EPISODE17 西丹沢
一時間足らず歩いた頃だった。
鬱蒼としていた谷が、少しだけ開けた。
登山道は河原へ出る。
「ここから河原歩き。」
芦川が言った。
沢の流れる音が近い。
白っぽい石が転がる河原を三人で進んでいく。
その先で、芦川が立ち止まった。
「あら。」
「どうしました?」
青柳が横からのぞく。
本来なら小川を渡る場所。
そこに架かっているはずの丸木橋がない。
少し下流を見ると、流されたらしい木材が引っ掛かっていた。
「橋、ないですね。」
「ないね。」
宮木が沢を見る。
「飛び越えます?」
「やめなさい。」
即答だった。
「でも浅いですよ。」
水量は多くない。
深いところでも、くるぶし程度だろう。
「渡渉する。」
芦川はそう言うと、適当な岩の上へ腰を下ろした。
登山靴の紐を解く。
「え?」
青柳が見る。
芦川は登山靴を脱ぎ、続いて靴下も脱いだ。
それらをザックへ収納する。
「二人も脱いで。」
「裸足ですか?」
「そう。」
「このまま靴で渡っちゃ駄目ですか?」
「渡れるけど。」
芦川は沢を指差した。
「ずぶ濡れの登山靴で新松田から帰りたくないから。」
「……確かに。」
「靴の中びしょびしょのまま電車乗るの嫌でしょう。」
宮木もさっさと靴を脱ぎ始める。
「私、裸足で川渡るの初めてです。」
「私もそんなに好きでやってるわけじゃないよ。」
青柳も諦めて靴下を脱いだ。
三人とも登山靴をザックへ収める。
芦川が先頭。
「浅いけど、石で滑らないようにね。」
素足を水へ入れる。
「つめたっ!」
思わず声が出た。
「副部長でもそういう声出すんですね。」
「うるさい。」
六月とはいえ、山の沢水は冷たい。
足首を包み込む水に耐えながら、一歩ずつ進む。
「冷たっ!」
今度は青柳。
「これは冷たい!」
宮木まで声を上げる。
「だから早く渡るよ。」
「滑らないようにって言ったじゃないですか。」
「じゃあ適度に早く!」
三人は苦笑しながら、冷たい沢を渡った。
◇
対岸へ着くと、芦川はザックからタオルを取り出した。
「ちゃんと拭いて。」
足の裏。
指の間。
水気をできるだけ取る。
それから靴下を履き、登山靴へ足を入れる。
「ありがたい……。」
青柳がしみじみと言った。
「何が?」
「靴ってありがたいんだなって。」
「今日の学習成果、それ?」
宮木が笑った。
三人は再び歩き始めた。
河原を抜ける。
やがて用木沢の林道へ出た。
ここまで来れば、もう大きな危険はない。
「よし。」
芦川が腕時計を見る。
「間に合う。」
そこから三十分ほど。
オートキャンプ場の横を通り、舗装路を歩く。
朝から歩き続けた三人にとって、最後の林道は妙に長く感じられた。
そして。
「あった。」
宮木が前を指差した。
西丹沢のバス停。
三人は予定どおり、十七時のバスに間に合った。
◇
新松田駅へ向かうバスの座席。
芦川は窓側へ身体を預けていた。
「……疲れた。」
誰に言うでもなく、つぶやく。
今日はさすがに疲れた。
宮木を試すつもりが、自分まで本気になってしまった。
隣の席では宮木がスマートフォンで今日撮った写真を見ている。
まだ起きている。
(本当に元気ね……。)
芦川は苦笑した。
体力は、もう問題ない。
下りも急速に上達している。
荒れた道も、今日初めて経験させた。
では次は何を教える。
岩場か。
長距離縦走か。
自分で地図を読ませるか。
天候判断。
ペース配分。
装備。
補給。
山には、まだいくらでも「引き出し」がある。
(先代だったら……。)
ふと思った。
(あの人なら、この子をどう育てるんだろう。)
――翔子ちゃん、面白い新人入ったね。
そんなことを言って笑いそうな気がした。
(下の名前で呼ばないでください。)
頭の中で、昔と同じ返事をする。
そして、もう一人。
今日は犬越路で待たせた青柳。
彼には約束した。
――あなたの限界は、次の練習山行で見てあげる。
(次は青柳くんか……。)
普通の体力。
普通の技術。
普通の一年生。
だからこそ、どこまで負荷を掛ければいいのか見極めなければならない。
その次は大古森。
田村もいる。
そして宮木。
(景美さんは……。)
考えようとした。
しかし。
バスの揺れが心地よかった。
全身にたまった疲労。
座席の背もたれの柔らかさ。
一定のエンジン音。
(この子は……どうしようかな……。)
黒縁眼鏡の奥で、まぶたが少しずつ重くなる。
先代部長なら。
自分なら。
何を教える。
どの山へ連れて行く。
どんな引き出しを――。
そこで、思考が途切れた。
芦川翔子は窓へ頭を預けたまま、眠りに落ちていた。
「……あ。」
宮木が気づく。
いつも自分たちより先に歩き。
計画を立て。
指示を出し。
何があっても余裕があるように見える副部長。
その芦川が、珍しく無防備な寝顔を見せていた。
宮木は少しだけ笑った。
「お疲れさまでした、副部長。」
返事はない。
バスは山深い西丹沢を離れ、新松田駅へ向かって走り続ける。
こうして宮木景美にとって二度目の本格的な練習山行は終わった。
けれど芦川翔子にとっては。
自分の後輩に、とんでもなく大きな可能性が眠っていることを知った一日でもあった。




