EPISODE09 山岳部部室の午後
大倉尾根の合同山行から、一週間が過ぎた。
水光大学のグラウンド横には、文化系・体育会系を問わず、大小さまざまな部活が押し込められた古い部室棟が建っている。
山岳部の部室は、その四階の一番奥だった。
六畳ほどしかない狭い部屋である。
しかも、その半分近くを歴代部員たちが残していった装備品が占領していた。
テント。
シュラフ。
古いコッヘル。
ガスストーブ。
ヘッドライト。
誰が買ったのか分からない大型ザック。
それらは透明なプラスチックケースへ分類され、部屋の奥に積み上げられている。
手前半分には、くたびれた二人掛けソファとローテーブル。
ミーティングというより、一人暮らしの学生の部屋に置いてありそうな応接セットだった。
壁際には一応、立派な事務机が一つある。
名目上は部長席。
しかし、福山俊祐がここへ姿を見せるのは週に一度あるかないかだった。
結果として、机の上には芦川翔子のノート、山岳地図、大学のファイル、筆記用具が並び、完全に副部長専用席となっている。
その日も芦川は、授業が終わると真っすぐ部室へ来ていた。
黒縁の眼鏡を少し押し上げ、机いっぱいに三冊のガイドブックを広げる。
「……違う。」
一冊を閉じる。
別の一冊を開く。
「これも違うなあ。」
小さくため息をついた。
次の公式合同山行までは、まだ時間がある。
その前に何度か練習山行を入れたい。
問題は、一年生四人の能力差だった。
宮木景美。
体力だけなら、すでに普通の大学山岳部員を上回っているかもしれない。
大倉尾根を登っても、最後まで余裕があった。
今必要なのは体力強化ではない。
歩き方。
下り。
岩場での身体の使い方。
そして、体力に任せて突っ込まない判断力。
一方、大古森瞳。
こちらは逆だった。
技術以前に、まず長時間歩ける身体を作らなければならない。
大倉尾根では、花立山荘までで限界を迎えた。
田村智代は技術不足。
だが根性と集中力がある。
青柳豪毅はすべてが平均的。
その代わり、人の面倒を見る能力は高そうだった。
「……どうすればいいの、これ。」
思わず声に出た。
全員を同じ山へ連れて行けば、宮木には物足りない。
宮木に合わせれば、大古森が壊れる。
大古森に合わせれば、宮木の練習にならない。
芦川はガイドブックをめくりながら、額へ指を当てる。
「景美さんには、もう少し技術が必要で……。」
「瞳さんには、長く歩ける山……。」
「でも田村さんもいるし……。」
そこまで考えたところで、部室のドアが勢いよく開いた。
「ハロー、山の民。」
芦川は反射的に顔を上げる。
「……神林先生。」
黒髪のロングヘアを揺らしながら、神林公子が立っていた。
水光大学英語専任講師。
三十歳。
立ち居振る舞いだけを見れば、どこかの良家の令嬢かと思わせる上品さがある。
だが、その口から出てくる言葉まで上品とは限らない。
芦川は二年生のとき、神林の英文読解を一年間履修していた。
授業そのものは非常に分かりやすかった。
しかし、英文に俗語が一つ出てくるたびに、神林は嬉々として脱線した。
映画ではこう使う。
恋人同士ならこういう意味になる。
アメリカのバーで迂闊に言ったらこう誤解される。
そのたびに教室は爆笑し、芦川も何度顔を赤くしたか分からない。
「先生、どうしたんですか。」
「コーヒー。」
「はい?」
「響子に聞いたら、ここにインスタントコーヒーがあるって。」
神林は当然のように部室へ入り込む。
手には分厚い英語の資料を抱えていた。
「それと仕事。」
「仕事?」
「同時通訳の予習。」
声を少し落とす。
「副業。」
「大学には?」
「内緒。」
即答だった。
「お願いだから、そんなこと学生に言わないでください。」
「翔子ちゃんは口が堅いから大丈夫。」
神林はソファへ腰を下ろし、資料をテーブルへ置く。
「企業の会議って専門用語が多いのよ。現場で『知らない単語でした』じゃ済まないから、先に頭へ入れておくの。」
そう言いながら、棚を勝手に開け始める。
「コーヒーどこ?」
