EPISODE006 大倉尾根の下り
午後一時過ぎ。
塔ノ岳山頂標識のすぐ下にある広場では、多くの登山者が思い思いに休憩を楽しんでいた。
目の前には、雲一つない五月の富士山。
白い残雪をまとったその姿は、誰が見ても思わず息を呑むほど美しい。
芦川翔子と宮木景美は、到着してからすでに一時間近くが過ぎていた。
駅前のベーカリーで買ってきたサンドイッチを食べ終えた芦川は、宮木がおにぎりを頬張る様子を見ながら、丹沢山や蛭ヶ岳、遠くに霞む奥秩父の山々を案内して時間を過ごしていた。
やがて午後一時ちょうど。
尾根の向こうから福山俊祐の姿が現れる。
その十分ほど後には、田村智代も最後の石段を一歩ずつ登り切った。
「……着きました。」
肩で息をしながら、それでも田村は真っ先に富士山へ目を向ける。
疲れ切っていた表情が、少しずつ驚きへ変わっていった。
「これが……塔ノ岳。」
言葉はそれだけだった。
しかし、その一言だけで十分だった。
ここまで自分の足で登ってきた達成感が、その横顔から伝わってくる。
「お疲れさま。」
芦川は笑顔で二人を迎えた。
「まずはご飯にしよう。」
福山はザックを下ろし、コンビニで買ったあんパンとソーセージパンを取り出す。
「腹減ったな。」
苦笑しながら袋を開ける。
田村もザックから小さなお弁当箱を取り出した。
「昨日の夕飯の残りなんです。」
少し照れながらふたを開けると、卵焼き、きんぴらごぼう、鶏の照り焼きがきれいに詰められていた。
「おいしそう。」
宮木が思わず身を乗り出す。
「家庭のお弁当って感じですね。」
田村は少しはにかんで笑った。
「特別なものじゃないですよ。」
四人が昼食を囲む中、芦川は立ち上がって福山のザックを軽くたたいた。
「部長、バーナー借ります。」
「ああ、お願い。」
福山はパンを頬張りながらうなずく。
芦川は慣れた手つきで小型ガスストーブを組み立て、ケトルに水を注ぐ。
着火。
青い炎が静かに立ち上がり、ほどなくしてケトルの底から小さな泡が立ち始めた。
その間も、福山と田村はゆっくり昼食を続ける。
宮木は空になったおにぎりの包装をたたみながら、湯気の立つケトルを興味深そうに眺めていた。
「副部長、慣れてますね。」
「学生の頃から何度もやってるから。」
やがてお湯が沸騰し、小さく湯気を上げる。
芦川は紙コップを四つ並べ、ドリップバッグを開封した。
コーヒーの香ばしい香りが、山頂の風に乗って広がる。
「部長、ご飯終わった?」
「ああ、ちょうど。」
「じゃあ、コーヒーできるよ。」
福山は紙コップを受け取り、嬉しそうに笑う。
「山で飲むコーヒーは、やっぱりうまいな。」
「砂糖いる人?」
「はい!」
宮木だけが元気よく手を挙げる。
「二本ください!」
「甘党だね。」
芦川は笑いながらスティックシュガーを二本手渡した。
四人は富士山を正面に眺めながら、それぞれ紙コップを両手で包む。
温かなコーヒーの湯気が、五月の爽やかな風の中へ静かに溶けていった。
芦川は富士山を眺めながら、小さく息をつく。
予定どおり。
ここまでは、予定どおりだった。
◇
午後一時三十分。
山頂広場にも、少しずつ下山を始める登山者が増えてきた。
芦川は腕時計へ目を落とし、静かに立ち上がる。
「さて。」
三人が顔を上げる。
「登ったら、その分だけ降りないといけないのよ。」
宮木が苦笑する。
「忘れてました。」
「忘れないで。」
芦川は笑った。
「登山は、下山して終わり。」
その一言で、場の空気が少し引き締まる。
四人はザックを背負い直し、広場をあとにした。
山頂から花立方面へ下る最初の石段。
宮木が勢いよく降りようとした、その瞬間だった。
「景美さん。」
「はい?」
「ストップ。」
宮木は素直に足を止める。
芦川は自分の足元を指差した。
「下りは登りより難しい。」
「え?」
「体力じゃなくて、技術。」
そう言うと、自ら一段下りて見せた。
「まず歩幅は小さく。」
一歩。
「一気に降りない。」
もう一歩。
「急がない。」
さらに一歩。
「足の裏全体で、静かに着地。」
コツッ。
靴底が岩へ触れる音は驚くほど小さい。
「ほら。」
「音がしないでしょ。」
宮木は真似をしてみる。
ドン。
思ったより大きな音が響く。
「あっ。」
「まだ勢いで降りてる。」
芦川は笑いながら続ける。
「膝で止めようとすると疲れる。」
「足の裏全部で、地面を受け止める。」
田村が慎重に試す。
コッ。
ほとんど音がしない。
「そう。」
芦川がうなずく。
「田村さん、今のすごくいい。」
田村は少し驚いた表情になる。
「本当ですか?」
「うん。」
「慎重なのは、下りでは長所になる。」
今度は福山も一言添えた。
「登りは体力。」
