EPISODE23 三条の湯、テント泊
雨の向こうに、屋根が見えた。
「あ。」
青柳が声を上げる。
「見えた。」
芦川も確認する。
三条の湯。
森の中に建つ山小屋の姿が、雨に霞んで見えている。
「到着。」
青柳の声に安堵が混じる。
「まだテントサイトまで。」
「もうほぼ着いたじゃないですか。」
「最後まで気を抜かない。」
「はい。」
やがて二人は山小屋へたどり着き、その先のテントサイトへ向かった。
時刻は午後五時頃。
「お疲れさま。」
芦川が言った。
「今日はここまで。」
「……長かった。」
青柳は心底そう思った。
朝から歩いた。
林道を三時間。
山道を登り。
東京都最高峰へ立ち。
雨の中を下ってきた。
テントサイトへ戻った瞬間、全身から力が抜けた。
一方、芦川はレインウェアのフードを外しながら、青柳の様子を観察していた。
速くはない。
強くもない。
宮木のような底知れない体力もない。
八時間も動けば、きっちり疲れる。
脚も止まり始める。
つまり――普通なのだ。
けれど。
苦しくなれば、自分で休む。
無理に周囲へ合わせない。
長い林道でもペースを崩さない。
疲れていても判断力は残っている。
そして、周囲の人間を気に掛ける。
(うん。)
芦川は眼鏡についた雨粒を拭った。
(今日連れてきてよかった。)
青柳豪毅という一年生が、少し分かってきた。
あとは。
「副部長。」
「なに?」
「テント、これから張るんですよね。」
「もちろん。」
「……ですよね。」
青柳が疲れ切った顔で、自分のザックを見る。
芦川はにっこり笑った。
「練習山行は、まだ終わってないよ。」
雨の三条の湯。
青柳豪毅にとって初めてのテント泊は、ここからが本番だった。
雨の中、三条の湯のテントサイトへ戻ってきた青柳豪毅には、まだ仕事が残っていた。
「じゃ、青柳くん。テント張ってみようか」
「僕がですか?」
「あなたが持ってきたんだから、あなたが張る」
「そういう理屈なんですか」
「経験、経験」
芦川翔子はそう言って、二人用テントの収納袋を青柳へ渡した。
雨は先ほどより弱くなっている。
青柳はなるべく平らな場所を選び、袋の中身を広げた。
テント本体。
フライシート。
ポール。
ペグ。
そして。
「あ」
「どうしたの?」
「説明書入ってます」
「それなら読んでやってみて」
青柳は防水袋に入れられた設営マニュアルを広げた。
ポールを組み立てる。
テント本体へ通す。
立ち上げる。
フライシートを被せる。
四隅を固定する。
文章だけで聞けば難しそうだったが、説明書の図を見ながら作業すると、意外なほどあっさり形になった。
「……できました」
「できたね」
芦川がテントを軽く揺らして確認する。
「初めてにしては上出来」
「もっと苦労するかと思いました」
「最近のテントはよくできてるから。次から説明書なしで張れるように覚えておいてね」
「はい」
ザックを前室へ移しながら、青柳が尋ねる。
「でも副部長、山小屋があるなら、そっちに泊まった方が楽なんじゃないですか?」
「そりゃ楽よ」
芦川は即答した。
「布団で寝られるし、ご飯も出るし。雨でも設営しなくていいし」
「じゃあ何でテントなんです?」
「お金」
実に現実的な答えだった。
「山小屋って一泊二食にすると一万円超えちゃうからね。アルプスなんてもっと高いところもあるし」
「ああ……」
「泊まり山行のたびに山小屋使ってたら、学生なんて資金なくなっちゃうよ」
芦川はテントの中へ荷物を入れる。
「山の場数を踏むためにも、テント使えるようになっておくのがベターなんだよね」
「なるほど」
「部のテントならタダだし」
「結局そこですか」
「学生にとって大事なことよ」
副部長は真顔だった。
◇
テント内を整理し終えたところで、芦川が腕時計を見る。
「あ、もうこんな時間」
「どうしました?」
「女湯、六時までだからお風呂行ってくる」
「お風呂あるんですか?」
「あるよ」
それだけ言うと、着替えとタオルを抱えて、芦川はさっさと風呂棟へ向かってしまった。
青柳は一人残されたテントの中で、シュラフを広げる。
雨音。
沢の音。
森の匂い。
朝の立川駅から、ずいぶん遠くまで来たものだと思う。
東京都最高峰まで登ってきたというのに、ここもまだ東京都だった。
しばらくして。
「あー、いい湯だった」
満足そうな声とともに、芦川が戻ってきた。
山行中のウェアから、持参した替えの服へ着替えている。
