EPISODE25 料理研究会との関係
二人は無事、お祭のバス停へ戻った。
そこからバス。
奥多摩駅。 青梅線。 立川。
さらに大学へ。時刻は午後三時頃。
「……帰ってきた」
青柳には、大学の校舎が妙に都会的な建造物に見えた。
昨日の朝ここを出てから、林道を歩き、山へ登り、雨に降られ、テントで眠り、温泉へ入り、さらに水十リットルを運んできた。
わずか一泊二日なのに、ずいぶん長い時間が経ったような気がする。
二人は部室棟の四階へ上がった。
山岳部の部室へザックや共同装備を置く。
「青柳くん」
「はい」
「まだ帰らないよ」
「……まだ何かあるんですか」
芦川がポリタンクを持ち上げた。
「最重要ミッションが完了してない」
「ああ」
名水。
「これ、料理研究会へ届ける」
青柳も自分が運んできたポリタンクを持つ。
「調理室でしたっけ」
「そう」
二人は部室を出た。
階段を下りながら、芦川がふと思いついたように青柳を見る。
「そうだ」
「何ですか」
「料理研究会に水届けるついでに、君を紹介するわね」
「僕を?」
「うん」
「なんでです?」
芦川は答えない。
黒縁眼鏡の奥で、少しいたずらっぽく目を細めた。
「行けば分かる」
「……嫌な予感しかしないんですけど」
「大丈夫、大丈夫」
「副部長がそう言うとき、大抵大丈夫じゃないですよね」
「山岳部と料理研究会は深いつながりがあるって言ったでしょう」
「僕、山から水運んできただけですよ」
「だから十分よ」
芦川は楽しそうに笑う。
「さあ、水光大学が誇るガチ料理集団に、新人山男をご紹介しましょうか」
雲取山練習山行は終わった。
少なくとも青柳は、そのつもりだった。
しかし彼の一泊二日は、なぜか最後の最後で、大学の調理室へと続いていた。
◇
青柳豪毅でも知っていた。
水光大学には、学生の間で半ば冗談、半ば本気で語られる「三大ガチ部活」がある。
一つ目。
レスリング部。
屈強な男たちが毎日のように身体を鍛え、マットの上でぶつかり合う。
大学の体育会系部活としてはかなりの実績を持ち、卒業後にプロレスラーへ転向したOBも何人かいる。
一般学生からすれば、
――近寄るだけで筋肉量が違う。
そんな印象の部活だった。
二つ目。
ダンス部。
こちらは方向性がまったく違う。
日々、創作ダンスや奇妙な振り付けを研究し、練習する陽気な集団。
普段は学内のあちこちで音楽を流して踊っているため、やたらと目立つ。
しかし学園祭では、その徹底した練習の成果で毎年大きな拍手を集める。
三つ目。
料理研究会。
名前だけ聞けば、一番平和そうだった。
だが実態は違う。
顧問である神林公子がほぼ完全に放任しているのをいいことに、部員たちは「うまいもの」を作ることだけに異常な情熱を注いでいた。
素材。
水。
火加減。
出汁。
発酵。
盛り付け。
何でも研究する。
そして近年では、なぜか他大学の料理系サークルとの「定期戦」なるものまで開催し、勝敗へ執念を燃やしている。
学生たちの間では、
――料理研究会というより料理格闘技部。
などと言われていた。
ちなみに。
山岳部も、昭和の頃までは危険な岩稜や冬山へ積極的に挑み、「四大凶悪部活」の一角として恐れられていた時代があったらしい。
しかし時代は変わった。
事故を避ける。
無理をしない。
安全管理を徹底する。
そして何より現在の監督は樋口響子である。
いまや水光大学山岳部は、多少変わった部員はいるものの、比較的まともな体育会系部活へ落ち着いていた。
少なくとも、青柳はそう思っている。
◇
調理実習棟へ入った瞬間から、匂いが違った。
昆布。
鰹節。
醤油。
何かを炒めている香ばしい匂い。
甘い菓子のような香りまで混ざっている。
青柳は五リットル入りのポリタンクを抱えながら、芦川翔子のあとをついていった。
調理室の中では、数人の学生がそれぞれ別の作業をしていた。
誰かが包丁を握っている。
誰かが鍋を見ている。
誰かが料理の写真を撮影している。
全員が妙に真剣だった。
「……すごいですね。」
「でしょう。」
芦川は慣れた様子で奥へ進む。
そして。
「麻衣ー。」
声を掛けた。
「メースイ持ってきたわよ。」
調理室の一番奥。
大きなガステーブルの前で鍋を見ていた少女が振り返った。
「あ、翔子さん。」
「あざます。」
小柄だった。
ショートカット。
年齢は芦川と同じくらいだろう。
顔立ちは整っているが、かわいらしいというより意志の強さを感じさせる。
目つきが鋭い。
火にかけた鍋を見つめているだけなのに、何かの勝負をしているような顔だった。
少女は火力を少し弱めてから、青柳へ視線を向ける。
「この人は?」
「紹介するわ。」
芦川が青柳の肩を軽く叩いた。
「山岳部のニューフェイス。」
「青柳豪毅くん。」
「どうも。」
青柳が頭を下げる。
少女は短くうなずいた。
「ふーん。」
「私は料理研究会部長、三年の鈴波麻衣。」
「よろしくね。」
「よろしくお願いします。」
青柳がポリタンクを差し出す。
鈴波はそれを受け取った。
「これ?」
「そう。」
「奥多摩の名水。」
「十リットル。」
「助かる。」
鈴波はすぐに蓋を開けた。
青柳は当然、そのまま保管するのだと思った。
違った。
鈴波は小さな味見皿を取り出す。
ポリタンクから水をほんの少し注ぐ。
「……。」
皿を持ち上げる。
