EPISODE01 丹沢大倉尾根、初めての山行
五月中旬の丹沢は、一年で最も瑞々しい季節を迎えていた。
夜明けまで尾根を覆っていた薄い靄はすでに姿を消し、朝日を浴びたブナやミズナラの若葉が、山肌一面を淡い緑色に染め上げている。風が吹くたびに新芽はきらきらと光を反射し、森全体が静かに息をしているようだった。
小田急線の渋沢駅から路線バスで20分ほど。
丹沢登山の玄関口である大倉登山口には、朝八時を回ったばかりだというのに、すでに多くの登山者が思い思いの準備を整えていた。
最新の軽量装備で身を固めたベテラン夫婦。
会社の仲間らしい若者のグループ。
一人黙々と靴紐を締め直す年配の男性。
犬を連れて散歩を兼ねて歩き始める地元の人。
それぞれが塔ノ岳という同じ目的地を目指しながらも、歩く理由は少しずつ違う。
その広場の一角で、水光大学山岳部の六人もまた、今日という一日の始まりを迎えていた。
もっとも落ち着いて見えたのは部長の福山俊祐だった。
黒髪を短く整えた長身の青年は、使い込まれた三十五リットルのザックを肩に担ぎ、登山口の様子をぼんやり眺めている。新品の装備が多い周囲の学生たちとは違い、彼のザックには北アルプスで付いたと思われる細かな擦り傷が無数に残っていた。
山を歩いてきた時間そのものが、装備に刻まれている。
そんな印象だった。
一方、その隣では青柳豪毅が落ち着かない様子で何度も胸のバックルを締め直していた。
(これで合ってるよな……。)
大学入学を機に長野県茅野市から上京し、一人暮らしを始めてまだ一か月。
体育会系の部活動など、それまでの人生とはまるで縁がなかった。
高校時代は放課後になると真っすぐ帰宅し、ライトノベルを読んでは夜更かしをする毎日だった。
そんな自分が、なぜ登山靴を履いて山へ来ているのか。
思い返しても少し不思議だった。
「人生経験が豊かになるぞ。」
新歓で熱心に勧誘してきた副部長、芦川翔子の言葉が頭に浮かぶ。
就職活動にも役立つかもしれない。
その程度の軽い気持ちで入部したのだが、今となっては新品の登山靴がやけに重く感じられた。
その青柳とは対照的に、宮木景美は落ち着きがなかった。
「副部長、まだですか?」
ザックを背負ったまま、その場で軽く屈伸運動を始める。
中学、高校と陸上競技を続けてきた身体は、止まっていることの方が苦痛らしい。
今にも走り出したそうな様子を見て、福山が苦笑した。
「まだ十分くらいあるぞ。」
「えー。もう歩きたいです。」
「元気だな。」
「せっかく山に来たんですから!」
その笑顔を見ながら、少し離れた場所で大古森瞳は小さく息をついた。
リュックの肩紐を握る手に、自然と力が入る。
山岳小説を読んで憧れた登山。
その第一歩が今日だ。
しかし、胸を満たしているのは期待よりも不安だった。
(ちゃんと歩けるかな……。)
隣では田村智代が静かに空を見上げている。
風に揺れる新緑を眺めながら、小さく目を細めた。
「……きれい。」
その一言には、演奏会場で音を聴くときと同じような感動がにじんでいた。
ヴァイオリンの表現力を磨くために山へ来た――。
普通なら笑われそうな理由を、彼女は今でも本気で信じている。
木々を揺らす風の音。
鳥のさえずり。
谷から吹き上げる空気。
そのすべてが、まだ知らない音楽につながっているような気がしていた。
その四人を、少し離れた場所から見つめている女性がいた。
栗色のポニーテール。
黒縁のスクエアメガネ。
登山用ジャケットの袖からクリップボードを取り出し、一人ひとりの装備を確認している。
副部長、芦川翔子。
部員たちは彼女を「副部長」と呼ぶが、実際の山行ではリーダーそのものだった。
(宮木さんは体力があり過ぎる。大古森さんはたぶん最初に苦しくなる。田村さんは体力は未知数。青柳くんは……。)
芦川は青柳の表情を見る。
緊張している。
だが逃げ出したい顔ではない。
不安でも、一歩を踏み出そうとしている顔だった。
(大丈夫。この子は最後まで歩こうとする。)
そんな予感があった。
