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EPISODE04 大倉尾根・階段地獄

堀山の家を過ぎると、登山道の表情が少しずつ変わり始めた。

 木の根が縦横に走る土の道は次第に姿を消し、代わって現れたのは、延々と続く丸太階段だった。

 階段。

 ただそれだけである。

 だが、一段一段の高さが微妙に違う。

 歩幅も一定ではない。

 足を上げるたびに使う筋肉がわずかに変わり、その小さな違いが積み重なって体力を奪っていく。


 登り始めて数分。

 最初に異変が現れたのは、青柳豪毅だった。

(……脚が重い。)

 太腿がじわじわと熱を持ち始める。

 呼吸も深くなり、額から流れた汗がメタルフレームの眼鏡へ落ちた。

 眼鏡を指で押し上げる。

 立ち止まるほどではない。

 だが、一歩ごとに「次の一段」が少し遠く感じられる。

 後ろから田村智代の呼吸も聞こえてきた。

 一定だったリズムが、少しずつ乱れている。

「……ふぅ。」

 短く息を吐く。

 そしてまた一段。

 さらに一段。

 ヴァイオリンを何時間も練習するときの集中力で身体を動かしているのだろう。

 足は止まらない。

 しかし、その代わり表情から余裕が消えていた。

 青柳は歩幅を小さくした。

 自分が苦しいのではない。

 田村のペースを崩さないように。

 そう考えてのことだった。

「ありがとう。」

 後ろから小さな声が聞こえた。

「え?」

「少し歩幅を合わせてくれましたよね。」

 青柳は少し照れたように笑う。

「……分かりました?」

「はい。」

「実は僕も結構苦しいです。」

 正直に言うと、田村も少し笑った。

「安心しました。」

 二人の間に、ほんの少しだけ緊張が解ける空気が流れる。

     ◇

 その頃、先頭では宮木景美が初めて息を切らしていた。

 とはいえ、その苦しさは他の一年生とはまるで違う。

「副部長……。」

「うん?」

「これ、ようやく登山っぽくなってきました。」

 笑いながら言う。

 芦川は思わず苦笑した。

「普通はもう少し前にそう思うんだけど。」

「今まで物足りなかったです。」

 呼吸は少し荒い。

 しかし足は止まらない。

 階段を登るリズムも乱れない。

 芦川は心の中で感心していた。

(本当に底が見えない。)

 登山経験がゼロでここまで歩ける人間は、そうはいない。

 ただ、身体能力だけで乗り切れるのは今日までだ。

 北アルプスも、南アルプスも、もっと先の世界では、体力だけでは決して通用しない。

 そのことを、この子には時間を掛けて教えていこう。

 そう思った。

     ◇

 一方、最後尾。

 福山俊祐は大古森瞳の背中を静かに見守っていた。

 大古森はほとんど言葉を発しない。

 肩は大きく上下し、ザックの肩ベルトを握る手にも力が入っている。

 それでも、一歩一歩だけは止めない。

「瞳さん。」

 福山が穏やかに声を掛ける。

「はい……。」

「少しだけ休もう。」

 大古森は反射的に首を振った。

「まだ……歩けます。」

 その言葉を聞いて、福山は苦笑した。

 芦川の予想どおりだ。

 この子は、自分から止まると言えない。

 それなら止めるのが先輩の役目だった。

「十分歩いた。」

 福山は登山道脇の丸太へ腰を下ろした。

「部長が休む。」

「だから一緒に休もう。」

 大古森は少し驚いた表情を見せる。

 そしてようやく、小さく笑った。

「……はい。」

 ザックを下ろした瞬間、肩から力が抜ける。

 水を一口飲み、大きく息を吐いた。


 福山は何も急かさない。

 時計だけを確認する。

 予定より十五分遅れ。

 まだ許容範囲だ。

 しかし、花立までこのままでは厳しい。

 スマートフォンを取り出し、芦川へ短く送る。

『階段でペース低下。花立で一度判断しよう。』

 送信して数秒。

 返信はすぐ返ってきた。

『了解。山頂は無理に目指さない。』

 その一文を見て、福山は静かにうなずいた。

(やっぱり翔子は最初から、そのつもりだったか。)