口へ含む。
くちゅっ。
水を舌の上で転がすような音が、妙に静かな調理室へ響いた。
青柳は思わず芦川を見る。
芦川は平然としていた。
どうやらいつものことらしい。
鈴波は目を閉じる。
一秒。
二秒。
三秒。
「……なるほど。」
真剣な顔で言った。
「奥多摩。」
少し考える。
「いや、奥秩父寄りかな。」
「え?」
青柳が思わず声を漏らした。
鈴波はさらに言う。
「岩に磨かれた味がする。」
「……。」
青柳には何を言っているのか、まったく分からなかった。
芦川は満足そうに笑う。
「ご名答。」
「そのとおり。」
「三条の湯近く、アザミ沢の湧き水。」
「やっぱり。」
鈴波はもう一度水を見る。
「癖がない。」
「でも硬すぎない。」
「煮沸して保存しても、これなら煮物とか吸い物に使えると思う。」
「そこまで分かるの?」
青柳が聞く。
鈴波は当然のように答えた。
「水は料理の基本だから。」
「……そうですか。」
「そう。」
そして、口元へ少し笑みを浮かべる。
「これで来週の定期戦、吉祥学園の連中に勝てる。」
「助かったわ。」
「定期戦……。」
青柳がつぶやく。
やはり料理研究会ではない。
何か別の競技団体にしか聞こえない。
「いえいえ。」
芦川は笑った。
「いつも食材たくさん回してもらってるから、このくらいはしないと。」
「この前の米、使った?」
「使った。」
「雲取で。」
「焼き鳥缶と一緒に。」
「雑な食べ方するわね。」
「山岳部だから。」
「素材をもっと大切にして。」
「山でそこまで言われても。」
二人は慣れた調子で言い合う。
青柳は黙って聞いていた。
どうやら山岳部と料理研究会の関係は、自分が想像していた以上に長いものらしい。
◇
鈴波は再び青柳を見る。
「青柳……くん。」
「はい。」
「一年?」
「一年です。」
「そう。」
少しだけ値踏みするような視線。
青柳は居心地が悪くなった。
「翔子さん、来年四年でしょう。」
「そうね。」
「だったら。」
鈴波は青柳を指差した。
「その次、君が山岳部引っ張ることになるんだよね?」
「え。」
青柳の思考が止まった。
「いや。」
「そんな話、決まってないです。」
「違うの?」
鈴波が芦川を見る。
芦川は笑っている。
「まあ。」
「候補ではあるかな。」
「副部長。」
「なに?」
「初めて聞きました。」
「今まで言ってないから。」
「じゃあ何でこの人知ってるんですか。」
「麻衣、勘がいいから。」
「普通に消去法。」
鈴波が言った。
「景美ちゃんは山を走り回ってそうだし。」
「瞳ちゃんは大変そうだし。」
「智代ちゃんは音楽でしょう。」
「そうすると君じゃん。」
「そんな決め方あるんですか。」
青柳は思わず言った。
鈴波は気にしない。
「まあいいや。」
そして、少しだけ真面目な表情になる。
「山岳部には昔から世話になってるから。」
「君が上になるなら、料理研究会のこともよろしくね。」
「名水とか。」
「山菜とか。」
「山小屋でしか手に入らないものとか。」
「要求増えてません?」
「恩返しは必ずするから。」
「食材で?」
「食材でも。」
鈴波は笑った。
「料理でも。」
「だから、よろしく。」
「……はい。」
青柳は何となく押し切られてしまった。
自分はまだ一年生。
入部して二か月程度。
それなのに、なぜか他部の部長から来年度以降の山岳部の代表者のような扱いを受けている。
(話が早すぎる……。)
芦川を見る。
助けてほしい。
だが。
芦川は面白そうに笑っているだけだった。
◇
「じゃ、またね。」
「水ありがとう。」
「来週勝ったら何か持っていく。」
「期待してる。」
芦川と青柳は調理室を出た。
廊下へ出る。
ドアが閉まる。
「……。」
青柳はしばらく黙っていた。
「副部長。」
「ん?」
「僕、本当に次期部長候補なんですか。」
「その話はまた今度。」
「逃げましたね。」
「今日は疲れてるでしょう。」
「そこだけ急に気を使わないでください。」
芦川はくすくす笑う。
そのまま廊下を歩き始める。
数歩。
そして。
「……今日は、あの子いなかったか。」
小さくつぶやいた。
「え?」
青柳が聞き返す。
芦川の表情が、ほんの少しだけ変わっていた。
さっきまでのいたずらっぽい笑みが消えている。
「誰ですか?」
「料理研究会の暴走女。」
「暴走女?」
「諏訪原理子。」
「……。」
名前にも聞き覚えがない。
「料理研究会の人ですか?」
「うん。」
「そんなにすごいんです?」
芦川は少し考えた。
そして。
「すごい、というか。」
黒縁眼鏡の奥で、少し目を細める。
「関わると疲れる。」
「副部長がそう言うくらい?」
「そう。」
青柳は、先ほどの鈴波麻衣を思い出した。
湧き水を一口飲んだだけで産地を当てる部長。
その鈴波より、さらに「暴走」と呼ばれる人間がいる。
(料理研究会……。)
青柳は改めて思った。
(やっぱり三大ガチ部活だ。)
その横で芦川は、どこか安心したように小さく息を吐いた。
「まあ、今日は会わなくてよかった。」
「……それ、完全に前振りですよね。」
「何が?」
「そのうち会うやつです。」
芦川は答えず、ただ笑った。
雲取山での二日間を終えた青柳豪毅。
その最後に彼が知ったのは。
水光大学には山より厄介そうな人間が、まだいくらでも存在するということだった。




