EPISODE13 副部長の本気
犬越路避難小屋の前で休憩を取りながら、芦川翔子は何度も腕時計と地図を見比べていた。
時刻は十二時を少し回ったところ。
予定より、少し遅い。
神の川ヒュッテから犬越路までのコースタイムは、およそ一時間半。
それを二時間近くかけて登ってきた。
別に問題ではない。
初心者二人に荒れ気味の沢沿いを歩かせていたのだから、これくらいは最初から想定していた。
問題は、ここから先だった。
芦川は地図を指でなぞる。
犬越路から大室山。
登り、約二時間。
下り、一時間二十分。
そして犬越路へ戻ってきても、山行は終わらない。
ここから西丹沢方面へ下り、バス停まで出なければならない。
しかも、公共交通機関を使う山行には絶対に動かせない制限時間がある。
最終バス。
芦川は地図から顔を上げた。
「青柳くん。」
「はい。」
「あなたは、ここで待ってて。」
「……え?」
青柳の表情が固まった。
宮木景美も意外そうに芦川を見る。
「僕だけですか?」
「うん。」
「大室山は?」
「私と景美さんで行ってくる。」
青柳は一瞬、言葉を失った。
ここまで来たのだ。
大倉尾根では大古森に付き添い、山頂へ行けなかった。
先週の黒川鶏冠山では、大古森向けに難度を落とした山行だった。
だから今回、自分から参加を申し出た。
自分がどこまでできるのか知りたかった。
それなのに、また山頂へ行けない。
芦川は、その表情を見逃さなかった。
「青柳くん。」
少しだけ声を柔らかくする。
「別に、あなたが登れないって言ってるわけじゃないよ。」
「……はい。」
「たぶん登れる。」
芦川は地図を見せた。
「でもね。犬越路から大室山まで、登りのコースタイムが二時間。下りが一時間二十分。」
指で往復のルートをなぞる。
「ここからは大倉尾根ほど単調じゃないけど、結局かなり体力勝負になる。きつい登りが続く。」
青柳は黙って聞く。
「今日ここまでの歩き方を見てると、青柳くんならコースタイムの一・三倍くらいは見ておきたい。」
芦川は頭の中で数字を組み立てる。
「そうすると、頂上まで二時間半以上。帰りも一時間半以上。」
「……四時間。」
「そう。」
芦川が腕時計を見せる。
「今から行ったら、ここへ戻るのは五時近くなる。」
「あ……。」
青柳にも、その先が分かった。
「ここがゴールじゃないんですもんね。」
「そういうこと。」
芦川はうなずいた。
「このあと、まだ西丹沢のバス停まで下らないといけない。」
宮木も黙って聞いている。
「最終バスに間に合わなかったらどうする?」
「……タクシー?」
宮木が答える。
「こんな山奥まで来てくれればね。」
「じゃあ……。」
「三人で野宿。」
「ええっ。」
「嫌でしょ?」
「嫌です。」
「私も嫌。」
芦川は即答した。
「だから、そんな計画は立てない。」
青柳は地図を見る。
ようやく理解した。
山頂へ行けるか。
行けないか。
それだけで判断しているのではない。
山頂へ行き、戻ってきて、さらに山を下り、公共交通機関で帰宅する。
そこまで全部含めて、一つの山行なのだ。
塔ノ岳で芦川が言った言葉を思い出す。
――登山は、下山して終わり。
いや。
今日に限っていえば、その先にバスまである。
「でも。」
青柳は尋ねた。
「宮木さんなら間に合うんですか?」
「景美さんならね。」
芦川は即答した。
宮木が自分を指差す。
「私?」
「うん。」
「私と景美さんなら、二時間あれば行って帰ってこられると思う。」
「二時間?」
青柳が思わず聞き返す。
コースタイムなら往復三時間二十分。
それを二時間。
「副部長、それって……。」
「私も本気出すから。」
さらりと言った。
宮木の目が輝いた。
「本気?」
「久しぶりにね。」
「ついていっていいんですか?」
「そのために今日は景美さんを連れてきたんでしょう。」
宮木の表情が変わった。
ここまでの沢沿いでは、ずっと芦川から速度を抑えられていた。
足場を見ろ。
ストックを使え。
急ぐな。
丁寧に歩け。
そればかりだった。
今度は違う。
「副部長。」
「なに?」
「本気でついていっていいんですよね?」
「いいよ。」
芦川は笑った。
「ただし、勝手に抜かない。」
「はい!」
青柳は二人を交互に見る。
少し悔しい。
その感情は確かにあった。
だが同時に、自分でも分かっていた。
犬越路までの時点で、脚にはそれなりの疲れがある。
ここから二時間の急登。
そのあと下山。
さらに西丹沢まで。
芦川の判断が間違っているとは思えなかった。
「青柳くん。」
「はい。」
「あなたの限界は、次の練習山行でちゃんと見てあげる。」
青柳が顔を上げる。
「僕向けにですか?」
「そう。」
「大古森さん向けじゃなく?」
「青柳豪毅専用。」
「……なんか怖いですね。」
「自分で言い出したんでしょう。」
芦川が笑った。
「その代わり今日はここまで。体力残しておいて。」
「分かりました。」
青柳はようやく納得してうなずいた。
「待ってます。」
「二時間を目安に戻る。」
芦川はザックのベルトを締め直す。
水分を確認。
地図を収納。
宮木も立ち上がった。
先ほどまでの休憩気分はもう消えている。
「景美さん。」
「はい!」
「最初から飛ばしすぎないで。」
「はい。」
「私の後ろから離れない。」
「はい!」
「返事だけは百点ね。」
芦川は苦笑した。
そして、大室山へ続く登山道へ目を向ける。
ここからは、さっきまでとは違う。
道を探しながら恐る恐る進む区間ではない。
標高を一気に稼いでいく、体力勝負の登り。
自分の得意分野だった。
芦川は黒縁眼鏡を指で押し上げた。
(久しぶりに本気出すかな。)
胸の奥が、少しだけ高鳴る。
副部長として一年生を引率するようになってから、自分のペースで山を登る機会はめっきり減った。
遅れていないか。
疲れていないか。
足元は大丈夫か。
水は飲んでいるか。
いつも誰かを気にしながら歩いている。
だが今日は。
後ろにいるのは、あの大倉尾根を涼しい顔で登った宮木景美。
少しくらい速くても、簡単には音を上げないだろう。
むしろ。
(どこまでついてくるんだろう、この子。)
芦川の口元に、自然と笑みが浮かんだ。
それは普段、一年生たちに見せる面倒見のいい副部長の笑顔とは、少し違っていた。
「副部長、なんか楽しそうですね。」
宮木が気づいた。
「そう?」
「はい。」
「気のせい。」
「絶対楽しんでます。」
「じゃあ行くよ。」
芦川は答えず、歩き出した。
一歩目から、さっきまでとは明らかに速度が違った。
「あっ、速い!」
宮木が慌てて後を追う。
それでも数歩で追いついた。
芦川はちらりと後ろを見る。
宮木は笑っていた。
(ついてくるか。)
芦川も前を向く。
(ちょっと面白くなってきた。)
二人の姿は、あっという間に犬越路の先の森へ吸い込まれていった。
避難小屋の前に残された青柳は、その背中が見えなくなったあともしばらく登山道を眺めていた。
「……速っ。」
思わず漏れた。
今まで見ていた芦川翔子は、いつも誰かに合わせて歩いていた。
もしかすると自分たちはまだ、副部長が本来どれくらい歩ける人なのか、何も知らないのかもしれなかった。




