EPISODE12 犬越路への道
神の川ヒュッテを出発すると、それまでの林道歩きとは景色が一変した。
沢の音が近い。
水の流れに沿うように、細い登山道が森の奥へ続いている。
宮木景美は最初こそ勢いよく歩き出したものの、十分もしないうちに足取りが慎重になった。
「……大倉尾根と全然違いますね。」
「違うでしょ。」
先頭を歩く芦川翔子が答える。
大倉尾根なら、少なくともどちらへ進めばよいのか迷うことはほとんどなかった。
しかし、こちらは違う。
沢沿いの登山道はところどころ崩れ、石が転がり、木の根が露出している。場所によっては、どこまでが登山道なのか一見しただけでは分かりにくい。
芦川が立ち止まった。
「二人とも、あれ見える?」
ストックの先で、少し先の木を指す。
枝に巻かれたピンク色のテープ。
「ピンクテープ?」
青柳豪毅が答える。
「そう。こういう道は、足元だけ見て歩かない。」
芦川は周囲を見回した。
「少し前を見る。テープとか踏み跡とか、次にどっちへ進むのか確認しながら歩く。」
「道を探しながら歩くってことですか?」
「探すっていうより、確認かな。」
芦川は歩き出す。
「はっきりしないと思ったら、勝手に進まない。立ち止まって周りを見る。」
「はい。」
「山では、間違った方向へ十メートル進むより、十秒立ち止まった方が早いから。」
宮木が真剣な顔でうなずいた。
◇
しばらくすると、道はさらに歩きにくくなった。
濡れた石。
沢へ向かって傾いた足場。
木の根。
大きな岩。
青柳は一歩ずつ慎重に足を置いていく。
「うわ……。」
靴底が石の上でわずかに滑った。
「青柳くん。」
すぐ前から芦川の声が飛んでくる。
「足元ばっかり見ない。」
「でも、見ないと怖いです。」
「見なくていいとは言ってない。」
芦川は振り返った。
「二、三歩先を見るの。」
自分のストックを前へ出す。
「先に次の足場を見る。」
ストックを置く。
「それから足を運ぶ。」
一歩。
「ストックでバランス取って。」
もう一歩。
「足を置く場所を決めてから動く。」
青柳も真似をする。
ストックを置く。
次の足場を見る。
右足を出す。
「そう。」
芦川がうなずく。
「今の感じ。」
後ろでは宮木も同じように進んでいた。
こちらは怖がっているというより、思うように速度を上げられないことに戸惑っているようだった。
「景美さん。」
「はい。」
「速く歩こうとしない。」
「してません。」
「してる。」
即答される。
宮木は苦笑した。
「分かります?」
「分かるよ。」
芦川は少し笑う。
「今日は体力トレーニングだけじゃないからね。」
宮木は足元を見る。
体力なら余裕がある。
呼吸も乱れていない。
脚も疲れていない。
それなのに速く進めない。
大倉尾根では感じなかったもどかしさだった。
目の前の一歩を雑に扱えば、転ぶ。
それが嫌でも分かる。
「景美さん。」
芦川が少し先から呼びかける。
「ストックでバランス取って。」
「はい。」
「少し前を見る。」
「はい。」
「それから、しっかり足を置く。」
宮木が一歩進む。
「そう。」
「もう一歩。」
芦川は先へ進みながら続けた。
「こういう整備状況の登山道、アルプスなら珍しくないから。」
宮木が顔を上げる。
「アルプスもこんな感じなんですか?」
「場所によるけどね。」
芦川はうなずく。
「逆に言えば、こういうところを普通に歩けるようになったら、景美さんもアルプスへ行ける。」
「本当ですか?」
宮木の表情が明るくなる。
「体力はもう十分あるから。」
「じゃあ頑張ります。」
「頑張りすぎない。」
「あ。」
「丁寧に。」
「はい。」
宮木は今度こそ、ゆっくりと次の足場を確認した。
◇
それでも、簡単にはいかなかった。
「あっ!」
宮木の身体が傾く。
ストックを地面へ突き、辛うじて踏みとどまる。
「危なっ……。」
「今の、何が悪かった?」
芦川が尋ねる。
「足を適当に置きました。」
「正解。」
「褒められてる気がしません。」
「転ばなかったから半分は褒めてる。」
さらに進む。
今度は青柳だった。
「うわっ!」
木の根に靴を引っ掛け、前のめりになる。
両手のストックで身体を支える。
「……危なかった。」
「青柳くんは足元見すぎ。」
「さっき足元見ろって。」
「二、三歩先。」
「難しいですね……。」
「だから練習してるの。」
芦川は平然と答えた。
沢を離れたり、また近づいたり。
小さく登り、また少し下る。
ピンクテープを見つける。
踏み跡を確認する。
ストックを置く。
足場を決める。
足を運ぶ。
それを何度も何度も繰り返した。
コースタイム一時間半。
しかし初心者二人を連れている以上、芦川にコースタイムへ合わせるつもりはなかった。
速さより、確実さ。
今日はそのための練習だった。
◇
森の向こうが明るくなった。
「もうすぐ。」
芦川が言った。
「本当ですか?」
青柳の声には少し疲れが混じっていた。
最後の斜面を登る。
すると突然、視界が開けた。
「着いた。」
時計は正午を少し回っていた。
犬越路。
峠には避難小屋が建っている。
神の川ヒュッテから二時間近く。
宮木は大きく息を吐いた。
「疲れた……っていうより。」
言葉を探す。
「気を使いました。」
「それでいい。」
芦川はザックを下ろした。
「今日覚えてほしかったのは、そういう歩き方だから。」
青柳もベンチへ腰を下ろす。
「大倉尾根より、こっちの方が怖いですね。」
「登山者も少ないしね。」
「道も分かりにくいし。」
「だから自分で見る。」
芦川は水筒を取り出した。
「山では整備されていることを前提にしない。」
宮木と青柳も水分を取る。
しばらく休んでから、芦川が峠の周囲を見回した。
「ちなみに、犬越路って変わった名前でしょ。」
「確かに。」
青柳が答える。
「由来があるんですか?」
「言い伝えではね。」
芦川は少し得意そうに人差し指を立てた。
「武田信玄が北条氏を攻めたとき、この峠を越えたって話があるの。」
「信玄が?」
宮木が驚く。
「そう。」
「でも道が険しくて、どこを通ればいいか分からない。」
芦川は続ける。
「そこで犬を先に行かせて、その後を軍勢がついていった。それで『犬越路』。」
「へえ……。」
宮木は素直に感心した。
青柳は逆に、今しがた自分たちが歩いてきた森の方向を見る。
沢沿いの荒れた道。
滑りそうな石。
木の根。
狭い足場。
ピンクテープがなければ、自分なら途中で何度も進む方向を見失っていただろう。
「……副部長。」
「なに?」
「武田信玄の軍勢って、何人くらいいたんですか。」
「知らない。」
「馬もいたんですよね。」
「いたんじゃない?」
「武器とか荷物も持って。」
「たぶん。」
青柳はもう一度、歩いてきた方向を見る。
「こんなところ、本当に軍勢で通ったんですかね。」
芦川は一瞬黙った。
そして笑った。
「それは歴史学の樋口先生に聞いて。」
「逃げましたね。」
「私は山岳部副部長です。」
宮木が吹き出す。
犬に導かれた武田軍の伝説。
それが史実なのかどうかは、三人には分からない。
ただ一つ確かなのは。
現代の登山靴とストックを使い、ピンクテープまで付いた道を歩いてきた自分たちでさえ、ここまで二時間近く悪戦苦闘したということだった。
そして、大室山はまだ先だった。




