EPISODE05 塔ノ岳山頂
正午少し前。
最後の木段を登り切ると、視界が一気に開けた。
山頂だった。
「着いた……。」
宮木景美が思わず立ち止まる。
標高一四九一メートル。塔ノ岳。
五月の澄んだ空気の向こうには、幾重にも連なる丹沢の山並みがどこまでも続いていた。
そして、そのさらに向こう。
青い空を背負って、ひときわ大きな白い山が姿を現している。
「富士山……。」
宮木は息を呑んだ。
写真では何度も見た。
テレビでも見た。
だが、自分の足で登った山から見る富士山は、まったく別の存在だった。
芦川翔子は、その横で微笑む。
「今日はよく見えてる。」
宮木は言葉もなくうなずく。
しばらく二人とも景色を眺めていた。
急ぐ理由はない。
福山たちが来るまで、一時間以上あるだろう。
芦川はゆっくりと腕を伸ばし、稜線の先を指差した。
「あそこ。」
「はい。」
「あれが丹沢山。」
堂々とした山容が尾根の向こうに横たわっている。
「その奥に見える一番高いのが蛭ヶ岳。」
「蛭ヶ岳……。」
宮木は何度も名前を口にする。
山岳部へ入るまで、聞いたこともなかった名前だった。
「あそこまで縦走すると、一日がかり。」
「そんなに遠いんですか。」
「でも景美さんなら、そのうち歩けるようになる。」
宮木は照れくさそうに笑う。
「本当ですか?」
「本当。」
芦川は迷いなく答えた。
「体力だけなら、今日でも行けるかもしれない。」
「えっ。」
「でも技術と経験がまだ足りない。」
宮木は素直にうなずく。
「そこは勉強します。」
芦川はさらに西を指差した。
「富士山の右側に見える山並み、分かる?」
「……。」
「大菩薩嶺。」
「へえ……。」
「私は奥秩父が好きだから。」
少しだけ目を細める。
「ああいう森を歩いていると落ち着く。」
宮木はその横顔を見た。
普段、冷静で隙のない副部長が、山の話をするときだけは少し柔らかい表情になる。
そのことに、初めて気が付いた。
◇
「そろそろお昼にしよう。」
芦川はザックを下ろした。
ベーカリーの紙袋から取り出したのは、三角形に切られたサンドイッチ。
卵とハム、レタスがたっぷり挟まれている。
「副部長、おしゃれですね。」
「駅前のパン屋さん。」
「朝寄ったんですか?」
「昨日の帰りに予約しておいた。」
「さすが……。」
宮木は感心しながら、自分のザックをごそごそ探る。
出てきたのはコンビニのおにぎり二個。
鮭と昆布だった。
「何持ってくればいいか分からなくて。」
照れ笑いを浮かべる。
「十分。」
芦川は笑った。
「山で食べるおにぎりはおいしいよ。」
二人は並んで腰を下ろし、ゆっくり昼食を取る。
風が心地よく吹き抜ける。
宮木は鮭のおにぎりを一口食べるなり、目を丸くした。
「えっ。」
「どうしたの?」
「コンビニのおにぎりなのに、すごくおいしいです。」
芦川は思わず笑う。
「登山あるある。」
「疲れると、何でもごちそうになる。」
宮木は夢中になって二個目のおにぎりも食べ始めた。
山頂では時間がゆっくり流れる。
時折、登山者が到着して歓声を上げる。
写真を撮る人。
ベンチで昼食を広げる人。
その光景を眺めながら、二人は福山たちの到着を待った。
◇
一方その頃。
花立山荘では、大古森瞳がようやく落ち着きを取り戻していた。
持参した梅のおにぎりを半分ほど食べたものの、それ以上は喉を通らない。
「無理しなくていい。」
青柳が声を掛ける。
「少し残しても。」
「……うん。」
その時だった。
山荘の軒先から漂ってきた出汁の香りに、二人とも顔を上げる。
「いい匂いですね。」
青柳が思わずつぶやく。
食堂のメニューを見る。
月見うどん。
おしるこ。
文字を見ただけで、お腹が鳴りそうだった。
「せっかくだし。」
青柳は財布を取り出した。
「僕、月見うどん食べます。」
大古森は少し迷ってから、小さく笑う。
「私は……。」
「おしるこ。」
温かな湯気の立つお椀を両手で包む。
一口飲むと、甘さが疲れ切った身体へじんわり染み込んでいった。
「……おいしい。」
思わず涙が出そうになる。
青柳も熱いうどんをすすりながら笑った。
「登れなかったのは残念だけど。」
「こういう山小屋も、登山の楽しみなんですね。」
大古森は静かにうなずいた。
少しだけ表情が明るくなっていた。




