EPISODE03 バカ尾根
隊列が二つに分かれると、山の静けさがいっそう際立った。
先頭を行く芦川翔子と宮木景美。
その後方では、福山俊祐を中心に、大古森瞳、青柳豪毅、田村智代の四人が一定の間隔を保ちながら歩いている。
同じ山道を歩いていても、歩く速度が違えば見える景色も変わる。
芦川はそれをよく知っていた。
十分ほど歩くと、前方に少し視界が開ける場所が現れた。
木立の切れ間から、秦野の市街地が朝日に照らされている。
まだ標高は高くない。
それでも街並みは思いのほか遠く見え、歩いてきた距離を実感させた。
宮木が感嘆の声を上げる。
「うわぁ……。」
その声は、景色に対する驚きというより、自分の脚でここまで来たことへの感動に近かった。
「もうこんなに高いんですね。」
「まだ序盤だけどね。」
芦川は笑う。
「塔ノ岳は、この何倍も登るよ。」
「楽しみです!」
迷いのない返事だった。
芦川は横顔を見つめる。
頬はわずかに赤くなっている。
額には汗も浮かび始めている。
だが呼吸は一定。
足取りもまったく乱れない。
経験者でも、ここまで自然に歩ける人はそう多くない。
(本当にすごい……。)
副部長として何人もの新入部員を見てきた。
最初は勢いだけで飛ばし、三十分でばてる者。
逆に慎重すぎて体力を余らせる者。
宮木はそのどちらでもなかった。
余裕がある。
余裕があるからこそ、周囲を見ることができる。
こればかりは教えて身につくものではない。
身体が持っている才能だった。
「副部長。」
「なに?」
「一つ聞いていいですか?」
「どうぞ。」
宮木は真面目な顔になった。
「私、このくらいの山なら、今日のうちにもう一回登れそうなんですけど。」
芦川は思わず吹き出しそうになった。
「それ、本気?」
「本気です。」
あまりにも真剣なので、笑うこともできない。
「景美さん。」
「はい。」
「今日は絶対にやらない。」
「ですよね。」
「山で一番怖いのは、『まだ行ける』って思った時なの。」
宮木は首をかしげる。
「疲れてからじゃないんですか?」
「疲れてからは、人は慎重になる。」
芦川は登山道を見つめながら続けた。
「怖いのは、体力に余裕があるからって、判断まで大胆になること。」
少しだけ間を置く。
「山は、調子のいい人から失敗することもある。」
宮木はその言葉を反芻するように黙り込んだ。
やがて、小さくうなずく。
「……覚えておきます。」
その返事に、芦川は安心した。
この子は、素直だ。
体力だけでは、山は続けられない。
だが、人の話を受け止める柔軟さがあれば、必ず伸びる。
ふと、自分が一年生だった頃を思い出した。
先輩から「ゆっくり歩け」と何度も注意された。
当時は意味が分からなかった。
しかし今なら、その言葉の重みがよく分かる。
歩く速度は、技術になる。
そして技術は、仲間を守る力になる。
その時だった。
ポケットのスマートフォンが短く震えた。
福山からのメッセージだった。
『少し休憩。大古森は落ち着いた。問題なし。』
芦川は画面を見て、小さく息をつく。
(よかった……。)
予想より悪くはなっていない。
福山なら無理はさせない。
その信頼があるからこそ、自分は前を任せてもらっている。
スマートフォンをしまい、宮木へ声を掛ける。
「少しだけペースを上げるよ。」
宮木の表情が明るくなる。
「はい!」
返事と同時に歩幅が自然と伸びる。
それでも今度は飛び出さない。
芦川の歩幅にぴたりと合わせてくる。
(飲み込みが早い。)
副部長は思わず口元を緩めた。
この一年生は、ただ体力があるだけではない。
山で必要なことを、一つひとつ自分の中へ吸収していく力を持っている。
――来年。
再来年。
