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EPISODE24 水汲み

(24)

 やがて。

 テントの生地が、ぼんやりと明るくなってきた。

 朝だった。

「……。」

 青柳はシュラフの中で目を開ける。

 寝たような。

 寝ていないような。

 身体は休んだはずなのに、頭がぼんやりしている。

 初めてのテント泊。

 初めての二千メートル峰。

 初めての日本百名山。

 そして初めて、女の先輩と五十センチの距離で一晩を過ごした。

 得た経験は多かった。

 睡眠だけは、圧倒的に足りなかった。

 隣のシュラフが動いた。

「んー……」

 芦川翔子が身体を伸ばす。

「よく寝た」

 青柳は天井を見たまま思った。

(でしょうね。)

 水光大学山岳部、雲取山練習山行二日目。

 睡眠十分の副部長と、ほぼ寝不足の一年生。

 二人の朝は、かなり対照的な状態で始まった。

◇

 朝。

 青柳豪毅が目を覚まして最初に気づいたのは、音がしないことだった。

「……雨、やんでる」

 昨夜、テントのフライシートを叩き続けていた雨音が消えている。

 入口を少し開けて外を見る。

 空は相変わらず灰色だった。

 しかし、雨粒は落ちていない。

「おはよう」

 隣から声がした。

「……おはようございます」

 芦川翔子は、すでにシュラフから出ていた。

 よく眠ったらしい。

 顔を洗い、栗色の髪をいつものポニーテールにまとめ、黒縁眼鏡をかける。

 いつもの副部長が完成している。

 一方。

「青柳くん」

「はい」

「大丈夫?」

「何がですか」

「ぼーっとしてる」

「……寝不足です」

「あら」

 芦川が首をかしげた。

「眠れなかった?」

「初めてのテントだったので」

 嘘ではない。

 それだけが理由でもない。

「そのうち慣れるよ」

「副部長はよく眠れました?」

「ぐっすり」

「でしょうね」

「何、その言い方」

「いえ、別に」

 青柳は欠伸を噛み殺しながら、出発準備を始めた。

     ◇

 朝食は、昨日の夕食以上に簡素だった。

「はい」

 芦川から渡されたのは、半分に切ったフランスパン。

 そして。

 カップ入りの長ネギみそ汁。

「……これだけですか」

「これだけ」

「朝ご飯ですよね」

「朝ご飯」

 芦川は湯を沸かし、二人分のみそ汁へ注ぐ。

「まあ今日は三時間かけて戻るだけだし」

 自分もフランスパンをちぎる。

「ほとんど林道だから、そんなにしっかり食べる必要ないと思って」

「昨日、僕の行動食について語ってた人とは思えないですね」

「必要なカロリーは取ってるよ」

 芦川は笑った。

「それにお昼までには下山できるから」

 青柳はフランスパンをみそ汁と一緒に食べる。

「フランスパンとみそ汁って合います?」

「食べられればいいの」

「山岳部の食事、思ってたのと違いました」

「だから七月はカレー作るって」

「期待しておきます」

 長ネギのみそ汁だけは、朝の冷えた身体にはありがたかった。

     ◇

 朝食を済ませる。

 続いてテントの撤収。

 昨日は説明書を見ながら青柳が設営したが、撤収は芦川が加わると早かった。

「ポール抜いて」

「はい」

「フライ、濡れてるからちょっと払って」

「はい」

「畳み方はそんなに神経質にならなくていいよ。袋に入ればいいから」

「副部長、意外と雑ですね」

「合理的と言って」

 シュラフ。

 マット。

 テント。

 泊まり道具をすべてザックへ収納する。

 午前六時頃。

「忘れ物なし?」

「大丈夫です」

「じゃ、帰ろう」

 二人は三条の湯を出発した。

     ◇

 沢沿いの道を歩き、昨日通った林道へ出る。

 あとは長い林道をお祭のバス停まで戻るだけ。

 青柳は眠い。

 脚にも昨日の疲労が残っている。

 それでも道そのものは難しくない。

(まあ、三時間歩けば終わりか)

