EPISODE08 塔ノ岳山行終了
午後六時を過ぎると、大倉登山口には夕暮れの気配が濃くなっていた。
日中あれほど多かった登山者も、もうまばらだった。バス停の周辺には下山を終えた何人かが残っているだけで、朝の賑わいが嘘のように静かになっている。
樋口響子はアルファードの脇に立ち、何度目か分からない腕時計の確認をした。
「……遅いわね。」
福山俊祐はベンチに腰掛けたまま、登山道の方向を見る。
「もう来ると思います。」
「さっきもそう言ったじゃない。」
「そうでしたっけ。」
「そうよ。」
樋口は眉をひそめる。
誰も怪我をしていない。
芦川からも途中で連絡が入っている。
頭では理解している。
それでも、自分が監督を務める部活動で学生三人が予定時刻を大幅に過ぎても山から戻らないという状況は、落ち着いていられるものではなかった。
「これで何かあったら、大学への報告書を何枚書くことになるのよ……。」
小さくつぶやく。
宮木景美が苦笑した。
「先生、心配するところ、そこなんですね。」
「大事なところです。」
樋口は即答した。
「あなたたちが怪我したら、あなたたちは痛い。私は怒られる。誰も得しないでしょう。」
「ものすごく分かりやすいです。」
田村智代が妙に感心したようにうなずいた。
そのときだった。
福山が立ち上がった。
「来た。」
三人の視線が一斉に登山道へ向く。
木立の向こうから、まずメタルフレームの眼鏡が見えた。
青柳豪毅だった。
自分のザックに加え、もう一つの小さなザックを抱えるように持っている。
その後ろ。
一歩。
また一歩。
大古森瞳が歩いていた。
そして、その横を離れずに歩いている栗色のポニーテール。
「副部長!」
宮木が駆け寄ろうとする。
「走らない!」
まだ距離があるのに、芦川の声が飛んできた。
宮木は思わず足を止めた。
「……最後まで副部長だ。」
福山が笑う。
三人が駐車場へ入ってきた。
時刻は午後六時十五分を少し回っていた。
「ただいま戻りました。」
芦川が樋口へ頭を下げる。
しかし、その隣の大古森には、同じことをする余裕さえなかった。
「……着いた……。」
その場へ座り込みそうになる。
慌てて宮木が身体を支えた。
「瞳ちゃん、大丈夫?」
「……もう、無理……。」
朝には決して口にしなかった言葉だった。
その一言を聞いて、芦川は初めて緊張を解いた。
無理。
そう言えるところまで帰ってこられた。
もう頑張る必要はない。
「お疲れさま。」
芦川は大古森の肩へ軽く手を置いた。
「今日はもう何もしなくていいよ。」
大古森はうなずくだけだった。
泣く気力も残っていないように見えた。
青柳も大古森のザックを地面へ下ろし、大きく息を吐く。
「……大倉尾根って。」
誰に言うでもなくつぶやいた。
「厳しいところなんですね。」
朝は、整備された道と聞いていた。
危険な岩場もない。
登山者も多い。
だから何となく、初心者でも簡単に登れる山なのだと思っていた。
違った。
道が安全であることと、登山そのものが楽であることは、まったく別だった。
何時間も続く登り。
終わりの見えない階段。
そして、そのすべてを登った分だけ、自分の脚で降りてこなければならない。
青柳は初めて、その当たり前の重さを知った気がした。
◇
全員がアルファードへ乗り込んだ頃には、外はかなり暗くなり始めていた。
「全員いる?」
運転席の樋口が確認する。
「います。」
芦川が答える。
「怪我人。」
「なし。」
「体調不良。」
「大古森さんが疲労していますが、休めば大丈夫です。」
「よし。」
樋口はエンジンをかけた。
「それなら帰ります。」
そしてバックミラー越しに学生たちを見る。
「今日の反省会は後日。」
「今は全員寝ていいから。」
大古森はその言葉を待っていたかのように、シートへ身体を預けた。
