EPISODE02 丹沢大倉尾根、それぞれの苦難
休憩を終えた六人は、再び大倉尾根を歩き始めた。
登山道は少しずつ傾斜を増していく。
木の根が露出した道を越え、小さな丸太階段を一段ずつ踏みしめる。街中では意識することもない太腿の筋肉が、少しずつ仕事を始めていた。
芦川は先頭で歩きながら、一定の歩幅を崩さない。
速く歩くことは簡単だ。
しかし、初心者を連れて歩く山では、速さよりも「乱れないこと」の方が何倍も重要になる。
後ろから聞こえる足音を耳で数える。
一、二、三、四、五。
福山の足音だけは少し離れている。
それでいい。
最後尾が最後尾の役目を果たしている証拠だった。
その一方で、芦川にはもう一つ気になっていることがあった。
宮木景美である。
彼女は呼吸一つ乱していなかった。
登山道の脇に咲くヤマツツジを見つけては立ち止まりそうになり、小鳥の声に反応し、また軽い足取りで歩き出す。
疲労の色が、まるで見えない。
(……本当に一年生?)
芦川は内心で苦笑した。
高校時代に陸上競技を続けていたとは聞いていた。
だが、実際に山へ連れてきてみると、その持久力は予想以上だった。
普通、初めての登山では、歩き方がぎこちなくなる。
余計な筋肉を使い、無駄に疲れる。
ところが宮木は違った。
身体の使い方そのものが自然なのである。
フォームが崩れない。
重心移動も滑らかだ。
技術はまだない。
それでも身体能力だけで、登山の基本を半分ほど身につけてしまっている。
(すごい子だ……。)
芦川は率直にそう思った。
ただし、それは長所であると同時に危うさでもある。
体力がある人ほど、自分の限界を知らない。
いつか、そのことも教えなければならない。
宮木が小走りで横へ並んできた。
「副部長。」
「どうしたの?」
「私、もう少し速く歩いても平気です。」
「知ってる。」
「じゃあ……。」
「今日はダメ。」
即答だった。
宮木は口を尖らせる。
「でも、このペースだと眠くなりそうです。」
「山は競技場じゃないから。」
芦川は少し笑って続けた。
「今日は全員を下山させるのが仕事。」
「……はい。」
返事はしたものの、宮木はまだ物足りなそうだった。
その様子を見て、芦川はふと思う。
(この子だけ抑えて歩かせる方が、かえって疲れるかもしれない。)
後ろを振り返る。
田村はまだ歩けている。
青柳も表情は硬いが、呼吸は安定している。
福山の姿も木立の向こうに見えた。
大古森の歩幅は小さいが、福山が上手く間合いを取っている。
――今なら、前を少し進めても大丈夫かもしれない。
芦川は歩きながら考えをまとめる。
福山が後ろを支えてくれている。
ならば、自分は体力が余っている宮木を少し前へ連れ出し、登山のリズムを覚えさせた方がいい。
そう判断した。
彼女は立ち止まり、全員へ声を掛ける。
「少し隊列を変えます。」
青柳が顔を上げる。
「青柳くん。」
「はい。」
「田村さんの前を歩いて。」
「えっ、僕ですか?」
「うん。」
「一定のペースで歩けばいいから。」
青柳は緊張した表情でうなずく。
自分にそんな役目が務まるのだろうか。
不安はあった。
しかし、芦川が任せると言う以上、やるしかない。
芦川は宮木へ向き直った。
「景美さん。」
「はい!」
「少しだけペースを上げよう。」
その一言で、宮木の表情がぱっと明るくなる。
「やっとですか!」
「でも飛ばさない。」
「分かりました!」
本当に分かったのかは怪しかったが、その返事だけは実に元気だった。
芦川は苦笑しながら歩き出す。
その横に宮木がぴたりと並ぶ。
二人の歩幅は自然とそろい、登山道を軽やかに登っていく。
後ろとの距離は少しずつ開いていった。
その背中を見送りながら、福山は最後尾で小さく笑う。
「……副部長も、今日は大変だな。」
その言葉に答える者はいなかった。
山はまだ始まったばかりだった。
先頭の二人が少しだけ速度を上げると、隊列は自然と二つに分かれ始めた。
芦川翔子は、あえて後ろを振り返らない。