 そう考えていたときだった。

「青柳くん」

「はい」

「ちょっと寄り道する」

「どこへ?」

「こっち」

 芦川が林道を外れた。

「え?」

「二分くらいだから」

 枝沢沿いに残る踏み跡へ入っていく。

 青柳もついていく。

 そして本当に二分ほどだった。

「あった」

 芦川が立ち止まる。

 岩肌の一角。

 その隙間から、澄んだ水がこんこんと湧き出していた。

「湧き水ですか」

「そう」

 芦川がザックを下ろす。

 そして取り出した。

 昨日、お祭のバス停で青柳へ渡した折り畳み式ポリタンク。

「あ」

 青柳はようやく思い出した。

「これ、帰りに使うって言ってましたね」

「言ったでしょう」

「まさか」

「そのまさか」

 芦川は満面の笑みを浮かべた。

「水、五リットルずつ汲んで持って帰るわよ」

「……ずつ?」

「私と青柳くんで五リットルずつ」

「十キロ増えるじゃないですか」

「そうとも言う」

「そうとしか言わないですよ」

 芦川はしゃがみ込み、ポリタンクを湧き水へ近づけた。

「これ、山岳部の最重要ミッション」

「昨日の雲取山より?」

「ある意味では」

「意味が分かりません」

     ◇

 透明な水がポリタンクへ入っていく。

 一リットル。

 二リットル。

 徐々に容器が膨らむ。

 五リットル。

 当然、五キロ。

 青柳は持ち上げてみた。

「重っ」

「水だからね」

「これ背負って三時間ですか」

「林道だから大丈夫」

「副部長、その言葉、信用できなくなってきました」

 芦川はもう一つのポリタンクへ水を汲みながら笑った。

「うちら山岳部はね、料理研究会と深いつながりがあって」

「料理研究会?」

「そう」

 芦川は満水になったポリタンクの蓋をしっかり閉める。

「こうやって山の名水を持って帰る代わりに、向こうから余った食材を分けてもらってるの」

「物々交換じゃないですか」

「学内サークル間相互協力と言って」

「絶対そんな立派なものじゃないですよね」

「失礼ね」

 芦川は立ち上がる。

「君も知ってると思うけど、うちの料理研究会、最近かなりガチだから」

「ああ……」

 青柳にも心当たりはあった。

 料理研究会。

 名前だけ聞けば、大学生が集まってお菓子でも作っている穏やかなサークルに思える。

 ところが水光大学の料理研究会は違った。

 最近は他大学との料理勝負に熱中している。

 学園祭だけでは飽き足らず、他校の料理系サークルと交流戦を企画しては、食材、調理法、盛り付けまで研究する。

「だから、できる範囲で協力してるのよ」

「名水まで使うんですか」

「使うらしいよ」

「料理って、水でそんなに変わるんですか?」

「知らない」

「知らないんですか」

「私、山岳部だもん」

 芦川は平然と答えた。

「料理のことは料理研究会に聞いて」

「じゃあ何で僕らが水汲んでるんです?」

「だから食材もらうため」

「そこだけ明確ですね」

「大事なことよ」

 芦川は五キロの水を自分のザックへ収めた。

「この前食べた農協ごはんも、もともと料理研究会経由でOB会から回ってきたものだし」

「なるほど……」

 大学の部活動とは、青柳が思っていたより複雑な共生関係で成り立っているらしい。

     ◇

 帰りのザックは、当然ながら往路より重かった。

「……重い」

「頑張れ一年生」

「副部長も同じの背負ってるじゃないですか」

「だから私も頑張ってる」

 二人は林道を歩く。

 昨日とは逆方向。

 下り基調。

 歩きやすい。

 ただし、五リットルの水が肩へ食い込む。

 寝不足の青柳には、これが地味にこたえた。

 それでも。

 一歩。

 一歩。

 いつものペース。

 速くはない。

 休みたくなれば立ち止まる。

 水を飲む。

 再び歩く。

 芦川はその後ろ姿を見ながら思った。

(やっぱり崩れないな。)

 疲れている。

 寝不足。

 昨日の筋肉疲労もある。

 荷物も重い。

 それでも青柳の歩き方そのものは変わらない。

(俊祐みたい。)

 またそう思った。

 少し癪だったので、口には出さなかった。


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