「下りは技術。」
「だから初心者ほど焦らない。」
宮木も何度か繰り返す。
一歩。
一歩。
今度は音が小さい。
「できた。」
嬉しそうに笑う。
芦川も満足そうにうなずいた。
「その調子。」
「今日一日で完璧にはならない。」
「でも、意識するだけで全然違うから。」
五月の風が尾根を吹き抜ける。
四人はゆっくりと歩き始めた。
まだ誰も知らない。
この「静かに着地する」という一言が、このあと花立山荘から続く長い丸太階段で、一年生たちの明暗を大きく分けることになることを。
花立山荘の赤い屋根が見えてきたのは、午後二時半を少し回った頃だった。
丸太階段を慎重に下ってきた芦川翔子たち四人は、山荘前のベンチで並んで座る二人の姿を見つける。
「あっ。」
宮木景美が最初に声を上げた。
「青柳くん!」
青柳豪毅は立ち上がり、大きく手を振る。
「お帰りなさい!」
その隣では、大古森瞳もゆっくり立ち上がった。
山頂へは行けなかった悔しさは残っている。
それでも顔色は午前中よりずっと良くなっていた。
「体調は?」
芦川が近づいて尋ねる。
「はい。」
大古森は少しだけ笑う。
「おしるこ、すごくおいしかったです。」
「それは良かった。」
青柳も笑う。
「僕は月見うどんでした。」
「ずるい。」
宮木が思わず口を尖らせる。
「私も食べたかった。」
「だから言ったでしょ。」
福山が苦笑する。
「山小屋飯は下山してから後悔するんだ。」
その一言で、全員から笑いがこぼれた。
山頂へ行けなかった大古森の心も、その笑いで少しだけ軽くなる。
◇
休憩を終えると、芦川は全員を集めた。
「ここからが今日、一番大事。」
一年生四人の表情が自然と引き締まる。
目の前には、花立から堀山の家へ続く長い丸太階段。
登るとき以上に急に見える。
「下りは登りより危ない。」
芦川はそう言って、自分の足元を指さした。
「もう一回確認するね。」
そう言って、一段だけ下りて見せる。
「歩幅は小さく。」
さらに一段。
「一気に下ろうとしない。」
また一段。
「急がない。」
そして最後に、ゆっくりと足を着く。
「足の裏全体で、静かに着地。」
コツ。
ほとんど音がしない。
「これを繰り返すだけ。」
宮木がうなずく。
田村も真剣な表情で見つめている。
青柳も、自分の登山靴へ視線を落とした。
「青柳くん。」
「はい。」
「さっき教えたこと、大古森さんにも伝えてあげて。」
「分かりました。」
青柳は大古森の隣へ移る。
「ゆっくりでいいから。」
「僕も一緒に歩く。」
「……うん。」
大古森は小さく返事をした。
◇
下山開始から十分。
丸太階段は予想以上に一年生たちを苦しめた。
宮木は何度も歩幅が大きくなる。
「景美さん。」
芦川がすぐ声を掛ける。
「はい!」
「大きい。」
「あっ。」
慌てて歩幅を戻す。
「体力がある人ほど勢いで降りちゃう。」
「はい。」
「ブレーキは脚じゃない。」
芦川は笑って続ける。
「足の裏全部。」
「足の裏全部……。」
宮木は何度もその言葉を繰り返しながら歩き始めた。
一方、田村は登りより時間が掛かっていた。
しかし、一歩も乱れない。
慎重に足場を選び、静かに着地する。
福山はその様子を見てうなずいた。
「その歩き方なら転ばない。」
「本当ですか。」
「下りは慎重なくらいでちょうどいい。」
田村は少し安心したように笑った。
◇
そして最後尾。
「……。」
大古森は立ち止まっていた。
目の前には、十段以上続く丸太階段。
登りでは何とか足が出た。
だが下りは違う。
脚が前へ出ない。
「怖い……。」
思わず本音が漏れる。
青柳はすぐ横へ立った。
「大丈夫。」
「一段ずつ。」
「僕も同じ速度で降りる。」
大古森は恐る恐る右足を出す。
ドン。
少し大きな音が鳴る。
「もう一回。」
青柳は自分がゆっくり見本を見せる。
「副部長が言ってたみたいに。」
「足の裏全部で。」
コッ。
「こんな感じ。」
大古森も真似をする。
コツ。
「そう。」
青柳は笑った。
「今の。」
「すごくよかった。」
大古森も少しだけ笑う。
その笑顔を見た芦川は、少し前から振り返って静かに見守っていた。
(任せて正解だった。)
青柳は派手ではない。
足も速くない。
だが、人の不安を受け止めることができる。
その力は、山では何よりも大切だった。
花立から堀山へ続く長い階段。
初心者にとっては、まるで終わりが見えないような下りだった。
それでも六人は、誰一人急ぐことなく、一段、また一段と大倉へ向かって歩みを進めていく。
朝、登山口を出発したときとは違う。
疲労は全員の身体に刻まれていた。
しかしその疲れの中には、山を一つ越えた者だけが知る、小さな自信もまた芽生え始めていた。