きっとこの子は、水光大学山岳部の大きな戦力になる。
そんな予感が、五月の爽やかな風とともに芦川の胸をよぎった。
宮木と並んで歩きながらも、芦川翔子の頭の中は、この先の登山道だけを見ているわけではなかった。
今日の山行を決めたのは、自分だった。
新入部員をどこへ連れて行くべきか。
三月の終わりから、何度も地図を広げ、候補を書き出し、部誌を読み返し、過去の山行記録にも目を通した。
高尾山。
御岳山。
陣馬山。
どれも初心者向きとして有名だ。
だが、どこか違うと感じていた。
――山岳部として最初に歩く山ではない。
高尾山を歩けば、楽しい思い出にはなるだろう。
しかし、それだけでは「山を知った」とは言えない。
水光大学山岳部は、ハイキングサークルではない。
年に六回しかない公式合同山行では、山岳部として歩く意味のある山を選びたかった。
その一方で、無謀な山は論外だった。
まだ経験も技術もない一年生を、岩場や鎖場へ連れて行くことなど考えもしない。
何度も候補を消していった末に残ったのが、大倉尾根だった。
道は広く、よく整備されている。
登山者も多い。
エスケープルートも明確で、山小屋もある。
危険箇所は少ない。
しかし、楽ではない。
塔ノ岳まで続く長い登りは、体力がなければ必ず苦しくなる。
登山とはどういうものか。
その厳しさを、安全な環境の中で知ることができる山だった。
そして何より、東京から近い。
樋口監督に車を出してもらっても、日帰りで十分に帰ってこられる。
もし誰かが途中で歩けなくなっても、対応しやすい。
初心者教育には、これ以上ない教材だと芦川は考えた。
もちろん、その案を部長会議で示したとき、福山俊祐は少しだけ黙り込んだ。
『……大倉尾根か。』
短い言葉だった。
『一年生には、少しきつくないか。』
その一言だけで、福山が心配していることは分かった。
だが、反対はしなかった。
最後には、
『翔子が考えたなら、それで行こう。』
そう言って笑っただけだった。
その笑顔の裏にある感情を、芦川は知っている。
福山は山では誰より経験豊富だ。
だからこそ、大倉尾根の長さも苦しさもよく分かっている。
それでも異を唱えなかったのは、自分に任せきりにしている負い目があるからだ。
新歓も。
山行計画も。
装備の点検も。
部誌の編集も。
部員との面談も。
ほとんどを芦川が引き受けている。
福山は単独行とアルバイトで忙しく、「翔子なら大丈夫だ」と信頼して任せている。
その信頼は嬉しかった。
だが同時に、責任の重さでもあった。
もし今日、判断を誤れば。
もし誰かが怪我でもすれば。
それは部長ではなく、自分の判断ミスになる。
だからこそ、今日の目標は最初から決めていた。
全員を塔ノ岳へ立たせることではない。
全員を、自分の足で大倉へ帰すこと。
そのためなら、途中で引き返すこともためらわない。
山頂は逃げない。
経験は、次の山行でも積める。
だが、一度失った信頼や安全は戻らない。
芦川は前方へ続く登山道を見つめ、小さく息を吸った。
木々の間から差し込む五月の光は柔らかい。
しかし、その先には、花立へ向かう長い急登が待っている。
今日、一年生たちはそこで初めて、「登山は体力だけではない」という現実を知ることになる。
そして、自分もまた、副部長としての本当の力量を試されることになるのだった。
堀山の家を過ぎる頃には、太陽はすっかり高く昇っていた。
樹林帯を吹き抜ける風はまだ心地よいが、登山道の傾斜は容赦なく脚を削っていく。
「バカ尾根」。
登山者たちは半ば愛称のようにそう呼ぶ。
単純な登りが延々と続くだけだから、というのが由来だと言われているが、実際に歩いてみると、その単純さこそが一番厄介だった。
