EPISODE18 樋口監督の山岳研究
インターミッション 監督の山岳研究
六月中旬の夕方。
水光大学の校舎から、学生たちの姿が少しずつ減り始めていた。
午後の講義を終えた樋口響子は、自分の研究室へ戻っていた。
准教授に与えられた一人用の研究室は、それほど広くない。
中央に事務机。
来客用の椅子が二脚。
壁際には天井近くまで書棚が並び、日本近現代史に関する専門書や史料集、紀要、論文のコピーを綴じたファイルが几帳面に収められている。
机の上にも資料が積まれていた。
「……こっちの史料では昭和九年。」
樋口は論文へ引用する箇所を確認し、付箋を貼る。
別の資料を開く。
「でも、こっちは昭和十年としてるのよね……。」
眼鏡こそ掛けていないが、眉間には深い皺が寄っていた。
史料を読む。
ノートへ書き込む。
パソコンへ入力する。
別の史料と照合する。
また読む。
一時間ほど繰り返したところで、樋口は椅子の背もたれへ身体を預けた。
「疲れた……。」
目頭を指で揉む。
研究者という仕事は、傍から見るよりずっと地味である。
史料を読み、先行研究を読み、自分の仮説と突き合わせる。
その繰り返し。
ふと机の端を見る。
茶色い封筒が置かれていた。
「あ。」
思い出した。
「今日だった。」
六月中旬。
定期購読している月刊山岳雑誌の発売日だった。
封筒の中から、真新しい雑誌を取り出す。
樋口がこれを購読するようになったのは、山岳部監督になってからだ。
別に山へ登りたいわけではない。
登山が趣味になったわけでもない。
芦川たちと山談義をしたいわけでもない。
ただ。
――監督なのに何も知りませんでした。
何かあったとき、そんな言い訳だけはしたくなかった。
いや。
正確には。
(そんなこと言ったら、大学から何を言われるか分からないもの。)
それが一番大きかった。
樋口は冷蔵庫からペットボトルのルイボスティーを取り出した。
一口飲む。
そして山岳雑誌を開く。
あくまで情報収集。
熟読する必要はない。
ぱらぱらとページをめくる。
半年ほど読み続けた結果、樋口の中にも大雑把な山岳知識が蓄積されていた。
まず。
北アルプス。
危ない。
中央アルプス。
これも危ない。
南アルプス。
やっぱり危ない。
この三つは、どうも学生を近づけたくない。
一方。
丹沢。
比較的安心。
奥多摩。
これも比較的安心。
東京から近い。
何かあっても対応しやすそう。
つまり――。
(山岳部なんだから、丹沢と奥多摩だけ登ってればいいんじゃないの?)
樋口としては、わりと本気でそう思っている。
もちろん芦川に言えば、
――先生、それでは山岳部になりません。
と返されることは分かっていた。
「今月は……。」
表紙を見る。
「『憧れの北アルプス』特集ですって。」
樋口はページをめくる。
「へえ……。」
大きな写真。
青い空。
高山植物。
雪渓。
雲海。
「きれい。」
素直にそう思う。
自分で登りたいとは思わない。
写真で見るぶんには、実に美しい。
「ここなら響子も行けるよ、なんて公子あたり言いそうね。」
神林公子の顔を思い浮かべる。
「絶対行かないけど。」
ページをめくる。
山小屋。
食事。
登山者。
岩稜。
「ふうん。」
さらにページをめくる。
そして。
「……。」
手が止まった。
樋口は雑誌を少し顔へ近づける。
「何これ。」
岩。 岩。 岩。
とんでもなく切れ落ちた場所に、人が立っている。
両側とも、落ちればただでは済みそうにない。
ページの見出しを見る。
「ジャン……ダルム?」
樋口の眉間に皺が寄った。
「ちょっと待って。」
写真をじっと見る。
どう見ても危ない。
「……落ちたら死ぬじゃない。」
もう一度見る。
やっぱり危ない。
「何でこんなところ登るのよ。」
理解できない。
樋口は机の引き出しを開け、付箋を一枚取り出した。
ぺたり。
ジャンダルムのページへ貼った。
◇