経験はなくても、人は歩こうとする意志で驚くほど変わる。
それを彼女はこれまでの山行で何度も見てきた。
だから今日の目標は、「全員で塔ノ岳に立つこと」ではない。
――六人全員で、無事に大倉へ帰ってくること。
それだけだった。
そのとき、一台の白いアルファードが静かに駐車場へ滑り込んできた。
運転席の窓が開き、柔らかな栗色の髪を揺らした女性が顔を出す。
「みんな、おはよう。」
監督の樋口響子准教授だった。
助手席には歴史学の専門書が数冊積まれている。
どう見ても、山へ登る人間の車ではない。
それでも部員たちは一斉に姿勢を正した。
今日の山行が、いよいよ始まろうとしていた。
アルファードの運転席から降りてきた樋口響子は、ジャケットの袖を軽く整えながら六人の前に立った。
山岳部の監督とはいえ、登山靴ではなくローヒールのトレッキングシューズ。肩に掛けているのもザックではなく、革製のビジネスバッグだった。
学生たちの間では、「山に登らない山岳部監督」と半ば冗談交じりに言われているが、本人はまったく気にしていない。
「それじゃ、出発前に確認します。」
樋口はクリアファイルから一枚の紙を取り出した。
「登山届は提出済み。」
芦川が答える。
「天気予報。」
「晴れ。午後から雲が出ますが、降水確率は低めです。」
「エスケープルート。」
「今日は大倉尾根の往復です。状況次第では花立山荘で折り返します。」
樋口は満足そうにうなずいた。
「よろしい。」
そして一年生四人を見回す。
「今日、みなさんに覚えてほしいことは一つだけです。」
少し間を置いて、人差し指を立てた。
「山頂に立つことが成功ではありません。」
静かな声だった。
「全員で家へ帰ることが成功です。」
その言葉に、一年生たちは自然と背筋を伸ばした。
宮木だけは首をかしげる。
「先生、それって当たり前じゃないですか?」
「当たり前を守れない人が、毎年どこかで事故に遭うんです。」
穏やかな口調だったが、冗談ではないことは誰にも分かった。
「それと。」
樋口は毎年恒例らしい口調で続ける。
「無理しない。」
「はい。」
「怪我しない。」
「はい。」
「月曜日から学業。」
「はい。」
きれいに声がそろった。
青柳は思わず笑いそうになったが、横を見ると芦川も福山も真面目な顔で返事をしている。
どうやらこのやり取りは、本当に毎回行われているらしい。
「では、行ってらっしゃい。」
樋口は軽く手を振る。
「私は夕方までにここへ戻ります。迎えに遅れそうなら必ず連絡してください。」
そう言うと、再びアルファードへ乗り込み、エンジンを掛けた。
部員たちは車が見えなくなるまで見送り、それから芦川が腕時計を見た。
午前八時三十分。
「出発します。」
短い一言だった。
六人は一列になり、大倉尾根への登山道へ足を踏み入れる。
登山口を抜けると、空気が少し変わった。
舗装道路の熱気は消え、木立の間を吹き抜ける風が頬を優しくなでる。土の匂いと若葉の香りが混ざり合い、街では決して味わえない空気が肺の奥まで入り込んでくる。
青柳は思わず深呼吸をした。
(これが山の空気……。)
故郷の八ヶ岳を遠くから眺めて育ったが、本格的な登山は今日が初めてだった。
緊張はしている。
それでも、不思議と足は前へ出た。
先頭を歩く芦川の歩幅は一定だった。
速すぎず、遅すぎず。
初心者が乱れない速度を、身体が覚えているような歩き方だった。
そのすぐ後ろを歩く宮木は、何度も周囲を見回している。
体力を持て余しているのが誰の目にも分かった。
(こんなの、ウォーミングアップにもならないなあ。)
そんな考えが顔にそのまま出ている。
反対に、最後尾近くを歩く大古森は、一歩一歩を確かめるように慎重だった。
急いではいない。
しかし、無駄な力が肩に入り、ザックがわずかに揺れている。
その様子を最後尾から静かに見守る福山は、何も声を掛けなかった。
初心者は、自分のペースを見つけるまでが一番難しい。
余計な助言より、自分で歩き方をつかませる方が成長は早い。
それを知っているからだった。