「右から二番目です。」
「あった。」
勝手知ったる他人の部室である。
芦川は呆れながらも笑った。
神林がここへ現れるのは初めてではない。
大学関係者に見られず一人で資料を読みたいとき、なぜか山岳部室を使う。
樋口先生が監督をしている関係で、居場所を知っているからだった。
神林は紙コップへコーヒーを注ぎながら、ふと芦川の机を見る。
「ずいぶん山の本広げてるじゃない。」
「次の練習山行を考えてまして。」
「ふうん。」
一口飲む。
そして、いきなり言った。
「なんか悩みでもあるの?」
「ありますけど。」
「彼氏とうまくいってないとか?」
「違います!」
芦川は反射的に否定した。
「そんなに力いっぱい否定すると怪しいわね。」
「先生。」
「はいはい。」
神林は楽しそうに笑う。
芦川は一度ため息をつき、それから椅子の背もたれへ身体を預けた。
「実は、一年生が四人入ったんですけど。」
「優秀じゃない。」
「それが、能力が全然違うんです。」
芦川は大倉尾根での様子を簡単に説明した。
体力があり余っている宮木。
完全に限界を迎えた大古森。
音楽活動で練習参加が限られる田村。
特別な能力はないが、周囲をよく見る青柳。
神林はコーヒーを飲みながら、黙って聞いていた。
「だから、次に全員でどこへ行けばいいのか分からなくなって。」
「なんで全員連れて行くの?」
「え?」
芦川の思考が止まった。
神林は不思議そうな顔をする。
「練習なんでしょ?」
「はい。」
「だったら分ければいいじゃない。」
「分ける?」
「レベル別。」
あまりにも簡単に言われ、芦川はしばらく瞬きをした。
神林は続ける。
「私、大学院の頃に英会話教室でバイトしてたの。」
「そうなんですか?」
「中学生から会社役員まで来るようなところ。」
神林は懐かしそうに笑う。
「英語なんて全員レベルが違うわよ。アルファベットみたいなところから始める人もいれば、海外赴任前のビジネスマンもいる。」
「それを一緒に教えるわけにいかない。」
「だからクラス分けするの。」
指を一本立てる。
「初心者は初心者。」
もう一本。
「中級者は中級者。」
もう一本。
「できる人はできる人。」
芦川は黙って聞いている。
「私は初心者担当が多かったわ。」
「先生が?」
「失礼ね。」
神林は笑う。
「手取り足取りよ。中高生相手に、be動詞から発音まで。」
「でも、できる子には別の課題を出す。」
「全員に同じことをやらせる必要なんてないもの。」
その瞬間だった。
芦川の頭の中で、何かがきれいにつながった。
「……そうか。」
「ん?」
「練習山行なら、分けていいんだ。」
公式合同山行は全員参加が基本。
だから無意識のうちに、練習山行も全員で行くものだと思い込んでいた。
だが、練習の目的は能力を伸ばすことだ。
全員へ同じ練習をさせる必要などない。
芦川は勢いよくガイドブックを開く。
「宮木さんには、体力じゃなくて下りと足運びを練習できるコース。」
ページをめくる。
「大古森さんには、危険箇所がなくて、途中で休みながら長時間歩ける低山。」
さらに別の地図を引き寄せる。
「青柳くんは……大古森さんの方に入れようかな。」
神林が笑う。
「急に元気になったわね。」
「先生。」
「なに?」
「ありがとうございます。」
「私は登山の話、何もしてないけど。」
「十分です。」
芦川はすでにガイドブックへ夢中だった。
神林はそんな学生を眺めながら、もう一口コーヒーを飲む。
「若いっていいわねえ。」
「先生も三十でしょう。」
「学生から見たら立派なお姉さんです。」
「自分で言います?」
「言うわよ。」
そして何事もなかったかのように、英語資料を開いた。
狭い山岳部室に、紙をめくる音が二つ重なる。
一方は国際ビジネスの通訳資料。
もう一方は山岳ガイドブック。
しばらくして、芦川のノートには二つの見出しが書き込まれていた。
――宮木景美・強化プラン。
――大古森瞳・基礎体力プラン。
水光大学山岳部一年生四人の育成は、ここから少しずつ別々の道を歩き始めることになる。




