EPISODE22 雨の雲取山の下り
芦川は青柳の様子を改めて見る。
かなり疲れている。
まだ動ける。
だが、三条の湯を出たときとは明らかに違う。
「青柳くん。」
「はい。」
「これ食べる?」
ザックのポケットへ手を入れた。
取り出したのは、小さな羊羹だった。
「羊羹?」
「こういうとき、甘いもの効くよ。」
青柳は受け取った。
「副部長は食べないんですか。」
「私はいい。」
「嫌いなんですか?」
「逆。」
芦川は笑う。
「駆け出しの頃、行動食食べ過ぎちゃうタイプだったの。」
「食べ過ぎ?」
「ちょっと疲れたらチョコ。登り終わったら飴。休憩したら羊羹。」
「いいんじゃないですか。」
「そのぶん全部余計に食べるのよ。」
「ああ。」
「山に来るとカロリー消費してるから大丈夫、って自分に言い訳して。」
芦川は自分の腹のあたりを見た。
「だから最近は、基本的には普通の食事で足りるようにしてる。」
「じゃあ、この羊羹は?」
「お守り。」
芦川はそう言った。
「予定以上に疲れたときとか、誰かがへばったとき用。」
「今日の僕みたいな。」
「そういうこと。」
青柳は包装を開ける。
一口。
甘い。
疲れた身体には、普段よりずっと甘く感じる。
「……うまい。」
「でしょう。」
もう一口。
小さな羊羹はすぐになくなった。
青柳は水を少し飲む。
呼吸を整える。
(こういうのも登山なんだな。)
ふと思う。
苦しくなる。
止まる。
少し食べる。
水を飲む。
回復させる。
そして、また動く。
体力があるかないかだけではない。
自分の身体をどうやって最後まで動かすのか。
それも経験なのだろう。
青柳は少しだけ、山の歩き方が分かってきた気がした。
◇
ぽつ。
青柳の頬に水滴が当たった。
「ん?」
ぽつ。
ぽつ。
芦川も空を見上げる。
「まずいな。」
雨だった。
まだ小雨。
だが、さっきまでより明らかに雨粒が増えている。
芦川はすぐに腕時計を見る。
「青柳くん。」
「はい。」
「休憩終了。」
「もう?」
「本降りになる前に下る。」
芦川は立ち上がる。
「三条ダルミまでの急坂、雨で濡れるといやらしくなるから。」
青柳も立ち上がった。
羊羹のおかげか、少し身体が戻った気がする。
「頂上、何分いました?」
「十分ちょっと。」
「三時間近く登って?」
「山頂は逃げないから。」
芦川はザックを背負う。
「また来ればいい。」
青柳もザックのベルトを締めた。
「行くよ。」
「はい。」
芦川は下山方向へ身体を向ける。
「ここから三条ダルミまでは、足元集中。」
「分かりました。」
「疲れてるし、濡れ始めてる。登りより下りの方が危ないからね。」
青柳がうなずく。
二人は雲取山の山頂をあとにした。
東京都最高峰。
青柳豪毅、初めての日本百名山。
滞在時間は、わずか十数分。
それでも青柳のザックには、登ってきたときにはなかった小さな経験が、また一つ加わっていた。
雲取山の山頂を離れると、青柳豪毅はすぐに下りの難しさを思い知らされた。
登りでは、ただ苦しかった。
息が上がっても、一歩ずつ足を前へ出していけば高度は稼げる。
だが下りは違う。
三条ダルミへ落ち込む急斜面。
笹原の中につけられた登山道は、先ほどからの雨で少しずつ濡れ始めている。
「青柳くん、歩幅小さく。」
「はい。」
「足を置いてから次。」
「はい。」
「急がなくていいよ。」
後ろから芦川翔子の声が飛ぶ。
青柳は一歩ずつ慎重に下った。
登りで疲れた太腿が、下りでは別の意味で悲鳴を上げる。
身体が前へ落ちようとするのを脚で受け止める。
また一歩。
止める。
また一歩。
「……これ。」
「なに?」
「登りより嫌ですね。」
「初心者はだいたいそう言う。」
芦川は苦笑した。
「でも、下りは慣れ。大倉尾根でもやったでしょう。」
「大古森さんが大変だったやつですよね。」
「そう。今日はあなたの番。」
「嬉しくないです。」
それでも、あのとき芦川が大古森へ繰り返していた言葉は覚えている。
歩幅を小さく。
一気に下ろうとしない。
落ち着いて。
足の裏全体で静かに着地。
自分が言われる側になって、初めて意味が分かる。
焦って下ろうとすると脚へ余計な負担がかかる。
青柳は何度か足を止めながら、どうにか急斜面を下り切った。
「三条ダルミ。」
芦川の声。
「はあ……。」
青柳は大きく息を吐いた。
難所を一つ越えた。
だが、芦川は休憩を指示しなかった。
空を見上げている。
「……本降りになるな。」
雨粒が増えていた。
ぽつぽつ、ではない。
笹の葉へ当たる雨音が、はっきり聞こえるようになっている。
芦川はザックを下ろした。
「青柳くん、レイン着て。」
「はい。」
二人は雨具を取り出した。
青柳はレインジャケットへ腕を通す。
「首元、ちゃんと閉めて。」
「ここですか?」
「もっと上まで。」
芦川は自分の襟元を指差す。
「あと袖口。」
青柳がベルクロを締める。
「しっかり閉める。そうしたら雨が中へ入ってこないから。」
「暑くないですか?」
「暑いよ。」
「ですよね。」
「でも身体と服を濡らすよりいい。」
芦川もレインウェアを整える。
「山で濡れた状態が長く続くのは嫌だからね。」
「分かりました。」
「よし。」
黒縁眼鏡についた雨粒を指で拭う。