 塔ノ岳の山頂は逃げない。

 今日の目的は、登頂ではない。

 六人全員を、自分の足で大倉へ帰すこと。

 その考えだけは、部長と副部長の間で最初から完全に一致していた。

 福山は立ち上がる。

「行こうか。」

 大古森もゆっくりと立ち上がった。

 目の前には、まだ終わりの見えない丸太階段が続いている。


 花立山荘まで、あと少し。

 その「あと少し」が、この日の一年生たちにとって最も長い距離になろうとしていた。


 花立山荘の赤い屋根が見えたとき、時刻は午前十一時を少し回っていた。

 山荘前のベンチでは、多くの登山者がザックを下ろし、思い思いに行動食を口へ運んでいる。

 吹き抜ける風は尾根の下とは比べものにならないほど涼しく、汗ばんだ身体をゆっくりと冷ましてくれた。

 芦川翔子と宮木景美が先に到着してから、およそ四十分。

 ようやく福山俊祐たち四人の姿が尾根の向こうに現れた。

 先頭を歩く福山の歩幅は最後まで変わらない。

 その後ろを、顔を真っ赤にした田村智代が必死についてくる。

 さらに少し間を空けて、大古森瞳。

 青柳豪毅が、そのすぐ横で歩幅を合わせていた。

 山荘へたどり着いた瞬間、大古森はベンチへ腰を下ろすというより、倒れ込むように身体を預けた。

「……すみません。」

 その一言を絞り出すのが精一杯だった。

 青柳も大きく息をつきながらザックを下ろす。

 田村はペットボトルを両手で持ち、静かに水を飲んでいる。

 宮木だけはベンチへ座るなり、元気よく言った。

「副部長! お腹すきました!」

 福山が思わず笑う。

「お前、本当に底なしだな。」

「まだ歩けます!」

「それは見れば分かる。」

 和やかな空気が流れたのも束の間だった。

 芦川は腕時計へ目を落とし、それから全員を静かに見渡した。

 表情は穏やかだったが、その瞳は副部長として冷静に状況を分析していた。

 宮木は問題ない。

 自分となら、あと三十分ほどで山頂へ着くだろう。

 福山も余裕がある。

 田村は苦しそうだが、歩ける。

 しかし大古森は違う。

 ここから先も登れるかもしれない。

 だが、「登れる」と「無事に下山できる」は別の話だった。

 芦川はスマートフォンを取り出し、福山へ短くメッセージを送る。


 ――少し話せますか。

 福山は画面を見ると、小さくうなずき、山荘の建物から少し離れた場所へ歩いていく。

 尾根を渡る風の音だけが二人の間を流れた。

「……どう思う?」

 福山が先に口を開いた。

 芦川は迷わず答える。

「大古森さんはここまで。」

 福山も異論はなかった。

「俺もそう思う。」

「本人は行くって言うだろうけど。」

「言うね。」

 短いやり取りだった。

 だからこそ、お互いの考えがよく分かる。

 芦川は地図を広げる。

「私は景美さんを連れて先に山頂へ行きます。」

「了解。」

「部長は田村さんをお願いします。」

「うん。」

「田村さんなら、時間は掛かっても自分の足で登れます。」

 福山は少し笑った。

「翔子らしい判断だ。」

 芦川も苦笑する。

「全員を同じに扱う方が不公平だから。」

 地図をたたみ、二人はベンチへ戻った。


 芦川は一年生たちの前へ立つ。

「これから隊を三つに分けます。」

 三人の一年生が顔を上げる。

「宮木さん。」

「はい!」

「私と一緒に山頂へ向かいます。」

「はい!」

 返事は相変わらず元気だった。

「田村さん。」

「はい。」

「部長とゆっくり山頂を目指してください。」

 田村は少し安心したようにうなずく。

 芦川は最後に、大古森の前へしゃがみ込んだ。

「瞳さん。」

「……はい。」

「今日はここで休憩します。」

 大古森は驚いたように目を見開く。

「でも、まだ……。」

「ううん。」

 芦川は静かに首を振った。

「今日の目標は、山頂じゃない。」

 少し間を置く。

「自分の足で大倉へ帰ること。」

 大古森は唇をかみしめた。

 悔しさが、その表情にはっきりと浮かぶ。

「……まだ歩けます。」

「分かってる。」

 芦川は優しく微笑んだ。

「だから止めるの。」

 その一言に、大古森は何も返せなかった。

 涙がこぼれそうになるのを、必死にこらえている。

 芦川は立ち上がり、青柳へ向き直った。

「青柳くん。」

「はい。」

 少し緊張した返事だった。

「お願いがある。」

「はい。」

「大古森さんと一緒にここで休んでいてほしい。」

 青柳は一瞬だけ塔ノ岳方面を見た。

 今日初めての山。

 山頂まであと少し。

 その景色を見たい気持ちがないと言えば嘘になる。

 しかし、その迷いはほんの一瞬だった。

「分かりました。」

 即答だった。

 芦川はその返事を聞いて、小さく笑った。

「ごめんね。」

 そして少しだけ声を柔らかくする。

「この埋め合わせは、必ずするから。」

 青柳は照れくさそうに頭をかいた。

「そんな……。」

「僕は大丈夫です。」

「大古森さんが無事なら、それで。」

 その言葉に、芦川は胸の奥で静かにうなずいた。

(やっぱり、この子は人を支える側の人間だ。)

 いつか部を任せる日が来るかもしれない。

 そんな予感が、ふと頭をよぎる。

 五月の風が花立山荘を吹き抜ける。

 三つのパーティーは、それぞれ違う目的を胸に、再び歩き始めようとしていた。


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