EPISODE10 練習山行・黒川鶏冠山
六月最初の週末。
朝八時半の塩山駅前には、梅雨入り前の少し湿った風が吹いていた。
「……千七百十六メートル?」
大古森瞳が、不安そうに芦川翔子の顔を見る。
「はい。」
芦川は平然とうなずいた。
「今日の最高地点。黒川鶏冠山、標高千七百十六メートル。」
「塔ノ岳より高いじゃないですか」
「高いね。」
「私、大丈夫なんですか?」
先日の大倉尾根がよほど堪えたのだろう。
大古森の表情がみるみる曇っていく。
その隣で青柳豪毅もスマートフォンを取り出した。
「本当だ。塔ノ岳って千四百九十一メートルだから……二百メートル以上高い。」
「二人とも。」
芦川は苦笑した。
「山は、頂上の標高だけ見ちゃ駄目。」
二人が同時に顔を上げる。
「今日歩き始める柳沢峠の標高は、だいたい千四百七十二メートル。」
芦川は指で簡単な引き算をする。
「千七百十六引く、千四百七十二。」
「……二百四十四。」
青柳が答えた。
「そう。単純な標高差なら三百メートルもない。」
大古森が瞬きをする。
「じゃあ……。」
「今日のコースは、ほとんど高いところからスタートするの。」
芦川は笑った。
「もちろん途中で上ったり下ったりするから、実際に登る高さはもう少し増えるけどね。」
「なんだ……。」
大古森の肩から目に見えて力が抜けた。
「山の標高と、登山の大変さは別物。」
芦川は付け加える。
「これ、今日の最初の勉強。」
◇
八時半過ぎ。
三人を乗せた路線バスが塩山駅を出発した。
市街地を抜けると、車窓の景色は少しずつ山深くなっていく。
青柳は窓の外を眺め、大古森は時折ガイドブックへ目を落としている。
芦川は二人の向かいで腕を組んでいた。
今回の目的は明確だった。
大古森に、山を嫌いになってもらわないこと。
大倉尾根では、彼女の能力を超える負荷を掛けてしまった。
だから今回は逆にする。
標高差が小さい。
危険箇所も少ない。
森の中を長く歩くことができる。
大古森がどの程度なら余裕を持って歩けるのか。
それを確かめたかった。
そして、もう一人。
青柳。
彼を連れてきたのにも理由がある。
大倉尾根で見せた、人に歩調を合わせられる能力。
それをもう少し見ておきたかった。
山岳部には、速い人間だけが必要なのではない。
むしろ集団で歩くなら、遅い人間の隣を歩ける人間の方が貴重なことさえある。
やがてバスは高度を上げ、九時半前、柳沢峠へ到着した。
◇
「涼しい……。」
歩き始めて十分もしないうちに、大古森がつぶやいた。
六月とは思えないほど、森の中の空気は心地よかった。
新緑に覆われた登山道へ、木漏れ日が細かく落ちている。
足元には柔らかな土。
傾斜は緩い。
大倉尾根のように、目の前へ延々と階段が立ちはだかることもない。
芦川が先頭。
大古森が真ん中。
青柳が最後尾。
三人はゆっくりと森の中を進んだ。
「瞳さん、どう?」
「大丈夫です。」
「本当に?」
「本当に大丈夫です。」
大古森が笑った。
大倉尾根では、同じ言葉を口にしながら明らかに苦しそうだった。
今日は違う。
呼吸が乱れていない。
肩も上下していない。
足取りも軽い。
(やっぱり。)
芦川は前を向いたまま考える。
六本木峠。
横手山峠。
いくつかの小さな上り下りを繰り返しても、大古森の歩調はほとんど変わらなかった。
単純に体力がないわけではないのかもしれない。
急な登りが長く続くと、一気に心肺へ負荷が掛かる。
そこで限界を超えてしまう。
しかし、こうした緩やかな道なら、長時間でも歩ける。
(だったら鍛え方も変わってくる。)
大古森には、いきなり急登を登らせるより、まず長く歩くことに身体を慣れさせる。
そこから少しずつ傾斜を増やしていけばいい。
芦川の頭の中に、育成プランの輪郭が生まれ始めていた。
◇
歩き始めて二時間足らず。
三人は黒川山展望台への分岐へ到着した。
「先に展望台行こう。」
芦川の提案で、ザックを背負ったまま寄り道する。
十五分ほどで往復できる距離だった。
展望台へ出た瞬間、青柳が声を上げた。
「うわ……。」
森に囲まれていた視界が一気に開ける。
幾重にも重なる山並み。
大菩薩から奥秩父へ続く深い山々が、六月の空の下に広がっていた。
大古森も言葉を失っていた。
「すごい……。」
芦川はその横で、少し嬉しそうに山々を眺める。
「私、こういう景色好き。」
「奥秩父ですか?」
青柳が尋ねる。
「うん。」
「派手じゃないけど、森が深いから。」
芦川は遠くの稜線へ目を細めた。
「ずっと歩いていたくなる。」
大古森は黙ってその景色を眺めた。
山岳小説の中でしか知らなかった世界が、少しずつ現実のものになっている。
大倉尾根では苦しいという記憶ばかりが残った。
だが今日は違った。
歩くことそのものが楽しい。
そんな感覚を、初めて知った。
◇
分岐へ戻り、今度は黒川鶏冠山へ向かう。
ここまでとは少し様子が変わった。
岩が増え、足元もごつごつしてくる。
