EPISODE26 山岳レースへの誘い
七月上旬。
水光大学山岳部の狭い部室に、久しぶりに六人全員が揃っていた。
六畳ほどしかない部屋に六人も入れば、それだけで窮屈だった。
手前に置かれた応接セットには一年生四人。宮木景美、大古森瞳、田村智代、青柳豪毅が詰めて座り、福山俊祐は壁際に寄りかかっている。
そして、本来なら部長席であるはずの机には、いつものように副部長の芦川翔子が陣取っていた。
「じゃ、始めるよ」
芦川が黒縁眼鏡を押し上げる。
机の上にはノートパソコン。隣にはガイドブックが二冊。
「まず、来週から前期試験が始まっちゃうから」
一年生四人を見回す。
「試験が終わるまでは部活動休止」
「えっ」
真っ先に反応したのは宮木だった。
「山行もですか?」
「なし」
「自主練は?」
「個人で高尾山行くくらいなら止めないけど、部としては動かない」
「なんでです?」
芦川は即答した。
「うちの先生厳しいから」
全員が納得した。
樋口響子。
山岳部監督。
山行にはほとんど同行しないくせに、学生の本分についてだけは一切妥協しない准教授である。
「前期試験中に山岳部が集団で山へ行ったなんて樋口先生の耳に入ったら、私が怒られるから」
「副部長が、なんですね」
青柳が言った。
「部長じゃなくて」
全員の視線が福山へ向く。
「俺?」
福山が顔を上げた。
芦川は一瞥した。
「先生も誰が実質的に運営してるか知ってるから」
「なるほど」
「納得しないでよ」
福山が苦笑する。
「というわけで」
芦川が話を戻した。
「単位落とさないように。特に一年生。ちゃんと勉強してください」
そこまで言ってから、芦川はノートパソコンの画面を切り替えた。
「で」
少しだけ声の調子が変わった。
「試験が終わったら、いよいよ夏休み山行です」
宮木の表情が変わった。
「おっ」
「まず七月末」
芦川は言った。
「南八ヶ岳。一泊二日」
一瞬。
部室が静かになった。
「……八ヶ岳?」
大古森が小さな声で繰り返す。
「そう」
「八ヶ岳って、あの八ヶ岳ですか?」
「どの八ヶ岳を想像してるか分からないけど、多分その八ヶ岳」
「おおっ!」
宮木が笑った。
「ついに!」
明らかに嬉しそうだった。
芦川はそんな宮木を見て、やっぱりそうなるか、という顔をする。
「まだあるよ」
画面をもう一度切り替えた。
「九月頭」
そして。
「南アルプス、塩見岳。二泊三日」
「おおー!」
宮木の目がさらに輝いた。
一方。
「……。」
大古森は完全に固まった。
青柳も言葉が出ない。
(南アルプス……。)
山岳部に入る前の自分でも、その名前くらいは知っている。
丹沢。
奥多摩。
八ヶ岳。
そして南アルプス。
明らかに山の規模が大きくなっている。
「両方ともテント山行」
芦川は淡々と続ける。
「スケジュールとかコース、持ち物については後日まとめて資料をメールするから、ちゃんと読んでおいて」
「テント……」
大古森の顔から血の気が引いていく。
田村は逆に首をかしげた。
「塩見岳って、どのくらい大変なんですか?」
「智代さん」
「はい?」
「知らない方が幸せなこともあるよ」
青柳がぼそりと言った。
「え?」
「いや……。」
青柳は下を向いた。
(これは大変なことになりそうだ。)
雲取山だけでも、十分大変だった。
八時間歩き、雨に降られ、テントでろくに眠れなかった。
あれが練習。
そして今度は八ヶ岳。
その次は南アルプス。
(副部長、いよいよ本気出してきたな……。)
ちらりと芦川を見る。
その横で。
「ふっ」
福山が小さく笑った。
芦川が気づく。
「何?」
「いや」
福山は口元を緩めた。
「いよいよ本気出してきたなと思って」
「……。」
青柳は思わず福山を見た。
(同じこと考えてる。)
「俊祐」
「はいはい」
「他人事みたいに言ってるけど、あなた部長だからね」
「分かってるって」
福山は笑っている。
むしろ少し楽しそうだった。
北アルプス好きの福山にとって、本格的な夏山シーズンの到来は歓迎すべきことなのだろう。
しかし。
「……無理です」
小さな声がした。
大古森だった。
「ん?」
芦川が見る。
「私……行けるわけないです」
完全に青ざめている。
塔ノ岳。
花立で撤退。
その記憶が蘇っているのだろう。
「ああ」
芦川の表情がすぐに柔らかくなった。
「瞳さん、そこは心配しなくていいよ」
「でも……。」
「レベルに応じて、ちゃんとコース取りはある程度配慮するから」
「本当ですか?」
「本当」
芦川はうなずいた。
「合同山行だからって、全員にまったく同じことをやらせるつもりはないよ」
大古森が少しだけ安心した表情になる。
「山は逃げないからね。今できることをやればいい」
その横で宮木が、少し残念そうな顔をしていた。
「景美さん」
「はい」
「あなたは別」
「え?」
「あなたにはちゃんと歩いてもらうから」
「はい!」
一瞬で笑顔になった。
(嬉しいんだ……。)
青柳は改めて宮木景美という人間の底知れなさを感じた。
