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EPISODE20 三条ダルミへの道

三条の湯で、二人は昼食にした。

 青柳はコンビニのおにぎり二個。

 鮭。

 昆布。

 包装を開け、交互に食べる。

 向かいでは芦川がベーカリーの袋を取り出していた。

「またサンドイッチですね。」

「悪い?」

「いや、毎回それだなって。」

「好きなんだからいいでしょう。」

 芦川は卵とハムのサンドイッチを頬張る。

 青柳はおにぎりを食べながら、周囲を見回した。

「ここに泊まるんですか?」

「正確には、ここのテントサイト。」

「山小屋じゃなく?」

「テント持ってきた意味なくなるでしょう。」

「ああ……。」

 忘れていた。

 自分のザックに入っている。

 芦川が持たせた二人用テント。

 昼食を終えると、二人はテントサイトへ向かった。

 必要な手続きを済ませ、荷物を整理する。

「テントはここに置いていく。」

 芦川が言った。

「寝袋とか着替えとか、今日の夜まで使わないものも全部。」

「軽くしていくんですね。」

「そう。」

 青柳のザックからテントが消える。

 泊まり道具も置く。

 朝からずっと背負っていた荷物が一気に軽くなった。

「うわ。」

 ザックを背負い直す。

「軽い。」

「でしょう。」

 芦川も必要な装備だけを小さくまとめる。

「でも。」

 青柳は空を見た。

 雲は相変わらず低い。

 細かな雨も、ときどき落ちてくる。

「ここが今日の目的地じゃないんですよね。」

「もちろん。」

 芦川は黒縁眼鏡を押し上げた。


「今日のターゲットは雲取山。」

「ここから?」

「ここから。」

「どのくらいですか。」

「登り三時間くらい。」

「……。」

 青柳は黙った。

「なに?」

「やっぱり今日はシビアな山行ですね。」

「言ったでしょう。」

 芦川は笑う。

 犬越路で交わした約束。

 ――あなたの限界は、次の練習山行で見てあげる。

 今日は、それを確かめる日だった。

「青柳くん。」

「はい。」

「ここまでの林道は準備運動。」

「三時間歩いたんですけど。」

「ここからが本番。」

「山岳部って怖いですね。」

「今さら?」

 芦川は雲取山へ続く登山道を見る。

「行くよ。」

「はい。」


 二人は歩き出した。

 梅雨空の下。

 東京都最高峰、雲取山へ。

 青柳豪毅の本当の現在地を確かめるための山行が、ここから始まろうとしていた。三条の湯を出て、しばらく歩いたところで芦川翔子が立ち止まった。

「青柳くん。」

「はい。」

「前、歩いて。」

「僕がですか?」

「そう。」

 芦川は身体を横へずらし、登山道を譲った。

「自分のペースで歩いてみて。」

「副部長に合わせなくていいんですか?」

「合わせなくていい。」

「遅くても?」

「いいよ。」

 芦川は黒縁眼鏡の位置を直した。

「今日はあなたを見るために来たんだから。」

「……なんか試験みたいですね。」

「実技試験。」

「嫌だなあ。」

「はい、スタート。」

 青柳は諦めたように前を向いた。

     ◇

 青柳の歩き方は、やはり速くなかった。

 だが、遅くもない。

 一定だった。

 森の中を延びる登山道。

 足元には湿った土。

 木の根。

 石。

 標高を上げるにつれて、傾斜もそれなりについてくる。

 青柳は黙々と足を運んだ。

 一歩。

 一歩。

 また一歩。

 宮木景美なら、とっくに速度を上げているだろう。

 前に登山者がいれば追いつこうとする。

 傾斜が緩くなれば、そのぶん歩幅を広げる。

 有り余る体力を、前へ進む速度へ変えていく。

 青柳には、それがない。

 傾斜が緩くなっても、さほど速くならない。

 急になっても、極端には遅くならない。

 ただ歩く。

 一定のリズムで。

「……ふう。」

 やがて息が乱れてきた。

 芦川は何も言わない。

 後ろから観察する。

 肩で息をするほどではない。

 だが呼吸音は明らかに大きくなっている。

(そろそろどうするかな。)

 芦川がそう思ったところで、青柳が立ち止まった。

「休憩?」

「ちょっとだけ。」

 ザックは下ろさない。

 登山道の端へ寄る。

 まず後ろを見る。

「結構登ってきましたね。」

 木々の隙間から、遠くの山並みが見えた。

 青柳はそれをしばらく眺める。

 次にボトルを取り出した。

 一口。

 ほんの少しだけ水を飲む。

 蓋を閉める。


「もういいの?」

「はい。」

「座らない?」

「座るほどじゃないです。」

 再び歩き出した。

 芦川は黙って、その後ろについていく。

 十分。

 二十分。

 三十分。

 また呼吸が荒くなる。

 それでも速度は大きく変わらない。

 そして苦しくなってくると、自分から止まる。

 景色を見る。

 水を一口。

 呼吸が落ち着く。

 また歩く。

(なるほど。)

