EPISODE11 神ノ川ヒュッテ
第3章 裏丹沢・大室山
六月中旬、土曜日。
空一面を薄い雲が覆っていた。
雨が降り出しそうな重苦しい曇天ではない。ところどころ雲が切れ、その隙間から青空と初夏の日差しが顔をのぞかせている。
早朝の橋本駅。
改札前に集まった三人の中で、最も元気だったのは、やはり宮木景美だった。
「おはようございます!」
「おはよう。」
「……おはようございます。」
芦川翔子がいつもの落ち着いた声で返し、青柳豪毅はまだ眠気の残る声で続いた。
宮木はすでに完全に目が覚めているらしい。
ザックを背負い、登山靴の紐もしっかり締め、今すぐにでも山へ向かって走り出せそうな顔をしている。
「景美さん、朝から元気ね。」
「今日はちゃんと歩ける山なんですよね?」
「その言い方だと、この前の瞳さんに怒られるよ。」
「あっ。」
宮木が口を押さえる。
青柳は苦笑した。
先週、自分が柳沢峠で似たような失言をしたことを思い出したのだ。
「今日の山は大室山。」
芦川はスマートフォンの地図を二人へ見せた。
「標高千五百八十七メートル。」
「塔ノ岳より高い。」
宮木がすぐ反応する。
「でも。」
青柳が眼鏡を押し上げる。
先週、芦川から教わったことを思い出していた。
「大事なのは登山口の標高ですよね。」
芦川の口元が少し緩んだ。
「正解。」
「神ノ川の登山口が四百メートルくらいだから……。」
青柳が暗算する。
「千百メートル以上。」
「そう。」
芦川はうなずいた。
「今日はちゃんと登ります。」
宮木の顔がぱっと明るくなった。
「やった。」
「喜ぶところじゃないと思うけど。」
青柳がぼそりと言った。
◇
三人は橋本駅からバスへ乗り込んだ。
さらに途中でもう一本のバスへ乗り継ぎ、道志川沿いの山深い地域へ入っていく。
車窓から見える景色は、橋本駅周辺とはまるで違っていた。
住宅が減る。
店が消える。
道路の両側を山が囲み、眼下には道志川が流れている。
やがてバスは、神の川入口のバス停へ到着した。
「ここから?」
宮木が周囲を見回す。
「ここから。」
芦川が答える。
「でも、まだ登山は始まらないよ。」
「え?」
「登山口まで林道を一時間半くらい歩くから。」
宮木の顔が一瞬固まった。
「一時間半?」
「そう。」
「それから大室山?」
「そう。」
「……結構ありますね。」
「だから今日は長いよ。」
芦川はザックの肩ベルトを締め直した。
「行こう。」
◇
三人は舗装された林道を歩き始めた。
道は神ノ川に沿って山奥へと延びている。
ところどころ木々の間から川面が見え、水の流れる音が聞こえてきた。
山道ではない。
急登もない。
ただひたすら林道を歩くだけ。
それだけに、宮木には物足りないらしい。
十分ほどすると、芦川の横へ並ぶ。
さらに数分すると、半歩前へ出る。
また戻る。
そして、また半歩前へ出る。
芦川は横目でその様子を見ていた。
「景美さん。」
「はい?」
「飛ばしたい?」
「……ちょっと。」
「駄目。」
「はい。」
三十秒もしないうちに、また歩幅が広がる。
芦川は苦笑した。
今日は宮木の体力を見る山行でもある。
しかし、だからといって登山口へ着く前から体力を使わせる意味はない。
「まだウォーミングアップ。」
芦川は言った。
「登山口に入る前なんだから、飛ばさず、気負わず、適当に歩いて。」
「適当に、ですか?」
「そう。適当に。」
宮木はうなずいた。
だが、やはり身体が速く歩きたがっている。
(これは、止めるより別のことを考えさせた方がいいな。)
芦川は話題を変えた。
「そうだ。二人とも、後期の履修どうするの?」
「え?」
突然大学の話になり、宮木の足が少し緩む。
「まだ全然考えてないです。」