新緑のトンネルを抜ける六人の列は、まだ整っている。
だが、この穏やかな時間が長くは続かないことを、経験者である芦川と福山だけは予感していた。
歩き始めて二十分ほど。
大倉尾根はまだ樹林帯の中を緩やかに高度を上げていた。
木漏れ日が登山道へまだら模様を描き、小鳥のさえずりが尾根のあちこちから聞こえてくる。五月の丹沢は、厳しい登山道というより、大きな森に迎え入れられているような穏やかさがあった。
先頭を歩く芦川翔子は、一定のリズムを崩さない。
一歩。
もう一歩。
歩幅も呼吸も変わらない。
後ろから見れば何気ない歩き方だが、実際には全員の様子を常に気に掛けていた。
足音。
呼吸。
ザックの揺れ。
誰がどこで疲れ始めるか。
それらは、歩いているだけで少しずつ表れてくる。
最初に気になったのは宮木景美だった。
疲れているのではない。
逆だった。
明らかに物足りないのである。
宮木は何度も視線を前へ向け、何か言いたそうにしていたが、我慢している。
やがて堪えきれなくなった。
「副部長。」
「なに?」
「このペース、このままずっとですか?」
「今はね。」
「もう少し上げても平気です。」
息一つ乱れていない。
顔色も変わらない。
高校時代に陸上競技で鍛えた身体は、まだ準備運動にもなっていないようだった。
芦川は小さく笑う。
「今日は一年生四人の初山行。」
「分かってます。」
「じゃあ答えも分かるよね。」
「……ですよね。」
宮木は肩をすくめた。
それでも笑顔だった。
速く歩きたいという欲求より、「みんなで山へ来られた」という喜びの方が勝っているらしい。
そのやり取りを聞きながら、田村智代は静かに周囲を見渡していた。
風が尾根を渡る。
木々が一斉に揺れ、その葉擦れが幾重にも重なって耳へ届く。
彼女は立ち止まりそうになるほど、その音に聴き入った。
(同じ風なのに、木によって音が違う。)
ブナの葉は柔らかく。
ミズナラは少し乾いた響き。
下草はささやくように。
まるで弦楽四重奏のように、それぞれ違う音色が重なっている。
「田村さん。」
芦川が振り返る。
「大丈夫?」
「あ、はい。」
田村は少し照れたように笑った。
「景色じゃなくて、音を聴いていました。」
宮木が目を丸くする。
「音?」
「ええ。」
少し考えてから続けた。
「森って、静かじゃないんですね。」
その言葉に福山が後ろから笑う。
「音楽やってる人らしい感想だな。」
田村は少しだけ頬を赤くした。
その隣を歩く青柳豪毅は、二人の会話を聞きながら苦笑していた。
(やっぱり芸術家って、見えてる世界が違う。)
自分なら「鳥が鳴いてるな」で終わるところを、彼女は音楽として受け止めている。
山岳部というより、不思議な人たちの集まりだ。
だが、それが嫌ではなかった。
歩き始めて三十分。
登山道の傾斜が少しだけ増した。
ここで、芦川は後方から聞こえる呼吸に意識を向ける。
「……はぁ。」
小さく、しかし規則正しかった呼吸が、一段深くなる。
「……ふぅ……。」
もう一度。
今度は少し長い。
芦川は振り返らずに歩き続けた。
耳だけが後ろを見ている。
福山も同じだった。
最後尾から視線を上げる。
大古森瞳の肩が、少し大きく上下し始めていた。
歩幅も、ほんのわずかに小さくなっている。
まだ本人以外には気付かれない程度。
だが、経験者には十分だった。
(来たか。)
芦川は心の中で呟く。
山岳小説を読み、憧れて入部した少女。
気持ちは誰より強い。
しかし、身体はまだ山を知らない。
無理をすれば、ここから一気に崩れる。
福山は何も言わず、大古森との距離を半歩だけ詰めた。
追い立てるのではない。
いつでも声を掛けられる距離。
それだけだった。
大古森は唇を結び、小さく拳を握る。
(歩ける。)
(まだ歩ける。)
そう自分に言い聞かせながら、一歩、また一歩と足を運ぶ。
しかし、その努力とは裏腹に、列の最後尾は少しずつ前との間隔を広げ始めていた。
そのわずかな変化を見逃すほど、芦川翔子は甘いリーダーではなかった。
列が乱れ始めたことに、気付いている者はまだ少なかった。