何度も後ろを見れば、一年生は「待たせている」と余計なプレッシャーを感じてしまう。それよりも、自分の一定した歩幅だけを信じてついて来てもらう方がいい。
宮木景美は、その隣を実に気持ちよさそうに歩いていた。
登山道の勾配が増しても、呼吸はほとんど変わらない。
時折、視線を木々の間から見える尾根へ向けては、楽しそうに笑う。
「副部長。」
「うん?」
「やっぱり山って面白いですね。」
「まだ始まったばかりだけどね。」
「でも、坂道って走るのと似てます。」
芦川は苦笑した。
「似てるけど、違う。」
「違いますか?」
「走るのは自分の身体だけを前へ運べばいい。でも登山は、ザックも、水も、レインウェアも全部背負って何時間も歩く。」
少し間を置き、続ける。
「山で速い人は、脚が速い人じゃない。」
「……?」
「最後まで同じペースで歩ける人。」
宮木はしばらく考え込み、小さくうなずいた。
「マラソンみたいですね。」
「そう。だから今日は、その練習。」
その言葉に、宮木は少しだけ歩幅を小さくした。
芦川は内心で安心する。
(飲み込みが早い。)
身体能力だけではない。
教えたことを素直に吸収できるのも、この一年生の長所だった。
◇
一方、その少し後ろでは、青柳豪毅が緊張した面持ちで歩いていた。
芦川から「田村さんのペースメーカーになって」と頼まれたものの、自分も初心者である。
歩幅はこれでいいのか。
速すぎないか。
遅すぎないか。
頭の中では、そのことばかり考えていた。
「青柳くん。」
後ろから田村智代が静かに声を掛ける。
「はい。」
「ちょうど歩きやすいです。」
その一言だけで、青柳の肩から少し力が抜けた。
「よ、よかったです。」
田村は周囲の森を見回しながら歩く。
「歩いていると、不思議ですね。」
「何がですか?」
「最初は鳥の声ばかり聞こえていたのに……。」
少し耳を澄ませる。
「今は自分の呼吸も、足音も、一緒に音楽みたいに聞こえます。」
青柳には、正直よく分からなかった。
だが、否定する気にはなれない。
「田村さんらしいですね。」
そう言うと、彼女は少し照れたように笑った。
◇
最後尾では、福山俊祐が一定の距離を保ちながら大古森瞳を見守っていた。
大古森は黙って歩いている。
息遣いは浅く速い。
それでも、一歩も止まらない。
福山は横へ並ぶことなく、半歩後ろを歩き続けた。
声を掛けるべきか。
いや、まだ早い。
自分から弱音を吐くことも、大切な経験だ。
そう考えていた矢先だった。
「……すみません。」
大古森が立ち止まり、膝へ両手をついた。
肩が大きく上下している。
顔色も少し青い。
「苦しい?」
福山はしゃがみ込まず、同じ目線になるよう少し身体を傾けた。
大古森は何度か息を整えようとしてから、小さくうなずく。
「……はい。」
「足は?」
「まだ……動きます。」
「めまいは?」
「ありません。」
「吐き気は?」
「ないです。」
福山は短く息を吐いた。
体力切れだ。
体調不良ではない。
まだ無理をさせる段階ではないが、ここから先は慎重に見なければならない。
ザックのサイドポケットからペットボトルを取り出し、大古森へ差し出す。
「少し飲もう。」
「……ありがとうございます。」
冷たい水を一口飲むと、大古森の表情が少しだけ和らいだ。
しかし、その目には悔しさが浮かんでいた。
「私だけ……。」
「気にしなくていい。」
福山は穏やかに言う。
「初めての山で、自分の限界が分かる。それだけでも今日は十分収穫だ。」
大古森は返事をしなかった。
それでも、小さくうなずいた。
福山はスマートフォンを取り出し、芦川へ短いメッセージを送る。
――大古森、予定どおり体力低下。少し休憩して追う。
送信から数秒後。
画面が震えた。
返信は一行だけだった。
――了解。花立まで無理させないで。
福山は画面を閉じる。
その一文だけで十分だった。
先頭では芦川が全体を引っ張り、最後尾では自分が支える。
言葉は少なくても、お互いの考えていることはよく分かっていた。
丹沢の尾根道は、まだ静かに上へと続いている。
だがその先には、「バカ尾根」と呼ばれる長い登りが、六人を待ち受けていた。




