EPISODE15 大室山の下り
静かだった。
風が葉を揺らす音。
鳥の声。
自分たちの呼吸。
それだけ。
派手な景色がなくても、山には山の良さがある。
芦川は腕時計を見る。
長居する理由はなかった。
「よし。」
宮木が振り向く。
「もう戻るんですか?」
「戻るよ。」
「せっかく頂上なのに。」
「今日の目的は登頂じゃないでしょう。」
芦川は笑った。
「青柳くん待たせてるんだから。」
「あ。」
「忘れてた?」
「ちょっとだけ。」
「ひどいなあ。」
芦川はザックの肩ベルトを締め直す。
「さあ、犬越路まで戻るよ。」
「はい。」
「それで青柳くんと一緒にお昼食べよう。」
宮木もうなずいた。
二人は山梨百名山の標柱をあとにする。
今度は下り。
体力だけでは歩けない。
芦川は前を向きながら、少しだけ笑った。
宮木景美。
予想していた以上だった。
体力については、もう自分が鍛えてやるという段階ではないのかもしれない。
ならば。
(この子には、もっと別の引き出しを増やしてあげないとね。)
かつて自分が先代部長から教わったように。
今度は自分が、後輩へ山を教える番だった。
大室山の山頂をあとにして、しばらく下ったところだった。
芦川翔子は前を歩く宮木景美の背中を眺めながら、ふと思った。
登りでは分かった。
この子の体力は、自分が想像していた以上だ。
では――下りはどうだろう。
大倉尾根では、何度も何度も教えた。
歩幅を小さく。
一気に下ろうとしない。
少し先を見る。
足を置く場所を決める。
足の裏全体で静かに着地する。
あれから、まだ一か月も経っていない。
「景美さん。」
「はい?」
宮木が振り返る。
芦川の黒縁眼鏡の奥に、少しいたずらっぽい光が浮かんだ。
「犬越路まで、先に好きに下っていいよ。」
「え?」
「自分のペースで。」
宮木の顔がぱっと明るくなる。
「本当に?」
「うん。」
芦川は自分のザックを軽く叩いた。
「ファーストエイドキットは持ってきてるから、転んでもいいよ。」
「転んでもいいんですか。」
「擦り傷くらいならね。」
そこで人差し指を立てる。
「でも、大怪我だけは絶対しないで。」
「はい。」
「歩けなくなって救助なんてことになったら、いくら非公式山行でも樋口先生が苦しむから。」
「そこなんですね。」
「そこ大事。」
芦川は真顔で言った。
「学生が救助される。監督に連絡が行く。大学に報告が行く。樋口先生が事情説明する。たぶん翌日、私が呼び出される。」
「副部長も困るじゃないですか。」
「私は怒られれば済む。」
「先生は?」
「胃が痛くなる。」
宮木が吹き出した。
「だから安全第一。」
「分かりました。」
「あと、登山者がいたら無理に抜かない。見通しの悪いところも飛ばさない。」
「はい。」
「じゃあ。」
芦川が手を前へ出した。
「行っていいよ。」
「はい!」
宮木が前を向く。
そして――。
「……お。」
芦川の表情が変わった。
速い。
だが、雑ではなかった。
宮木は軽やかに尾根を下っていく。
一歩。
着地。
次の一歩。
また着地。
足を乱暴に投げ出しているわけではない。
上体も必要以上に後ろへ逃げていない。
少し先の足場を見ながら、次にどこへ足を置くかを判断している。
(へえ。)
芦川は後ろから観察する。
大倉尾根のときとは、まるで違う。
あの日は勢い任せだった。
体力があるから、登りと同じ感覚で下ろうとしていた。
そのたびに止めた。
――歩幅小さく。
――一気に下ろうとしない。
――足の裏全体で静かに着地。
それを何度も繰り返した。
(ちゃんと覚えてる。)
しかも、ただ教わった形を再現しているだけではない。
着地した瞬間、足首、膝、腰が自然に衝撃を受け止めている。
そして身体が安定した瞬間には、もう次の一歩へ移っている。
止まらない。
ドン、ドン、と下るのではない。
トッ、トッ、トッ、と小気味よく高度を落としていく。
(なかなかできることじゃないな。)
身体能力が高い。
それは分かっていた。
だが、それだけではない。
教えたことを身体へ落とし込むのが早い。
中学、高校と陸上を経験してきたからだろうか。
自分の身体をどう動かせばいいのか。
その感覚をつかむ能力が高い。
宮木との距離が少し開いた。
「……。」
芦川の眉がわずかに動く。
(待って。)
また少し開く。
(一年生に。)
さらに開く。
(遅れを取ってたまるか。)
副部長としての教育的判断は、その瞬間だけ少し横へ置かれた。
経験なら自分が上。
技術も自分が上。
山を歩いてきた年数が違う。
(見せてやろうじゃない。)
芦川は歩幅を変えた。
(経験と技術に裏打ちされた、下りのステップってやつを。)
速度が上がる。
一歩。
岩の安定を瞬時に見る。
着地。
次。
木の根をかわす。
足場を選ぶ。
重心を移す。
ストックを軽く添える。
次。
芦川の動きには、宮木とは違うものがあった。
宮木が身体能力で路面へ対応しているのなら、芦川は経験で数歩先を読んでいる。
この石は乗らない。
この根は滑る。
ここなら二歩で抜けられる。
この段差は右から。
考えるより先に身体が反応する。
前方の宮木がちらりと振り返った。
「あ。」
芦川が追ってきている。
宮木が笑った。
「副部長、速いですね!」
「前見て!」
「はい!」
宮木も速度を維持する。
(この子。)
芦川も思わず笑う。
(楽しんでるな。)
自分もだった。
誰かの体調を気にすることもなく。
遅れている人を待つこともなく。
コースタイムを気にして速度を調整する必要もない。
ただ目の前の登山道を、自分の技術で処理していく。
こんな山の歩き方をしたのは、いつ以来だろう。
先代部長と歩いていた頃以来かもしれない。
◇
木々の向こうに、小屋の屋根が見えた。
「犬越路!」
宮木が声を上げる。
そのまま最後の斜面を下り切る。
少し遅れて芦川も峠へ降り立った。
「到着!」
宮木が嬉しそうに振り返る。
芦川は腕時計を見る。
「……四十分くらい。」
自分でも少し呆れた。
時刻は午後二時半少し前。
大室山から犬越路まで、二人は四十分ほどで下り切ってしまった。
避難小屋の前では青柳豪毅が一人で待っていた。
二人の姿に気づき、立ち上がる。
「あれ?」
腕時計を見る。
もう一度、二人を見る。
「早かったですね。」
「ただいま。」
宮木が答える。
「結構楽しかった。」
「楽しかった?」
青柳には意味が分からない。
宮木は額に汗を浮かべている。
呼吸も少しだけ速い。
だが、それだけだった。
普通に立っている。
一方。
「……疲れた。」
芦川はザックを下ろすと、避難小屋の前へ腰を下ろした。
「副部長?」
「なに。」
「大丈夫ですか?」
「大丈夫。」
返事が短い。
登り一時間少々。
下り四十分。
久しぶりに、自分の持っている「速く歩く引き出し」をほぼ全開にした。
身体は正直だった。