翌日。
昼休みの学内カフェテリア。
「先生、何ですか。」
呼び出された芦川翔子は、アイスコーヒーを手に樋口響子の向かいへ座った。
樋口の前には、昨日の山岳雑誌が置かれている。
「芦川さん。」
「はい。」
「ちょっとこれ見て。」
嫌な予感がした。
樋口が付箋のページを開く。
どん。
芦川の前へ差し出す。
「……ジャンダルムですね。」
「知ってるの?」
「そりゃ知ってますよ。」
「ここ。」
樋口が写真を指差す。
「危な過ぎない?」
「まあ……。」
「まあ、じゃないわよ。」
樋口は写真をもう一度見る。
「これ、落ちたら死ぬわよ。」
「そうですね。」
「そうですね、じゃない。」
樋口は人差し指を立てた。
「ジャンダルム禁止!」
「……。」
芦川はアイスコーヒーのストローをくわえたまま、しばらく黙った。
また始まった。
「先生。」
「何?」
「一年生連れてジャンダルムなんて行きませんよ。」
「一年生じゃなければ行くの?」
「そういう話じゃなくて。」
「じゃあ行かない?」
「少なくとも今の山岳部で計画なんて立ててません。」
「今は、でしょう?」
樋口の目が細くなる。
「芦川さん、あなたそういうところあるから。」
「どういうところですか。」
「私に黙って、ぎりぎり大丈夫そうな山を選ぶ。」
「ぎりぎり大丈夫じゃなくて、安全マージン取ってます。」
「大室山行ったでしょ。」
芦川が一瞬止まった。
「……何で知ってるんですか。」
「山岳部の監督だから。」
「非公式山行ですよ。」
「非公式でも学生は学生でしょう。」
樋口はルイボスティーを一口飲む。
「とにかく。」
もう一度ジャンダルムの写真を指差す。
「これは駄目。」
「はいはい。」
「はい、は一回。」
「はい。」
芦川は苦笑する。
「行きません。」
「絶対?」
「少なくとも私が副部長の間は、部の山行では行きません。」
樋口はようやく満足そうにうなずいた。
「よろしい。」
雑誌を閉じる。
芦川はその表紙を見ながら尋ねた。
「先生。」
「何?」
「毎月ちゃんと読んでるんですね。」
「当然でしょう。」
樋口は少し胸を張った。
「私、監督なんだから。」
「山登らないのに。」
「登る必要はないでしょう。」
「そうですかね。」
「あなたたちが登るの。私は監督するの。」
役割分担は明確だった。
「それに。」
樋口は少し声を低くする。
「何か事故が起きて、大学から『監督として危険性を把握していたんですか』って聞かれて、『山のことはよく分かりません』なんて答えたらどうなると思う?」
「……先生らしいですね。」
「褒めてる?」
「一応。」
「ならいいわ。」
芦川はアイスコーヒーを飲みながら笑った。
なんだかんだ言いながら、山岳雑誌を半年も自腹で定期購読している。
登山には同行しない。
疲れることは嫌い。
危険そうな山を見つければ、すぐ禁止する。
その動機のかなりの部分が保身であることも、おそらく本人は隠す気がない。
それでも。
(まあ、何もしてくれない監督よりはいいか。)
芦川はそう思っていた。
一方、樋口は再び雑誌を開いていた。
「ところで芦川さん。」
「はい。」
「この『大キレット』っていうのも――」
「あ。」
「危なくない?」
「先生。」
「何?」
「それ、前に禁止されました。」
「そうだっけ。」
「されました。」
「じゃあいいわ。」
樋口はページをめくる。
「不帰キレット……。」
「それも禁止されてます。」
「あら。」
さらにめくる。
芦川は嫌な予感がした。
「先生、もう読むのやめません?」
「何言ってるの。情報収集よ。」
「これ以上禁止区域増やされたら困るんですけど。」
「安全のためです。」
「先生の?」
「私とあなたたち、双方の。」
きっぱり言った。
芦川は苦笑するしかなかった。
どうやら水光大学山岳部の活動可能範囲は、山岳雑誌が発売されるたびに少しずつ狭くなっていくらしい。