ポニーテールはそのままだが、栗色の髪にはまだ少し湿り気が残っていた。
先ほどまで雨の中で後輩へ指示を飛ばしていた副部長とは違い、完全に一日の仕事を終えた大学生の顔である。
「そんなにいいんですか?」
「いいよ。ここ、山小屋でお風呂がある数少ないところだから」
芦川はタオルで髪を拭く。
「硫黄泉の沸かし湯。お肌にもいいのよ」
「副部長、そういうの気にするんですね」
「気にするわよ」
芦川がじろりと睨む。
「山登ってるからって、女子大生を何だと思ってるの」
「いや、別に……」
「ほら」
時計を見る。
「十八時回ったから、青柳くんも行ってきたら」
「男湯になったんですか?」
「ここ同じ浴室を時間で男女に分けてるの。今から男湯」
「へえ」
「今日はよく歩いたんだから、温まってきなさい」
「はい」
青柳も着替えとタオルを持って風呂棟へ向かった。
◇
「……あー」
湯船につかった瞬間、思わず声が出た。
朝から酷使した脚が、ようやく解放されたような気がする。
三時間近い林道。
雲取山への長い登り。
三条ダルミからの急登。
そして雨の下山。
太腿には、まだ重い疲労が残っている。
(これ、明日も歩くんだよな……)
当然の事実に気づいた。
泊まり山行なのだ。
今日はゴールではない。
明日も自分の足で帰らなければならない。
(登山って大変だな……)
そう思いながら、青柳は湯船へ深く身体を沈めた。
それでも、不思議と嫌ではなかった。
◇
夕食は質素だった。
OB会から部へ贈られたレトルトの農協ごはんを湯煎する。
同じ鍋で焼き鳥缶も温める。
以上。
テントの前で、二人はそれを食べた。
「……山岳部の夕食って、こんな感じなんですか?」
青柳が焼き鳥を一つ口へ運ぶ。
「今日は特別手抜き」
芦川は笑った。
「二人しかいないし」
「普段は?」
「七月の公式山行ではちゃんとカレー作るよ」
「山でカレー」
「定番」
「なんか急に山岳部らしくなりましたね」
「でしょう?」
芦川はレトルトごはんを口へ運ぶ。
「大人数だと食事作るのもイベントだからね。でも二人で一泊するためだけに、野菜切ってカレー煮込むの面倒でしょう」
「副部長でも面倒くさがるんですね」
「当たり前よ」
「何でもきっちりやる人だと思ってました」
「必要なところはね」
芦川は焼き鳥缶を箸でつまんだ。
「手を抜いていいところは抜く。山も同じ」
「それも経験ですか」
「そうそう」
「便利な言葉ですね」
「覚えてきたじゃない」
二人は笑った。
豪華さとは程遠い。
だが、長い一日の最後に食べる温かいご飯と焼き鳥は、青柳には妙にうまく感じられた。
◇
午後八時。
「じゃ、寝ようか」
「もうですか?」
「山の朝は早いよ」
芦川はハンドライトを消した。
テントの中が暗闇に包まれる。
聞こえるのは雨がフライシートを叩く音と、遠くの沢音。
二人用テントだから、当然広くはない。
シュラフを二つ並べれば、それでほとんどいっぱいになる。
「おやすみ、青柳くん」
「おやすみなさい」
数分後。
青柳は暗闇の中で目を開けた。
(……。)
眠れない。
初めてのテントだからだろうか。
地面の硬さ。
シュラフの窮屈さ。
雨音。
普段とはまるで違う環境だ。
それとも。
青柳は顔をほんの少し横へ向けた。
五十センチほど隣。
芦川翔子が眠っている。
(いやいやいや。)
慌てて天井へ視線を戻す。
山岳部の副部長。
三年生。
部活の先輩。
今日は自分の能力を見るために付き合ってくれている。
それだけだ。
(寝よう。)
目を閉じる。
だが。
同じテントの中。
五十センチ隣に女子大生。
しかも自分がそれなりに綺麗だと思っている先輩。
(普通、気になるだろ……。)
芦川はどうなのだろう。
そう思って耳を澄ます。
「すぅ……」
(寝てる。)
早い。
あまりにも早い。
山頂を往復し、後輩の面倒を見て、風呂に入り、ご飯を食べたら睡眠。
何の迷いもない。
(僕、男として全然意識されてないんだろうな……。)
それはそれで少し複雑だった。
もっとも、芦川にとっては後輩とのテント泊など山岳部活動の延長なのだろう。
青柳も目を閉じた。
雨音を聞く。
少しまどろむ。
目が覚める。
また眠る。
また目が覚める。
何時なのか分からない。
スマートフォンを見るのも面倒だった。
隣では。
「すぅ……」
副部長が実によく眠っている。
(すごいな、この人……。)
登山能力とは別の意味で感心した。




