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EPISODE21 雲取山へ

三条ダルミを出ると、それまでとは明らかに登山道の表情が変わった。

 雲取山の山頂へ向かって、笹原の中を道が真っすぐに高度を上げている。

「……これですか。」

 青柳豪毅が見上げた。

「これ。」

 芦川翔子はあっさり答えた。

「さっき言ったでしょう。ここからきついよって。」

「聞きましたけど……。」

 青柳は少し恨めしそうに斜面を見る。

 ここまで二時間以上歩いてきた脚には、すでに疲労がたまっている。

 それでも、登るしかない。

 一歩。

 一歩。

 急がない。

 自分の歩幅で足を置く。


 呼吸が荒くなれば、少し歩幅を狭める。

 それでも苦しくなれば、立ち止まる。

「はあ……はあ……。」

 青柳は足を止め、後ろを振り返った。

 晴れていれば、ここまで登ってきた山々が見えるのだろう。

 だが今日は、あいにくの梅雨空だった。

 灰色の雲。

 その下には白い霧。

 せっかく高度を上げても、遠くの山はほとんど見えない。

「何か見える?」

 後ろから芦川が尋ねた。

「……何も。」

「だよね。」

「休憩しただけです。」

「正直でよろしい。」

 芦川は笑った。

 青柳は膝へ手を置き、呼吸を整える。

「あと、どのくらいですか。」

「三十分。」

「さっきも三十分って言いませんでした?」

「まだそんなに歩いてないでしょう。」

「そうですけど。」

 芦川は青柳の横まで上がってきた。

「あと三十分。」

 そして、ぽんと肩を軽く叩く。

「男だったら、そのくらいなんとかなるよね。」

「……今どき、それ言ったら怒られません?」

「私の言葉じゃないから。」

「誰の言葉ですか。」

「先代部長。」

「ああ……。」

 青柳も何となく納得した。

 芦川から何度か聞かされている、二学年上の先代部長。

 芦川へ登山の基礎を叩き込んだ人物。

「私も一年生の頃、疲れてくるとよく言われたの。」

 芦川は少し懐かしそうに笑った。

「『翔子ちゃん、女の子でもこのくらいなんとかなるよね』って。」

「それもどうなんですか。」

「だから、そのまま青柳くん用に変えてみた。」

「受け継がなくていい伝統だと思います。」

「水光大学山岳部の伝統です。」

「絶対違いますよね。」

 少しだけ笑ったことで、青柳の呼吸が落ち着いた。

「行けそう?」

「はい。」

「じゃ、行こう。」

     ◇

 再び登る。

 笹原。

 急坂。

 霧。

 また笹原。

 青柳の呼吸は、すぐに荒くなった。

「はあ……はあ……。」

 それでも、歩く。

 芦川は後ろから見守る。

 やはり速くはない。

 宮木なら、この程度の登りは一気に駆け上がってしまうだろう。

 だが青柳は、自分ができないことをしようとしない。

 一歩。

 一歩。

 限界が近づけば止まる。

 十秒。

 二十秒。

 呼吸を整える。

 水をほんの一口。

 また歩く。

(うん。)

 芦川は何も言わず、その歩き方を見ていた。

(悪くない。)

 速く歩くことだけが登山ではない。

 特に長い山行では、自分の身体を最後まで動かし続けることの方が重要になる。

 青柳は、すでにそれを感覚的に理解しているらしい。

「副部長。」

「なに?」

「あと何分ですか。」

「二十分くらい。」

「減りましたね。」

「歩いてるんだから減るでしょう。」

 また登る。

 やがて。

「あ。」

 青柳が顔を上げた。

 霧の向こうに人工物が見えた。

「建物?」

「そう。」

 芦川の声が少し明るくなる。

「雲取山避難小屋。」

「じゃあ……。」

「ほぼ頂上。」

 その言葉を聞いた瞬間、青柳の歩幅が少しだけ大きくなった。

「こら。」

「はい?」

「最後に飛ばさない。」

「でも、もう頂上でしょう。」

「疲れてるときほど雑になるから。」

「……はい。」

 また歩幅を戻す。

 芦川は小さく笑った。

     ◇

 そして。

「着いた。」

 避難小屋の立つ山頂部へ二人はたどり着いた。

 青柳は大きく息を吐いた。

「はあ……っ。」

 肩で息をする。

 脚も重い。

 それでも、自分の足で登り切った。

 芦川は腕時計を確認する。

「うん。悪くない。」

 青柳は返事をする余裕もなく、山頂標識の方へ歩いていく。

 立派な標識が立っていた。

「……なんか。」

「なに?」

「頂上の標識、妙に立派ですね。」

 芦川が笑った。

「そりゃあね。」

 標識の横へ立つ。

「東京都最高峰。」

 指を一本立てる。

「標高二千十七メートル。」

 もう一本。

「日本百名山。」

 さらに一本。

「東京から比較的来やすい。」

「なるほど。」

「ブランド力のある人気の山なんだから、頂上もそれなりに立派なの。」

「山にもブランドってあるんですね。」

「あるよ。」

 芦川は笑った。

「ま。」

 青柳を見る。

「百名山一個目、おめでとう。」

「ありがとうございます。」

 青柳も少し笑った。

 そして周囲を見る。

 霧。

 灰色の空。

 展望はほとんどない。

 だが。

「東京都にも、こんなところがあるんですね。」

「あるのよ。」

 芦川も周囲を見回す。

「晴れてればね。」

 少し残念そうに空を見る。

「黒龍の尾を見せてあげられるのになあ。」

「黒龍の尾?」

「石尾根。」

 芦川が説明する。

「雲取山から東京の方へ長く延びてる尾根があるの。昔から『黒龍の尾』って呼ばれることがある。」

「へえ。」

「晴れてれば、ここまで登ってきたご褒美になるんだけど。」

 白い霧しか見えない。

「残念。」

 芦川は苦笑した。

「また来よう。」

「またですか。」

「嫌?」

 青柳は少し考えた。

 長い林道。

 三条の湯。

 延々と続いた登り。

 そして最後の急坂。

 楽だったとは、とても言えない。

 それでも。

「晴れてるときなら。」

「よろしい。」


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