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EPISODE16 犬越路の下り

「お昼にしよう。」

 芦川はザックを開く。

 中から取り出したのは、いつものベーカリーの袋だった。


「またそれですか。」

 青柳が言う。

「好きなの。」

 ハムと卵、レタスを挟んだサンドイッチ。

 山へ来る日の朝に何度も買っている、お気に入りだった。

 包装を開ける。

 一つ取り出す。

「……。」

 芦川はサンドイッチを見る。

(大きい。)

 いつもと同じ商品。

 いつもと同じ大きさ。

 なのに、今日は妙に大きく見える。

 口を開ける。

 ぱくり。

 ゆっくり噛む。

「……おいしい。」

 疲れた身体にパンの甘みが染みた。


 隣では宮木が自分の昼食を取り出しながら、青柳へ大室山の様子を説明している。

「頂上、木ばっかりだったよ。」

「景色ないの?」

「ない。」

「じゃあ行かなくてもよかったかな。」

「でも登るの楽しかった。」

「そういう問題?」

 二人の会話を聞きながら、芦川はもう一口サンドイッチを食べる。

 そして宮木を見る。

 まだ元気。

 このあと西丹沢まで下るというのに、疲労らしい疲労がほとんど見えない。

 大倉尾根。

 今日の大室山。

 登り。

 下り。

 教えた技術の吸収速度。

 芦川はもぐもぐとサンドイッチを噛みながら思った。

(……これは。)

 ごくん。

(手の付けられない子かもしれない。)

 嬉しいような。

 恐ろしいような。

 自分がとんでもない一年生を山岳部へ入れてしまったのではないか。

 そんな予感が、芦川翔子の中で初めて確信へ変わり始めていた。


犬越路避難小屋の前での昼食は、わずか二十分で切り上げた。

「そろそろ行くよ。」

 芦川翔子が腕時計を見て立ち上がった。

「もうですか?」

 青柳豪毅は、最後のおにぎりをちょうど食べ終えたところだった。

「うん。十七時のバスに乗る。」

 芦川はきっぱりと言った。

 大室山を往復してきた疲労は、まだ身体に残っている。

 贔屓のベーカリーで買ったサンドイッチを腹へ収め、多少は回復したものの、できることならあと十分くらい座っていたかった。

 だが、公共交通機関で山へ来た以上、バスの時刻も山行計画の一部だ。


「ここから西丹沢へ下りる。最初がかなり急だから、二人とも気を抜かないで。」

「はい。」

 宮木景美が立ち上がる。

 こちらは相変わらず元気だった。

(……なんでこの子は平気なのよ。)

 芦川は少し恨めしそうに宮木を見てから、ザックを背負った。

「行こう。」

     ◇

 犬越路から西丹沢側へ足を踏み入れた瞬間、青柳の顔が引きつった。

「……これ、下るんですか?」

「下るよ。」

 登山道は急峻だった。

 斜面へへばりつくように道が続き、一歩の段差も大きい。

 疲れた脚で雑に足を置けば、簡単にバランスを崩しそうだった。

 芦川が先頭に立つ。

 その後ろに青柳。

 最後尾に宮木。

「危ないのは最初の二十分くらいだから。」

 芦川が声を掛ける。

「ここだけ集中して。」

「二十分ですね。」

「そう。足元見て。急がなくていいから。」

 芦川自身、脚に疲労を感じていた。

 大室山への登りを一時間少々。

 下りを四十分。

 久しぶりにフルスロットルで歩いた代償が、今になって出てきている。

 それでも、後輩を連れている以上、自分が雑になるわけにはいかない。

「青柳くん、そこ大きく一歩で下りない。」

「はい。」

「右側に一回足置けるところあるでしょう。」

「あ、ここか。」

「そう。二歩に分ける。」

 青柳が慎重に下りる。

「景美さんも。」

「はい。」

「さっきみたいに飛ばさない。」

「分かってます。」

「本当に?」

「本当です。」

 宮木は笑っている。

「ここで競争はしないからね。」

「してませんって。」

「あなたは信用ならない。」

「ひどい。」

 そんな会話を交わしながら、一歩ずつ高度を下げていった。


 やがて傾斜が緩くなる。

 青柳がほっと息を吐いた。

「終わった……。」

「一番急なところはね。」

 芦川が答える。

「じゃあ、ここから楽なんですか?」

「そうとも言ってない。」

「……。」

「山ってそういうものだから。」

     ◇

 実際、その先も気を抜ける道ではなかった。

 谷沿いにつけられた細い登山道。

 片側が切れ落ちている場所もある。

 足元には石や木の根があり、ときには沢へ近づき、ときには少し高いところを巻いていく。

「副部長。」

「なに?」

「大室山行かなかった僕でも、結構疲れてきました。」

「そう?」

「そう? じゃないですよ。」

 青柳は苦笑した。

「朝からどれだけ歩いてると思ってるんですか。」

「神の川入口から歩いてるもんね。」

「しかも、まだ終わらない。」

「登山ってそういうものよ。」

「今日そればっかりですね。」

 後ろで宮木が笑った。

 だが、その宮木も今度は慎重だった。

 大室山の下りで見せたような速度は出していない。

 足場を見る。

 先を見る。

 危険な場所では速度を落とす。

 大倉尾根で教わったことを、きちんと使い分けている。

(本当に覚えるの早いな。)

 芦川は思った。

 体力だけではない。

 教えれば、吸収する。

 そして身体能力が高いから、覚えた技術をすぐ実践できる。

(さて、どうしたものかな。)

 そんなことを考えながらも、今は下山に集中する。


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