◇
芦川はその後も夏山の注意事項を説明した。
装備。
防寒。
雨具。
水分。
テント泊で必要になる共同装備。
そして、試験終了後に改めて全員の装備確認をすること。
「以上かな」
芦川がノートパソコンを閉じた。
「あと――」
何か思い出したように顔を上げる。
「男子二人」
「ん?」
福山が反応する。
「部長と青柳くん」
「はい」
「出てって」
「……はい?」
青柳は意味が分からなかった。
「女子だけで話したいことあるから」
「ああ」
福山はすぐに立ち上がった。
「行くぞ、青柳」
「え、あ、はい」
青柳も立つ。
何の話だろう。
疑問には思ったが、聞かない方がいいような気がした。
◇
二人で部室を出る。
扉が閉まった。
福山は廊下を歩き始める。
青柳もついていった。
「部長」
「ん?」
「何の話するんですかね」
「知らない」
「部長でも?」
「知らなくていいんだよ」
福山は階段へ向かいながら言った。
「女の子はいろいろあるんだ」
「いろいろ」
「大きい山行になればなるほど、細かいことが大事になる」
福山は淡々としていた。
「あいつはそう考えるんだ」
「あいつ?」
「芦川」
「ああ」
青柳も、それ以上は聞かなかった。
山では、食事も睡眠も着替えもトイレも、普段の生活とは勝手が違う。
しかも今度は一泊、二泊。
女子には女子なりに確認しておくことがあるのだろう。
「じゃ、俺帰るわ」
「はい。お疲れさまでした」
「試験頑張れよ」
「部長もですよ」
「俺は何とかする」
相変わらず根拠のないマイペースさだった。
◇
青柳はそのまま帰らず、学食へ向かった。
前期試験。
山岳部は休止。
つまり今は学生の本分に戻らなくてはならない。
テーブルに英文読解の教科書とノートを広げる。
「……。」
英文を読む。
一行。
二行。
三行。
頭に入らない。
(八ヶ岳か……。)
いや。
(勉強。)
再び英文を見る。
スマートフォンが震えた。
LINEだった。
画面を見る。
宮木景美。
『ちょっといいかな?』
「……?」
さっきまで同じ部屋にいたのに。
『学食にいるけど』
送る。
すぐに返事が来た。
『そっち行く』
◇
数分後。
「あ、いた」
宮木が現れた。
「隣いい?」
「どうぞ」
向かいではなく、青柳の隣へ座った。
「何?」
「ちょっと見てほしいものがあって」
宮木はスマートフォンを取り出した。
「これ」
画面を青柳へ向ける。
「……。」
そこには山の写真と、大きな文字。
青柳はタイトルを読んだ。
「裏丹沢山岳耐久レース……?」
「そう」
「山岳耐久?」
「トレイルランニングみたいなやつ」
画面をスクロールする。
地図。
距離。
累積標高差。
制限時間。
見ているだけで嫌な数字が並んでいる。
「……景美さん」
「うん」
「これ、走るの?」
「全部走らなくてもいいみたい。登りは歩いてもいいって」
「そういう問題かな……。」
青柳はスマートフォンを見る。
宮木がこういうものに興味を持つこと自体は、まったく意外ではなかった。
むしろ。
(ついに見つけちゃったか。)
という感想だった。
大室山。
副部長が本気で登っても平然とついていったという。
下りも覚え始めている。
有り余る体力。
それを使う場所を探していた宮木には、いかにも魅力的に見えるだろう。
「出るの?」
「出てみたい」
即答だった。
「副部長に相談した?」
「まだ」
「なんで先に僕?」
宮木は一瞬、言葉を止めた。
そして、少しだけ笑った。
「青柳くんなら、付き合ってくれるかなって」
「……。」
嫌な予感がした。
「付き合うって何に?」
「これ」
宮木がスマートフォンを指差す。
「この裏丹沢山岳耐久レース」
「……。」
「一緒に出てみない?」
「え?」
青柳は固まった。
宮木は期待に満ちた目でこちらを見ている。
「お願い」
「いやいやいや」
「ダメ?」
「待って」
青柳はもう一度、画面を見る。
距離。
標高差。
制限時間。
もう一度、宮木を見る。
笑顔。
もう一度、画面。
「僕、この前雲取山で普通にへばってたんだけど」
「でも最後まで歩けたじゃん」
「歩いたんだよ。これは耐久レースでしょう」
「大丈夫」
「何を根拠に」
「青柳くん、粘り強いから」
「それ、副部長にも似たようなこと言われたけど、体力があるって意味じゃないからね」
「じゃあ鍛えようよ」
「簡単に言うなあ……。」
宮木は楽しそうだった。
青柳は頭を抱えたくなった。
八ヶ岳。
塩見岳。
前期試験。
そこへ突然追加された。
裏丹沢山岳耐久レース。
(大学一年の夏って、こんなに忙しいものなのか?)
少なくとも、美少女ライトノベルを読みながら静かな大学生活を送るつもりだった入学前の予定とは、まるで違っていた。
「で?」
宮木が顔を覗き込んでくる。
「どうする?」
「……。」
青柳は答えられない。
だが宮木景美の表情を見ていると、なぜだか。
この話がここで終わることだけはないような気がした。




