EPISODE19 三条の湯
六月下旬、早朝。
立川駅の改札前で、青柳豪毅はスマートフォンの時計を確認した。
集合時刻の十分前。
まだ来ていない。
もっとも、芦川翔子が遅刻するとは思えなかった。
青柳は柱の脇へ移動し、背負ってきたザックを一度床へ下ろした。
今日の荷物はいつもの練習山行より多い。
一泊分の着替え。
雨具。
食料。
ヘッドライト。
その他、芦川から指定された装備一式。
なぜなら今回は――。
「おはよう。」
聞き慣れた声。
顔を上げる。
「おはようございます。」
栗色のポニーテール。
黒縁眼鏡。
そして、いつもより明らかに大きなザック。
芦川翔子だった。
青柳は、その後ろを見た。
誰もいない。
「あれ?」
「なに?」
「田村さんは?」
「ああ。」
芦川はスマートフォンを取り出した。
「一応、『よかったら来る?』ってLINEしたんだけどね。やっぱり弦楽合奏の練習の都合で来られないって。」
「そうですか。」
「だから二人。」
「……二人。」
「そう。」
芦川は何でもないことのように答えた。
青柳は、改めて状況を整理する。
芦川副部長。
自分。
二人きり。
しかも今日は日帰りではない。
一泊。
テント持参。
(これって……。)
一瞬、妙な考えが頭をよぎった。
(結構、デートに近い状況なんじゃないか。)
大学三年生の女子と一年生の男子。
二人で遠出して、一泊。
文字だけ並べれば、そう見えなくもない。
しかも相手は芦川翔子。
知的な顔立ちに黒縁眼鏡。
山岳部ではいつも厳しく指示を出しているが、普段は後輩の面倒見もいい。
青柳にとって、もちろん魅力的な先輩ではあった。
「青柳くん。」
「はい!」
妙に大きな声が出た。
「何?」
「なんでもありません。」
「……?」
芦川が不思議そうに見る。
青柳は視線をそらした。
(違う。)
自分へ言い聞かせる。
(これはデートじゃない。)
芦川は言った。
――あなたの限界は、次の練習山行で見てあげる。
つまり今日は、その日なのだ。
(シビアな山行だ。)
気を抜いている場合ではない。
(頑張らないと。)
「行くよ。」
「はい。」
二人は青梅線のホームへ向かった。
◇
青梅線で奥多摩へ。
そこからバスへ乗り継ぐ。
奥多摩駅を離れると、車窓の景色は急速に山深くなっていった。
空は灰色。
梅雨らしい低い雲が山の上を覆っている。
窓には時折、細かな雨粒が当たった。
「天気、あんまり良くないですね。」
青柳が言った。
「梅雨だからね。」
隣に座る芦川はスマートフォンで天気予報を確認している。
「本降りにはならない予報。風もそんなにない。雷の可能性も低い。」
「じゃあ予定どおり?」
「予定どおり。」
画面を消す。
「でも雨が強くなったら、その時点で考える。」
「はい。」
今回の目的地。
雲取山。
標高二千十七メートル。
東京都最高峰。
そして青柳にとっては、初めての二千メートル峰だった。
◇
「お祭です。」
車内放送が流れた。
二人はバスを降りる。
山間の小さなバス停。
空からは、ごく細かな雨が落ちていた。
芦川はザックカバーを確認してから、足元に置いていた荷物を持ち上げた。
「青柳くん。」
「はい。」
「悪いけど、これ持って。」
「え。」
渡された。
一つ。
「テント。」
「はい。」
二人用。
さらに。
「これも。」
「まだあるんですか。」
渡されたのは折り畳み式のポリタンクだった。
「五リットル入る。」
「水入ってるんですか?」
「今は空。」
「じゃあ何に使うんです?」
「帰りに使うから。」
「帰り?」
「そのとき説明する。」
青柳は首をかしげながら、テントとポリタンクを自分のザックへ固定した。
普段より重い。