 芦川の中で、青柳豪毅という一年生の輪郭が少しずつ見えてきた。

 この子は、宮木とは正反対だ。

 爆発的な体力はない。

 速くもない。

 急登を一気に押し切る脚力もない。

 だが――。

(自分で自分を壊さない。)

 それは登山では重要な能力だった。

 初心者は、周囲につられる。

 前の人が速ければ無理についていく。

 調子がいい序盤で飛ばす。

 息が上がっても我慢する。

 そして突然、動けなくなる。

 青柳にはそれがない。

 苦しくなったら止まる。

 休んだらまた歩く。

 無理に格好をつけない。

 もっとも。

(女子部員の前だと苦しい顔を見せないようにはしてるけど。)

 そこは一年生男子らしい。

 だが、少なくとも歩き方そのものには見栄を張らない。

 一歩。

 一歩。

 淡々と高度を上げていく。

(こういうタイプか。)

 芦川は少し笑った。

 派手ではない。

 だが長い山では、案外こういう人間が最後まで残る。

     ◇

 二時間少々。

 森の向こうから差し込む光が増えた。

「副部長。」

「うん。」

「なんか開けてきました。」

「もうすぐ稜線。」

 最後の登りを抜ける。

 視界が開けた。

 風が吹き抜ける。

 森の中を歩き続けてきた青柳は、思わず足を止めた。

「おお……。」

「三条ダルミ。」

 芦川が言った。

「ここから稜線歩き。」

 青柳は周囲を見回した。

 梅雨空。

 遠くの山々には雲がかかっている。

 晴天の大展望とはいかない。

 それでも、鬱蒼とした森の中を二時間以上歩いてきただけに、空が広くなっただけで気持ちがよかった。

「ここまで、どのくらいですか?」

「二時間ちょっと。」

「コースタイムは?」

「だいたいそんなもの。」

「じゃあ普通ですね。」

「普通。」

 芦川は笑った。

 青柳も水を一口飲む。

 呼吸は乱れている。

 額にも汗。

 当然、疲れている。

 それでも。

「行ける?」

「はい。」

 即答だった。

(そうか。)

 芦川は思う。

(この人、こういう歩き方なんだ。)

 無理をしない。

 自分の身体と相談する。

 苦しくなれば少し止まる。

 回復すればまた歩く。

 速さを競わない。

 淡々と一歩ずつ高度を稼ぐ。

(……あいつに似てるな。)

 不意に、福山俊祐の顔が浮かんだ。

 現山岳部部長。

 そして――彼氏。

 福山も速さには興味がない。

 単独行が好きなくせに、山で無茶をすることもほとんどない。

 自分のペースで歩く。

 疲れれば休む。

 景色がよければ立ち止まる。

 山小屋へ着く時刻だけはきっちり計算している。

 それ以外は、驚くほどマイペース。

(似てる。)

 青柳の背中を見ながら、もう一度思った。

 そういえば、福山も一年生の頃からこんな歩き方だった。

 先代部長が飛ばしても、絶対についていこうとしなかった。

 ――先輩、先行っててください。

 平然とそう言っていた。

(本当にあいつは昔から……。)

 そこまで考えて。

 先週の会話が蘇る。

 就職活動。

 卒業後。

 自分たちの関係。

 聞いても、福山はいつもの調子だった。

 ――まだ決めてない。

 ――そのうち考える。

 ――焦って決めても仕方ないだろ。

(そのうちって、いつよ。)

 芦川の眉間にわずかに皺が寄る。

 山ならそれでもいい。

 ゆっくりでも歩いていれば、いずれ目的地へ着く。

 人生まで同じ歩き方をされると困る。

(……いけない。)

 芦川は小さく頭を振った。

 今は俊祐のことではない。

 目の前の一年生を見るために来たのだ。


「青柳くん。」

「はい?」

 芦川は前方へ視線を向けた。

 雲取山。

 東京都最高峰。

 ここまでの森の道とは違う。

 最後に、しっかりとした登りが待っている。

「頂上まで、あと三十分。」

「あと三十分ですか。」

 青柳の表情が少し明るくなる。

 芦川は人差し指を立てた。

「ただし。」

「……はい。」

「こっからきついよ!」

 青柳の顔から喜びが消えた。

「またですか。」

「またです。」

「山って、最後だけ急になるんですか。」

「そういう山、多いね。」

「先に言ってくださいよ。」

「今言ったでしょう。」

 芦川は笑った。

「ここが正念場。」

 青柳は山頂方向を見上げた。

 ここまで二時間少々。

 呼吸も荒い。

 脚にも疲労はある。

 だが、まだ歩ける。

「……分かりました。」

 一度、大きく息を吐く。

 そして。

「行きます。」

「よし。」

 芦川は青柳の後ろについた。

 速くなくていい。

 宮木のように駆け上がる必要もない。

 自分のペースで。

 止まりたければ止まればいい。

 ただし、自分の脚で頂上までたどり着く。

(見せてもらおうかな。)

 芦川は黒縁眼鏡の奥から、その背中を見つめた。

(青柳豪毅の、今の限界を。)

 二人は三条ダルミをあとにした。

 雲取山山頂まで、残り三十分。

 ここからが、この日の本当の試験だった。


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