宮木景美は相変わらず軽快な足取りで歩いている。
田村智代は木々の間から差し込む光に目を奪われ、青柳豪毅は自分の呼吸を整えることに精一杯だった。
最後尾で大古森瞳の変化を見ていたのは、福山俊祐と芦川翔子だけである。
芦川は歩みを止めないまま、少しだけ首を後ろへ向けた。
「大古森さん。」
「……は、はい。」
返事はある。
しかし、声に力がない。
「呼吸は?」
「だ、大丈夫です。」
その言葉の途中で、一度息を吸い直した。
芦川はそれ以上何も言わなかった。
初心者は、少し苦しくなった程度では必ず「大丈夫」と答える。
本当に大丈夫だからではない。
迷惑を掛けたくないからだ。
だから言葉ではなく、身体を見る。
肩の上下。
視線の動き。
足の運び。
それらの方が、よほど正直だった。
やがて登山道脇の少し開けた場所に出ると、芦川は短く手を上げた。
「一度止まりましょう。」
全員が立ち止まる。
ザックを下ろすほどではない、小休止だった。
宮木がすぐに近寄ってくる。
「副部長、まだ全然平気です。」
「そうでしょうね。」
芦川は苦笑した。
「景美さんは、今日一番元気だから。」
「ですよね!」
屈伸運動まで始めようとする宮木を見て、福山が笑う。
「元気なのはいいけど、今日は競争じゃないぞ。」
「分かってますって。」
そのやり取りとは対照的に、大古森は黙ってストックにもたれるように立っていた。
額にはうっすらと汗が浮かんでいる。
まだ気温は高くない。
それでも汗が出るのは、呼吸が追いつき始めている証拠だった。
芦川は近づき、声の調子を変えずに尋ねる。
「正直に教えて。」
大古森は目を伏せた。
「……少しだけ、苦しいです。」
「息?」
「はい。」
「足は?」
「まだ動きます。」
芦川はうなずいた。
予想どおりだった。
脚力ではない。
心肺機能がまだ山のリズムに慣れていない。
今なら立て直せる。
しかし、全員を同じ速度で引っ張れば、この先の急登で一気に限界が来るだろう。
そのとき、福山が静かに口を開いた。
「翔子。」
部活動では「副部長」と呼ぶことが多い二人だが、登山中だけは昔から互いを名前で呼ぶ癖があった。
「後ろは任せる。」
短い一言だった。
芦川も、それだけで十分だった。
「お願いします。」
部員たちは二人を見比べる。
特別な相談をしたようには見えない。
しかし、その数秒で方針は決まっていた。
芦川は全員の前へ向き直る。
「ここから二班に分けます。」
一年生四人の表情が少しだけ緊張する。
「えっ。」
青柳が思わず声を漏らした。
「大古森さんのペースに合わせる班と、予定どおり進む班。」
静かな説明だった。
「無理に全員同じ速度で歩く必要はありません。」
宮木が真っ先に口を開く。
「副部長は前ですか?」
「うん。」
「やった。」
思わず笑顔になる。
その様子を見て芦川も少しだけ笑った。
「ただし、飛ばさない。」
「……努力します。」
福山が青柳へ視線を向ける。
「青柳。」
「はい。」
「山は、速く歩く人が偉いわけじゃない。」
「はい。」
「遅い人に合わせられる人の方が、いい登山者だ。」
青柳は真剣にうなずいた。
その言葉は、胸の奥へ静かに沈んでいく。
芦川は隊列を書き換えた。
先頭は自分。
その後ろに宮木。
続いて田村。
そして青柳。
少し間を空けて、大古森。
最後尾に福山。
――いや、と芦川は一瞬考え直した。
田村はまだ登山経験がない。
宮木について行けるほどの余裕はないだろう。
青柳も初心者だが、歩くリズムは安定している。
(もう少し様子を見てから判断しよう。)
そう心の中でつぶやく。
この時点では、まだ田村も青柳も大きく崩れてはいなかった。
ただ、この先に待っている花立への長い登りが、一年生たちの体力を容赦なく試すことを、芦川はよく知っていた。
彼女はザックの肩ベルトを締め直し、尾根の上へと続く登山道を見上げる。
「行きましょう。」
その声に、六人は再び歩き始めた。
ここから先、山は少しずつ、それぞれの本当の力を見せ始めることになる。




