EPISODE07 それぞれの下り
堀山の家へ着いたとき、芦川翔子は腕時計へ視線を落とした。
午後四時を少し回っている。
予定より、四十分近い遅れだった。
樋口響子が迎えに来る時刻まで、決して余裕があるとは言えない。
もちろん、日没まではまだ時間がある。
しかし、初心者を連れて歩く山で「まだ大丈夫」と考えることほど危険なものはない。
芦川は立ち止まり、全員を見回した。
福山俊祐はまだ歩ける。
宮木景美は相変わらず疲れを感じさせない。
田村智代も慎重ではあるが、自分のペースで確実に下れている。
問題は――。
大古森瞳だった。
丸太階段を前にすると、足が止まる。
一段下りるたびに呼吸を整え、また一段。
その繰り返しだった。
疲労だけではない。
身体が、下りの動きを怖がっている。
(このままじゃ……。)
芦川は静かに息を吐いた。
(樋口先生が心配する。)
迎えの時間を過ぎれば、あの先生は必ず登山口から連絡を入れてくる。
最悪の場合、自分たちを探しに登ってくるかもしれない。
それだけは避けたかった。
「部長。」
芦川が声を掛ける。
福山はすぐに歩みを止めた。
「ここからは三人を先に連れて下りてください。」
福山は一瞬だけ芦川の表情を見つめる。
その意図を理解すると、小さくうなずいた。
「了解。」
「宮木さん。」
「はい!」
「田村さん。」
「はい。」
「部長について先に下山してください。」
宮木が少し戸惑ったように尋ねる。
「副部長は?」
「私は後ろ。」
それだけで十分だった。
宮木は何か言いかけたが、飲み込む。
副部長がそう判断したのなら、それが最善なのだ。
もう、この半日で彼女はそれを学び始めていた。
福山が三人へ向き直る。
「じゃあ行こう。」
宮木は最後に一度だけ振り返る。
「副部長。」
「ん?」
「待ってます。」
芦川は笑った。
「追いつくから。」
四人はゆっくりと下山を再開する。
やがて木立の向こうへ姿が消えた。
◇
静けさが戻る。
残ったのは、芦川、大古森、青柳の三人だった。
芦川は大古森のザックを見た。
二十リットルほどの小さなザック。
決して重くはない。
しかし、疲れ切った身体には、その数キログラムが何倍にも感じられる。
「青柳くん。」
「はい。」
「お願いがある。」
「はい。」
「瞳さんのザック、持ってあげて。」
青柳は迷わなかった。
「分かりました。」
大古森は慌てて首を振る。
「で、でも……。」
「私が持ちます。」
「いいの。」
芦川は優しく言った。
「今日は助けてもらう日。」
「次に誰かが困ったら、そのとき返してあげればいい。」
大古森の目が少し潤む。
「……はい。」
青柳は自分のザックを前に回し、大古森のザックを背負い直した。
二つ合わせても歩けない重さではない。
むしろ、自分にはまだ余力がある。
「軽くなった?」
芦川が尋ねる。
大古森は肩を動かしてみる。
「……うん。」
その声は、朝より少しだけ明るかった。
芦川は大古森の隣へ並ぶ。
「ここからは急がない。」
「一歩ずつ。」
「転ばないことだけ考えよう。」
「山頂へ行けなかったことは、今日は忘れていい。」
「でも……。」
「今日の目標は変わらない。」
芦川は穏やかに微笑んだ。
「自分の足で、大倉へ帰ること。」
その言葉に、大古森は小さくうなずく。
青柳も黙って隣を歩き始めた。
三人の歩幅は自然とそろう。
誰も急がない。
誰も焦らない。
丹沢の長い尾根道は、夕方の柔らかな光に包まれ始めていた。
その光の中を、三人は一歩、また一歩と、大倉登山口を目指して静かに歩き続けるのだった。
午後五時五分。
最後の石段を下り切ると、見慣れた大倉登山口のバス停が夕暮れの光に照らされていた。
「着いたぁ……。」
宮木景美が大きく背伸びをする。
さすがに脚には疲れが残っているが、その表情は朝と変わらず明るい。
田村智代はストック代わりに使っていた木の枝をそっと道端へ戻し、ほっと息をついた。
「本当に下りられた……。」
福山俊祐は腕時計を見た。
予定より遅れたとはいえ、まだ午後五時を少し回ったところだった。
「駐車場だ。」
三人は歩き出す。
その先で、白いアルファードの横に腕を組んで立つ女性が、一行へ気付いた。
「やっと来た。」
樋口響子だった。
普段はどこか余裕のある表情を浮かべている彼女だが、このときばかりは落ち着かない様子で腕時計と登山道を何度も見比べていた。
三人の姿を確認すると、小走りで近付いてくる。
「お疲れさま。」
そう言ったものの、視線は三人の後ろへ向いていた。
「あれ?」
人数が足りない。
芦川翔子。
青柳豪毅。
大古森瞳。
三人の姿が見えない。
樋口の表情が一気に曇る。
「……翔子たちは?」
福山は落ち着いた声で答えた。
「後ろです。」
「え?」
「大古森さんの下りがかなり慎重になっているので、副部長が付き添っています。」
樋口は眉をひそめる。
「大丈夫なの?」
その声には、普段とは違う素直な不安がにじんでいた。
「怪我?」
「滑落?」
「捻挫とか?」
質問が続く。
福山は首を横に振った。
「いえ。」
「誰も怪我はしていません。」
「じゃあ……。」
「疲労です。」
短く答える。
「大古森さんが下りを怖がってしまって。」
「副部長が一歩ずつ歩かせています。」
「青柳くんも付いています。」
「だから時間が掛かっているだけです。」
樋口はようやく小さく息を吐いた。
「……そう。」
胸をなで下ろす。
「びっくりした。」
思わず本音が漏れる。
「先生。」
福山は少し頭を下げた。
「心配を掛けてすみません。」
「いや……。」
樋口は首を横に振る。
「謝ることじゃない。」
少し照れくさそうに笑う。
「私も登山は詳しくないけど、事故じゃないなら、それが一番。」
その言葉を聞き、福山もほっとした表情になる。
「翔子なら、無理は絶対にさせません。」
「そうね。」
樋口は苦笑した。
「あの子は私より慎重だもの。」
宮木が思わず笑う。
「副部長、本当に細かいです。」
「歩幅小さく。」
「急がない。」
「足の裏全部で着地。」
芦川の口調を真似すると、田村も思わず吹き出した。
「何回聞いたか分からないですね。」
福山も笑う。
「でも、そのおかげで誰も転ばなかった。」
「そうね。」
樋口は山の方へ目を向けた。
夕方の柔らかな光に染まる大倉尾根。
登山道は木々に隠れて見えない。
しかし、そのどこかを芦川たち三人がゆっくり歩いているはずだった。
樋口は腕時計を見てから、静かにつぶやく。
「翔子なら大丈夫。」
それは三人へ言い聞かせるというより、自分自身を安心させるための言葉だった。
アルファードの脇には、夕暮れの風が静かに吹き抜けていく。
その風に耳を澄ませながら、一同は残る三人の姿が登山口へ現れるのを、ただ静かに待ち続けた。