「一年のうちは必修が多いからいいけど、二年になったら選択科目増えるでしょ。」
「はい。」
「取るなら、あの先生の社会学は楽。」
青柳が食いついた。
「単位取りやすいんですか?」
「出席してレポート出せば、まず落とさない。」
「それ重要ですね。」
「青柳くん。」
「はい。」
「大学は勉強するところだからね。」
「副部長が単位取りやすいって言ったんじゃないですか。」
芦川が笑う。
「でも、逆にあの先生はやめた方がいいかな。」
「厳しいんですか?」
「居眠りを絶対見逃さない。」
「どうなるんです?」
「突然指名される。」
「嫌だなあ……。」
青柳が真顔になる。
宮木も笑った。
気がつけば、三人の歩調はすっかり一定になっていた。
芦川の狙いどおりだった。
「あとね。」
芦川が続ける。
「樋口先生の歴史学Aは取っておいた方がいい。」
「監督の授業ですか?」
「そう。」
「厳しそう。」
宮木が顔をしかめる。
「ああ見えて、出席しておけば大丈夫。」
「本当ですか?」
「試験で答案があんまり書けなくても、ちゃんと授業に出てた学生には単位くれるから。」
「へえ。」
「ただし欠席にはものすごく厳しい。」
青柳がうなずいた。
「先生らしいですね。」
「『学生の本分は勉強です』って毎回言うから。」
芦川は樋口の口調を少し真似してみせる。
二人が笑った。
「じゃあ、神林先生は?」
青柳が尋ねる。
芦川の表情が変わった。
黒縁眼鏡の奥で、少しいたずらっぽく目が細くなる。
「英文読解。」
「難しいですか?」
「めちゃくちゃ。」
「えっ。」
「いや、授業自体は分かりやすいの。」
芦川は笑いをこらえながら続ける。
「でも、話がめちゃくちゃ。」
「どういう意味です?」
「それは受けてみれば分かる。」
「気になるなあ。」
「履修した方がいいよ。面白いから。」
「単位は?」
「普通に勉強すれば取れる。」
「じゃあ取ろうかな。」
宮木が言う。
芦川はにやりと笑った。
「たぶん最初の一か月で、景美さん三回くらい赤面すると思う。」
「なんでですか!」
「だから受ければ分かるって。」
三人の笑い声が、静かな林道へ響いた。
◇
一時間半という時間は、話をしながら歩けば意外に短かった。
大学の授業。
サークル。
アルバイト。
学食の話。
宮木が最近見た山岳レースの動画。
青柳が一人暮らしで食費をどう抑えているか。
そんな取り留めのない話をしているうちに、周囲から人家の気配は完全に消えていた。
林道の先に、ようやく建物が見えてくる。
「着いた。」
芦川が言った。
神の川ヒュッテ。
大室山への登山口となる場所だった。
しかし、宮木が想像していた山小屋とはずいぶん違った。
「……閉まってますね。」
建物は静まり返り、扉には鍵が掛かっている。
人の気配はない。
「無人みたいですね。」
青柳も周囲を見回す。
聞こえるのは川の音と鳥の声くらいだった。
その一方で、近くに建つトイレだけは妙に立派だった。
「トイレの方が新しく見えます。」
「言わないの。」
芦川が笑う。
青柳は改めて周囲を見回した。
同じ丹沢。
しかし、大倉とはまるで違う。
塔ノ岳へ向かったあの日は、朝から多くの登山者がいた。
山小屋もあり、すれ違う人も多かった。
ここには誰もいない。
深い森の中に、三人だけが取り残されたような静けさがあった。
(丹沢って言っても、こんなところもあるんだ。)
青柳は思う。
地図の上では同じ山域でも、登山口が違うだけで山の表情はまったく変わる。
「さて。」
芦川が腕時計を確認した。
「ここまではただの移動。」
宮木が待ってましたとばかりに顔を上げる。
芦川は、その先の森へ続く登山道を見た。
「ここからが今日の本番だからね。」
標高差、およそ千百メートル。
静かな裏丹沢の森の奥に、大室山が待っていた。