「三条の湯まで下るよ。」
◇
雨の森を二人は歩いた。
ざあ。
ざあ。
木々の葉を叩く雨音。
レインウェアへ当たる水滴。
足元の土も、少しずつ柔らかくなっていく。
先ほどまで青柳を先頭にしていた芦川だったが、下りでは自分が前へ出た。
足場を確認する。
滑りそうな場所があれば後ろへ伝える。
「ここ、木の根踏まないで。」
「はい。」
「左側。」
「はい。」
「その石、濡れてるから乗らない。」
青柳は黙々とついてくる。
だが。
一時間ほど下ったところで、芦川は違和感を覚えた。
距離が少し開く。
立ち止まって待つ。
青柳が追いつく。
また歩く。
しばらくすると、また開く。
(落ちてきたな。)
朝、お祭のバス停を出発した。
三時間近い林道歩き。
三条の湯。
そこから雲取山。
そして下山。
休憩を除いても、かなり長時間身体を動かしている。
朝から数えれば、行動時間はすでに八時間近い。
(心肺じゃない。)
息は確かに荒い。
だが、それ以上に。
(足の筋肉が効かなくなってきたか。)
青柳の一歩が小さくなっている。
下りで身体を支えるたびに、太腿へ疲労が積み重なっているのだろう。
「青柳くん。」
「はい。」
返事は普通。
(まだ大丈夫。)
芦川は少し速度を落とした。
ここで無理に急がせる必要はない。
今日は三条の湯へ戻れば終わりだ。
テントも寝袋も置いてある。
最終バスも関係ない。
日没までには十分な余裕がある。
だから。
(あとは、この子をどうやって気持ちよく歩かせるか。)
疲れてくると、人は足元ばかり見るようになる。
あと何分。
あと何キロ。
まだ着かない。
そんなことばかり考え始める。
芦川自身、昔はそうだった。
(話でもするか。)
青柳が追いついてきた。
芦川は歩きながら、何でもない調子で口を開いた。
「ねえ、青柳くん。」
「はい。」
「今年の一年生で、気になった子っている?」
「……。」
返事がない。
芦川が振り返る。
「青柳くん?」
「考えてます。」
「そんな真剣に考えなくても。」
「急に聞くからですよ。」
芦川はくすっと笑った。
「だって大学入ったんだよ。そういう話の一つくらいあるかなって。」
「ないですよ。」
「本当に?」
「山岳部についていくので精一杯ですし。」
「それは確かに。」
「それに……。」
青柳は少し考えてから続けた。
「ガツガツ行って、もめごと起こしたら、副部長や先生が苦しむと思いますし。」
「……。」
芦川は思わず青柳を見る。
雨に濡れたメタルフレームの眼鏡。
疲れた顔。
それでも、ごく普通のことを言ったような表情をしている。
「ふふ。」
「何ですか。」
「優しいのね。」
「そういう意味じゃないですよ。」
「じゃあどういう意味?」
「部内で変なことになったら面倒じゃないですか。」
「それを私たちのことまで考えてる時点で優しいって言ってるの。」
「……そうですか。」
「そう。」
芦川は前を向いた。
青柳はコミュニケーションが得意ではない。
自分から輪の中心へ入っていくタイプでもない。
入部した理由だって、体育会系の部活に入っておけば就職活動に有利かもしれない、という何とも現実的なものだった。
それでも。
(周りのこと、よく見てるんだな。)
大古森が花立山荘で動けなくなったときも、文句を言わず付き添った。
今回も、自分の疲労を必要以上に訴えない。
そして恋愛の話を振れば、真っ先に出てくるのが「周りに迷惑をかけたくない」。
(なるほどね。)
芦川は少しだけ笑った。
宮木とは違う。
大古森とも違う。
田村とも違う。
派手な長所はない。
だが。
(この子を次期部長に、って考えてる私の勘……案外間違ってないかも。)
もちろん、まだ一年生。
登山技術も経験も足りない。
人を引っ張る積極性など、今のところほとんど見えない。
それでも、山岳部の部長に必要なのは、一番速く歩けることではない。
自分以外の人間のことを考えられること。
それも一つの資質だ。
◇
「副部長。」
「なに?」
「副部長はどうなんですか。」
「何が?」
「気になる人。」
「……。」
今度は芦川が黙った。
「なんで私に返すのよ。」
「聞いたの副部長じゃないですか。」
「私は質問する側。」
「ずるいですね。」
「先輩特権。」
芦川は前を向いたまま答えた。
もちろん、いる。
というより付き合っている。
福山俊祐。
水光大学山岳部部長。
ただし、そのことは部内では伏せている。
しかも最近は、卒業後の話になるとどうにも噛み合わない。
「……秘密。」
「いるんですね。」
「さあね。」
「今の間で分かりますよ。」
「青柳くん。」
「はい。」
「疲れてる割に口が回るようになったね。」
「副部長が話しかけたからでしょう。」
「じゃあ作戦成功。」
「作戦?」
青柳が顔を上げる。
芦川は振り返って笑った。
「さっきより足動いてるよ。」
「……あ。」
言われて初めて気づいた。
恋愛の話をしている間、脚の疲労を忘れていた。
「そういうことですか。」
「そういうこと。」
「副部長、ずるいですね。」
「経験です。」
「そればっかり。」
「そのうち青柳くんも後輩にやるようになるよ。」
「僕がですか。」
「さあ。」
芦川は意味ありげに笑った。
「何年かしたらね。」