ずしりと肩へ荷重がかかる。
「重い?」
「まあ……ちょっと。」
「今日は泊まりだからね。」
芦川はさらりと言った。
「山岳部員なら、このくらいの荷物背負って歩けないと。」
「分かりました。」
青柳はショルダーベルトを調整する。
「行けます。」
「じゃあ行こう。」
◇
そして。
一時間。
二時間。
ひたすら林道だった。
砂利。
森。
沢。
また砂利。
緩やかに高度は上がっている。
だが、いわゆる登山道ではない。
長い林道が延々と山奥へ続いている。
時折、小雨がぱらつく。
雨具を着込むほどではない。
しかし湿度が高く、歩いているとじっとり汗をかく。
「副部長。」
「なに?」
「確認なんですけど。」
「うん。」
「これはまだ、砂利道を歩いてるだけなんですよね。」
「そうだよ。」
「登山始まってないですよね。」
「まあ、行程としては始まってるけど。」
「……。」
「何?」
「いえ。」
青柳はそれ以上何も言わなかった。
歩く。
ただ歩く。
黙々と。
芦川は先頭を歩きながら、ときどき後ろを確認していた。
青柳との距離は変わらない。
最初からずっと、五メートルほど。
三十分経っても。
一時間経っても。
二時間を過ぎても。
変わらない。
「青柳くん。」
「はい。」
「休憩する?」
「副部長が休むなら。」
「疲れてない?」
「疲れてないわけじゃないですけど。」
青柳は少し考える。
「まだ普通です。」
「そう。」
また歩く。
会話も少ない。
宮木なら、
――まだ林道ですか?
――もう少し速く歩きません?
などと言い出しそうなところだ。
大古森なら、すでに何度か休憩を要求しているかもしれない。
田村なら――。
(そもそも今日来ないか。)
芦川は苦笑した。
しかし青柳は違う。
速くない。
遅くもない。
ただ同じ速度で歩き続ける。
林道だからと飛ばさない。
退屈だからと文句も言わない。
疲れてきたからと極端に速度を落とすこともない。
ザックには、いつもより重い荷物を背負わせている。
それでも一定。
(この子……。)
芦川は少し感心していた。
(ペースが崩れないんだ。)
派手さはない。
宮木のような爆発的な身体能力もない。
けれど。
長い山行では、これは立派な能力だった。
一定の速度で歩く。
無駄に体力を使わない。
自分のペースを守る。
簡単そうに見えて、初心者には意外と難しい。
(若いのに。)
青柳の歩く姿をもう一度見る。
(いい意味で、おじさんみたいな歩き方するなあ。)
芦川は少し笑った。
長年山を歩いている中高年の登山者に、こういうタイプがいる。
若者にどんどん抜かれても気にしない。
休憩も少ない。
登りも下りも同じような速度。
気づけば、ずっと歩き続けている。
青柳には、それに近いものがあった。
(なるほどね。)
大室山へ連れて行かなかった判断は、間違っていない。
あの日の青柳では、最終バスまで考えれば時間が足りなかった。
しかし。
(思ってたより、長い行程には強いかも。)
今日の山行で、もう少し見てみよう。
◇
三時間足らず。
「林道終わり。」
芦川が言った。
「やっとですか。」
青柳は大きく息を吐いた。
「疲れた?」
「というより、飽きました。」
「正直ね。」
林道の終点から、ようやく登山道らしい道へ入る。
沢沿い。
水の流れる音。
濡れた木々。
梅雨の森は深い緑に包まれていた。
ここから三十分ほど。
沢沿いの道を進んでいく。
やがて森の中に建物が見えてきた。
「あれ。」
芦川が指差す。
「三条の湯。」
「山小屋ですか?」
「そう。」
青柳は少しほっとした。
朝から電車。
バス。
そして三時間以上の歩行。
ようやく今日の中継地点へ着いた。