「ここから慎重に。」
芦川が声を掛ける。
「距離は短いから、焦らないで。」
大古森の歩幅が自然と小さくなる。
青柳も足元を確認しながら続く。
十分ほど。
「着いた。」
「……え?」
大古森が顔を上げた。
「ここ?」
「ここ。」
黒川鶏冠山、標高千七百十六メートル。
あまりにもあっさり到着したため、二人とも拍子抜けしたような表情をしている。
「千七百メートルって、もっと大変なのかと思ってました。」
「だから最初に言ったでしょう。」
芦川が笑う。
「標高だけじゃ分からないって。」
◇
帰路も穏やかだった。
岩のある区間だけは慎重に。
そこを抜ければ、再び緑の森。
大古森の歩調は最後まで大きく崩れなかった。
午後一時過ぎ。
三人は柳沢峠へ戻ってきた。
「終わった……。」
大古森が時計を見る。
そして、自分でも驚いたように言った。
「副部長。」
「なに?」
「前回に比べると、全然苦しくなかったです。」
「そう。」
芦川は笑った。
「それなら良かった。」
大古森も笑いかけた。
だが、ふと何かに気づく。
塔ノ岳より高い山なのに、今日は余裕を持って帰ってこられた。
標高差。
緩やかな登山道。
危険箇所の少なさ。
出発前に芦川が説明したことが、頭の中でつながった。
「……副部長。」
「うん?」
「もしかして、私に合わせて山のレベルを下げてくれたんですか?」
芦川は少しだけ黙った。
「練習だからね。」
それが答えだった。
大古森は自分の登山靴を見る。
悔しくないと言えば嘘になる。
だが、大倉尾根のときとは違った。
今日は最後まで歩けた。
景色も楽しめた。
自分にも歩ける山があると分かった。
だからこそ、もう一歩進んでみたいと思えた。
「副部長。」
「なに?」
「次は……。」
少し迷ってから、顔を上げる。
「もうちょっと、ひどいところに連れて行ってください。」
芦川は目を丸くした。
それから、声を上げて笑った。
「ひどいところって何。」
「今日より、もう少し大変なところ。」
「それなら考えておく。」
「お願いします。」
大古森は照れくさそうに笑った。
その横で、青柳も何か言いたそうにしている。
「青柳くんは?」
芦川から振られ、青柳は眼鏡を押し上げた。
「あの。」
「うん。」
「来週、宮木さんの練習山行ですよね。」
「そうだけど。」
「僕も行っていいですか?」
芦川が少し驚く。
「景美さんの方は、今日よりだいぶきつくするよ。」
「はい。」
「本当に?」
「今日……。」
青柳は少し言いにくそうに続ける。
「正直、ちょっと拍子抜けしました。」
「あ。」
大古森が睨む。
「ご、ごめん。そういう意味じゃなくて。」
慌てて訂正する。
「僕も、自分がどこまでできるのか知っておきたいんです。」
芦川はしばらく青柳を見る。
大倉尾根では、大古森に付き添わせた。
今日は大古森向けの山行。
二回とも、青柳自身の限界を見る機会にはなっていない。
(それもそうか。)
それに、将来のことを考えれば、青柳には様々なレベルの山を経験させておきたい。
「分かった。」
「いいんですか?」
「ただし。」
芦川は人差し指を立てる。
「景美さんについていこうとしないこと。」
「はい。」
「自分のペースを守る。」
「はい。」
「苦しくなったら言う。」
「……はい。」
「最後だけ間があった。」
「言います。」
芦川は満足そうにうなずいた。
「じゃあ参加していいよ。」
「ありがとうございます。」
◇
塩山駅へ戻るバスまでは、まだ時間があった。
芦川が時計を確認すると、二人へ声を掛けた。
「じゃあ、茶屋寄ろうか。」
「いいんですか?」
青柳が聞く。
「青柳くん。」
「はい。」
「この間の埋め合わせ。」
一瞬、意味が分からなかった。
だがすぐに、花立山荘で交わした約束を思い出す。
――この埋め合わせは必ずするから。
「あ……。」
「好きなの食べていいから。」
「そんな、別に気にしてないです。」
「私が気にしてるの。」
芦川はそう言って、柳沢峠茶屋へ入っていく。
大古森も後に続く。
「私もいいんですか?」
「もちろん。」
三人が選んだのは、とろろそばだった。
冷たい名水で締められた蕎麦に、とろろを絡めて口へ運ぶ。
「おいしい……。」
大古森が嬉しそうに言った。
青柳も黙々と箸を進める。
芦川はそんな二人を見ながら、温かいお茶を一口飲んだ。
今日分かったことは多い。
大古森は、歩けないわけではない。
青柳も、ただ人に合わせて歩くだけでは満足しなくなっている。
二人とも、大倉尾根のときから少しだけ変わっていた。
そして来週。
今度は宮木景美の番だ。
あの底の見えない体力を持つ一年生に、何を経験させるべきか。
芦川は蕎麦をすすりながら、すでに次の山のことを考えていた。
隣には、自分からその山行への参加を申し出た青柳がいる。
(さて。)
芦川は心の中でつぶやいた。
(来週は、今日みたいにはいかないからね。)
六月の柔らかな風が、柳沢峠の森を静かに吹き抜けていた。




