった。
◇
大広間の扉が開いて、衛兵隊の隊長が入ってきた。
議長に一礼し、一枚の紙を差し出す。
「牢のグスタフ・ハインが、すべてを話しました」
隊長の声が、大広間に響いた。
「三年間の横領の金は、ローデン商会の倉へ運ばれていた、と。偽の診断書を書いた医師の名も、公証院でそれを受け取るはずだった書記の名も」
評議員たちが、いっせいに父を見た。
父は、椅子の肘掛けを握りしめたまま、動かなかった。
「……家令ふぜいの言うことを」
「家令ふぜいに、三年間、娘婿の家の金を抜かせていたのは、どなたです」
議長の声は、静かだった。
◇
評議会は、その日のうちに、父の評議員の席を取り上げた。
ギルドの誓約を、自分の署名ごと裏切った商人を、商人たちは許さない。
商人にとって、署名は命だからだ。
偽の診断書を書いた医師と、それを受け取るはずだった公証院の書記も、衛兵隊に引き渡された。
ローデン商会の取引先は、翌日から、一つ、また一つと離れていくことになる。
父は最後まで、俺と目を合わせなかった。
大広間を出るとき、背中に、父の視線を感じた。
振り返らなかった。
振り返れば、たぶん、赦してしまうから。
会館の外は、よく晴れていた。
市場の方角から、焼き栗の匂いがした。