逃げ場がない。
景色で気を紛らわせる岩場もなければ、鎖場のような変化もない。
ただひたすら、自分の脚力と呼吸だけを相手に登り続ける。
だからこそ、登山者の実力がそのまま表れる。
芦川は歩きながら、一年生たちの様子を頭の中で整理していた。
宮木景美。
予想以上だった。
歩き方はまだ粗い。
急登になると腕の振りが少し大きくなり、無意識に余計な力を使っている。
それでも身体能力だけで、その欠点を補ってしまっている。
四年間きちんと育てれば――。
いや、二年間でも部のエースになれるかもしれない。
その一方で、青柳豪毅は真逆だった。
体力は特別あるわけではない。
歩く速度も速くない。
しかし、芦川が指示した歩幅を律儀に守り続けている。
無理をしない。
飛ばさない。
一定のリズムを崩さない。
地味ではあるが、登山では最も大切な資質だった。
(この子は、リーダー向きかもしれない。)
ふと、そんな考えが頭をよぎる。
部長になるには、誰より速く歩く必要はない。
周りを見て、状況を判断し、仲間を気遣えることの方が大切だ。
青柳には、その芽があった。
田村智代も健闘していた。
呼吸は苦しそうだが、弱音を吐かない。
一定の歩幅を保ち、足元を丁寧に確認しながら登っている。
ヴァイオリンで培われた集中力なのだろう。
一歩一歩を雑にしない。
だから体力以上には崩れない。
だが、下りになれば話は変わるだろう。
慎重さは長所にもなるが、技術不足を補えるほどではない。
そして、大古森瞳。
やはり一番苦しい。
福山が付いていなければ、今頃は何度立ち止まっていたか分からない。
それでも、彼女は歩いていた。
顔を真っ赤にし、肩で息をしながらも、自分から「帰りたい」とは決して言わない。
その姿を思い浮かべ、芦川は小さく唇を結んだ。
(意地だけで歩かせちゃ駄目。)
山では、「頑張ります」は危険な言葉になることがある。
本人が頑張れば頑張るほど、限界に気づくのが遅れるからだ。
その時、ポケットのスマートフォンが震えた。
福山からだった。
『今、堀山の家手前。大古森は歩ける。でも余裕なし。』
短い文章。
必要な情報だけが書かれている。
芦川はすぐに返信する。
『花立で長めに休憩。状況を見て判断します。』
送信ボタンを押すと、宮木が横から覗き込んできた。
「部長からですか?」
「うん。」
「大古森さん?」
「少し苦しいみたい。」
宮木は前を向いたまま、小さくつぶやいた。
「私、もっとゆっくり歩いた方がよかったんでしょうか。」
その声には、自分だけ元気でいることへの後ろめたさがにじんでいた。
芦川は首を横に振る。
「違うよ。」
「でも……。」
「景美さんが遅い人に合わせて歩くだけじゃ、今日は何も勉強にならない。」
宮木は黙って聞いている。
「大古森さんには大古森さんの課題がある。」
「田村さんには田村さんの課題。」
「青柳くんにも。」
「そして景美さんには、景美さんにしかできない課題がある。」
「私の課題……?」
芦川は笑みを浮かべた。
「体力がある人ほど、仲間を待つことを覚えなきゃいけない。」
宮木はしばらく考え込む。
やがて、ゆっくりとうなずいた。
「……それ、難しいですね。」
「うん。」
芦川も素直に認めた。
「だから四年間かけて覚えるの。」
その言葉を聞いた宮木は、少しだけ照れくさそうに笑った。
遠く、尾根の上に建つ花立山荘の屋根が木々の隙間からほんの一瞬だけ見えた。
まだ遠い。
しかし確実に近づいている。
その先に待つ長い丸太階段は、一年生四人へそれぞれ違う試練を与えることになる。
芦川は歩幅を変えず、静かに前を見据えた。
今日という一日は、まだ半分も終わっていなかった。