数分もしないうちに眠ってしまう。
田村も窓際へ頭を寄せ、目を閉じた。
宮木だけはまだ元気だった。
「副部長。」
「なに?」
「次はどこの山ですか?」
芦川は思わず彼女を見る。
「今日帰ってきたばかりでしょう。」
「でも、楽しかったです。」
本心なのだろう。
あれだけ歩いても、もう次を考えている。
芦川は少し呆れ、それから笑った。
「まず反省会。」
「えー。」
「そのあと。」
「はい。」
宮木はそう答えると、ようやくシートへ深くもたれた。
しばらくすると車内は静かになった。
高速道路を走るタイヤの音だけが、低く響いている。
芦川は窓の外を眺めた。
暗くなった丹沢の山並みが、少しずつ遠ざかっていく。
今日一日で、一年生四人のことがずいぶん分かった。
宮木景美。
体力は想像をはるかに超えている。
登りなら、今の自分についてくることすらできる。
しかし経験がない。
体力があるがゆえに、勢いで行動してしまう危うさもある。
体力を、技術と判断力へつなげなければならない。
田村智代。
体力は平均的。
技術もまだない。
だが、集中力がある。
一度教えたことを丁寧に繰り返すことができる。
ただし、弦楽合奏との兼部だ。
練習山行へどれだけ参加できるのか。
そこが問題になる。
青柳豪毅。
能力そのものは平凡だ。
体力が特別あるわけでもない。
気が強いわけでもない。
だが、人を見ることができる。
今日、大古森の横を最後まで歩いた。
自分も初めての登山だったのに、不満も言わずに荷物まで持った。
それは、山岳部にとって決して小さな能力ではない。
そして。
大古森瞳。
芦川は眠っている少女を見る。
予想以上に体力がなかった。
今日の大倉尾根は、明らかに彼女の現在の能力を超えていた。
(……少し厳しすぎたかな。)
初めてそんな考えが浮かんだ。
大倉尾根を選んだ判断そのものが間違っていたとは思わない。
宮木には十分すぎる余裕があった。
青柳も田村も、自分の課題を知ることができた。
大古森も無事に帰ってきた。
それでも。
山頂にも届かず、最後には立っているのがやっとになるまで疲れさせた。
教育として、本当にこれで良かったのか。
芦川は答えを出せない。
「翔子。」
隣から小さな声がした。
福山だった。
「考えすぎ。」
芦川は少し驚いて振り向く。
「顔に出てた?」
「出てる。」
福山は窓の外を見ながら続ける。
「誰も怪我しなかった。」
「四人とも、朝より山のことを知ってる。」
「今日はそれでいいんじゃないか。」
芦川はしばらく黙っていた。
「……部長らしいこと言うね。」
「一応部長だから。」
「普段も言って。」
「それは翔子に任せる。」
「もう。」
思わず笑ってしまう。
だが、それだけで少し肩の力が抜けた。
芦川はもう一度、一年生四人を見る。
体力お化け。
芸術家。
内向的な読書少女。
不器用な眼鏡男子。
見事なまでに、ばらばらだった。
この四人を、これからどうやって山岳部員にしていくのか。
宮木の速さをどう抑える。
大古森の体力をどう引き上げる。
田村にどうやって経験を積ませる。
青柳には何を任せれば伸びるのか。
考えることはいくらでもある。
芦川は窓ガラスへ頭を預けた。
大変だ。
間違いなく大変な一年になりそうだった。
それなのに、不思議と嫌ではなかった。
むしろ少しだけ、楽しみでもある。
アルファードは夜の東名高速を東京へ向かって走っていく。
こうして、水光大学山岳部の一年生四人にとって最初の合同山行は終わった。
誰かにとっては、初めて見る山頂からの富士山。
誰かにとっては、たどり着けなかった塔ノ岳。
誰かにとっては、自分以外の誰かを支えて歩いた一日。
そして宮木景美にとっては――。
この日まだ本人さえ知らなかった、遥か遠い山々へと続く、最初の一歩だった。




