EPISODE14 引き出し
犬越路を出発してから、芦川翔子はほとんど振り返らなかった。
登山道は大室山へ向かって、ぐんぐん高度を上げていく。
大倉尾根ほど延々と階段が続くわけではない。
だが、決して楽な道ではなかった。
木の根が張り出した急斜面。
段差の大きな登り。
わずかに傾斜が緩んだと思えば、また登る。
体力をじわじわと削っていくような稜線だった。
芦川は一定のリズムを刻んだ。
一歩。
一歩。
呼吸に合わせ、足を運ぶ。
さっきまでとは明らかに速度が違う。
初心者を引率するときの、誰かを待つ歩き方ではない。
自分自身が山を歩くためのペースだった。
久しぶりだ。
こんなふうに歩くのは。
呼吸が少しずつ深くなっていく。
太腿に負荷がかかる。
額に汗がにじむ。
それが不思議と心地よかった。
芦川は登りながら、ふと昔のことを思い出していた。
◇
一年生だった頃。
自分は、山のことなど何も知らなかった。
登山靴の選び方。
ザックの背負い方。
地図の読み方。
水を飲むタイミング。
登り方。
下り方。
天候の見方。
山小屋での振る舞い。
文字どおり、一から十まで教えてくれた人がいた。
当時の山岳部部長だった。
顔は――。
(別にタイプじゃなかったんだよね。)
今でもそう思う。
ただ、身体はよく覚えている。
余計な肉のない、引き締まった体つき。
ザックを背負って山道に立つと、いかにも山男という雰囲気があった。
ある日の練習山行。
先代部長は突然、そんなことを言った。
「翔子ちゃん、コースタイムの七掛けで歩けるスキルは、引き出しとして持っておいた方がいいよ」
「下の名前で呼ばないでください。」
当時の芦川は即答した。
「それに、山道を急いで歩いたら危ないじゃないですか。」
「もちろん、いつも急げって意味じゃないよ。」
先代部長は笑った。
「でも翔子ちゃん、状況によっては急がなきゃならないときがある。」
「下の名前で呼ばないでください。」
「例えば帰りのバス。」
完全に無視された。
「一本逃したら二時間後。それなら間に合わせたいだろ?」
「まあ……。」
「二時間後に天候が悪化すると分かった。だったら、安全に動けるうちに急いで下山したい。」
それなら分かる。
芦川はうなずいた。
「南アルプスのある山小屋なんて、十五時過ぎに着いたら『山をなめとんのか』って怒鳴られる。」
「それは早く着くように計画してください。」
「そして北アルプスの山小屋。」
「はい。」
「ランチメニューのラストオーダーぎりぎり。中華丼が食えるか食えないかの瀬戸際。」
「それはどうでもいいです。」
「どうでもよくない。」
先代部長は真顔だった。
「山で食う中華丼だぞ。」
「知りません。」
「とにかく。」
先代部長は笑った。
「安全に速く歩けるスキルは、引き出しの一つとして持っておいた方がいい。」
「……引き出し?」
「そう。」
「どういう意味です?」
「普段から使えってことじゃない。」
先代部長は自分のザックを軽く叩いた。
「必要なときに、いつでも取り出せるようにしておく。」
「速く歩く。」
「ゆっくり歩く。」
「人に合わせる。」
「悪天候で動く。」
「岩場を通る。」
「全部、山を歩くための引き出し。」
「持ってる引き出しが多ければ、それだけいろんな状況に対応できる。」
その言葉だけは、妙に芦川の記憶へ残った。
◇
それからだった。
ずいぶん鍛えられた。
急登を速いペースで登らされた。
長い縦走路を歩かされた。
自分が先頭になってペースを作る練習もした。
速く歩いても足運びを雑にしない。
呼吸を乱しすぎない。
必要なら速度を落とす。
ただ闇雲に飛ばすのではなく、安全性を維持したまま速度を上げる。
最初はコースタイムの七掛け。
それがいつしか、本気で歩けば六掛け程度でも動けるようになった。
もちろん、普段そんな歩き方はしない。
先代部長が言ったとおりだった。
あくまで引き出し。
必要なときだけ開ければいい。
そして今。
芦川は久しぶりに、その引き出しを開けていた。
(……私。)
木の根をまたぎながら思う。
(あの人に、憧れてたのかな。)
恋愛だったのか。
尊敬だったのか。
今となってはよく分からない。
ただ、あの背中を追いかけて山を登っていた時間が楽しかったことだけは覚えている。
その先代部長も、去年卒業した。
そして今、自分は――。
(俊祐と付き合ってるんだもんなあ。)
何となく、そうなった。
同じ学年。
同じ山岳部。
気がつけば一緒にいる時間が増えて。
いつの間にか付き合うようになった。
福山俊祐。
山は好きだ。
経験もある。
技術もある。
だが、あの男はとにかくマイペースだった。
(あいつの「速く歩く引き出し」なんて、見たことない。)
単独行でも、景色を眺めながらのんびり歩く。
山小屋へ着く時間から逆算して、必要以上には急がない。
それが俊祐の山だった。
(本当にマイペースなんだから。)
そこまで考えた瞬間。
先週の言い争いが頭へ浮かんだ。
――就活、どうするのよ。
――考えてる。
――いつまで考えてるの。
――まだ三年だろ。
――卒業したらどうするつもりよ。
――それは翔子だって決めてないだろ。
――私は私の話をしてるんじゃないの。
そこで会話は止まった。
いや。
止めたのは自分だった。
(……いけない。)
芦川は頭を振る。
(今は山。)
目の前の一歩へ意識を戻す。
木の根。
段差。
傾斜。
呼吸。
足を置く。
身体を上げる。
また足を置く。
余計なことを考えない。
ただ登る。
久しぶりに、一心不乱に山を登った。
◇
「……着いた。」
樹林の中に標柱が現れた。
大室山。
標高千五百八十七メートル。
山梨百名山の標柱が立っている。
芦川は腕時計を見る。
「一時間……ちょっと。」
思わず笑った。
悪くない。
久しぶりに本気で登った割には、身体はまだ覚えていた。
「ふう……。」
両手を腰へ当て、大きく息を吐く。
さすがに呼吸は上がっている。
心臓が強く脈打っていた。
額から汗が流れる。
「久しぶりにやると、きついな……。」
そこまで言って、芦川は気づいた。
「あ。」
振り返る。
(いけない。)
自分のペースで夢中になっていた。
(景美さん。)
さすがに少し離れただろうか。
そう思った。
ところが。
「副部長。」
「……。」
いた。
ほんの数メートル後ろに。
宮木景美が立っていた。
「ここが頂上ですか?」
「……そう。」
「やった。」
宮木は笑った。
息は――。
乱れていない。
もちろん汗はかいている。
額にも首筋にも汗が浮かんでいる。
だが、それだけだった。
膝に手をつくでもない。
肩で息をするでもない。
普通に立っている。
芦川は自分の呼吸を整えながら、宮木を見る。
「景美さん。」
「はい?」
「きつくなかった?」
「きつかったですよ。」
「本当に?」
「はい。」
「……どのくらい?」
宮木は少し考えた。
「陸上やってた頃の練習よりは楽です。」
「……。」
芦川は言葉を失った。
(嘘でしょ。)
自分は本気で登った。
先代部長に叩き込まれた、速く歩くための引き出しを久しぶりに開けた。
コースタイム二時間の登りを、一時間少々。
それなのに。
この一年生は、普通についてきた。
(この子……。)
黒縁眼鏡の奥から、改めて宮木を観察する。
(山を歩く体力だけなら。)
認めざるを得なかった。
(もう私より上なんじゃない?)
大倉尾根でも薄々感じていた。
だが、あのときは自分が宮木に合わせていた。
今日は違う。
自分が本気で歩いた。
それでも振り切れなかった。
「副部長?」
「……なんでもない。」
「顔、すごく疲れてますよ。」
「誰のせいだと思ってるの。」
「私?」
「もういい。」
芦川は苦笑した。
そして周囲を見回す。
大室山の山頂は樹林に囲まれていた。
塔ノ岳のような大展望はない。
富士山も見えない。
木々の間から六月の淡い光が差し込んでいるだけだった。
だが。
(こういう山もいい。)
芦川は思う。




