EPISODE00 出会い
四月。
水光大学のキャンパスは、新入生を迎える浮ついた空気に包まれていた。
校舎へ続く並木道には各部・サークルの勧誘看板が並び、その間を色とりどりのビラを持った上級生たちが行き交っている。
「テニスサークルでーす!」
「新入生歓迎会、参加無料です!」
「軽音! 初心者大歓迎!」
そんな声の飛び交う中を、青柳豪毅は一人で歩いていた。
長野県茅野市から上京して数日。
経済学部一年。
知り合いはほとんどいない。
高校時代までの青柳は、はっきり言ってしまえば陰キャだった。
放課後は一人で帰宅し、美少女の描かれたライトノベルを読む。クラスメートとは必要があれば話すが、積極的に輪へ入るような性格ではない。
だからこそ、大学では少しくらい違うことをやってみてもいいと思っていた。
せっかくのキャンパスライフだ。
部活にも入ってみたい。
友達も作りたい。
できれば――。
(彼女とかも……できたらいいな)
そこまで考えて、青柳は自分で恥ずかしくなった。
別に恋人を作るために大学へ来たわけではない。
何より四年後には就職活動がある。
体育会系の部活に所属していた経験は就職活動で多少有利になる、という話も聞いたことがあった。
ただし。
(あんまり厳しいのは嫌だな……)
毎朝六時集合。
週六日練習。
先輩の命令は絶対。
そんな世界へ飛び込む勇気はない。
それなら文化系サークルでもいい。
結局、どこへ入るか決められないまま、青柳は新入生向けの部活動合同説明会へ顔を出した。
そこで。
彼女と出会った。
◇
「山岳部副部長を務めている芦川だ」
壇上に立った女子学生が、マイクを握った。
栗色の髪をポニーテールにまとめている。
黒縁眼鏡。
すらりとした体形。
青柳より少し年上なのだろうが、ずいぶん大人びて見えた。
「新入生の皆」
一度、会場を見渡す。
「来たれ、山岳部へ!」
よく通る声だった。
(山岳部か……)
青柳にとって山は、身近なようで遠い存在だった。
茅野市出身だから、山そのものは嫌というほど見て育った。
八ヶ岳も見える。
学校行事で山へ行った経験くらいならある。
だが、自分から山頂を目指して何時間も歩いたことなど一度もない。
「自然に比べて、人間の力はあまりにも無力だ」
いきなり話が壮大になった。
「それを一番実感できるのが山岳部だ」
(……なんかスピリチュアルな話が始まったぞ)
青柳は眼鏡の奥で瞬きをした。
しかし壇上の芦川は大真面目だった。
「大雨。洪水。強風。寒さ。雷」
一つ一つ、指を折る。
「最近では熊なんかの野生動物まで立ちはだかってくる」
そこで少し間を置いた。
「そして、ひとたび対処を誤れば、簡単に人は死んでしまう。それが登山だ」
(怖いよ)
勧誘する気があるのだろうか。
隣の新入生も若干引いている。
だが芦川は続けた。
「だが――」
声に力が入った。
「判断と対処を誤らなければ、困難に屈せず目的を達することもできる」
会場が少し静かになった。
「これからの長い長い人生、社会生活において、困難に対処しなければならないことはゴマンとあるだろう」
仕事。
人間関係。
失敗。
予想もしなかったトラブル。
「そういう困難を前にしたとき、何を考え、どう判断し、どう行動するか」
芦川は胸を張った。
「その困難への対処を学ぶことができるのが、山岳部だ」
青柳は、いつの間にか彼女の話を真面目に聞いていた。
山に興味を持った、というのとは少し違う。
むしろ。
(この人、すごいな)
そう思った。
大勢の新入生を前に、堂々と自分の言葉で話している。
自分とは正反対だった。
それに――困難への対処。
就職活動でも使えそうな言葉だった。
青柳豪毅十八歳。
現金な男である。
◇
翌日。
グラウンド横の古びた部室棟。
その四階、一番奥。
青柳は「水光大学山岳部」と書かれた札の前に立っていた。
(来ちゃった……)
まだ入部すると決めたわけではない。
話を聞くだけ。
そう自分に言い聞かせて扉をノックする。
「はい」
男の声。
「失礼します」
扉を開ける。
狭い。
六畳ほどだろうか。
奥半分には登山用品を詰め込んだプラスチックケースが積み上がり、手前には年季の入ったソファとテーブル。
壁際の机に、一人の男子学生がいた。
細身だが、いかにも運動部らしい身体つき。
男は青柳を見る。
「入部希望か」
「えっと……まだ話を聞きに来ただけなんですが」
「おお」
男はうなずいた。
「副部長、お茶でも出してくれ」
「なんで私が出すのよ」
奥から聞き覚えのある声がした。
昨日、壇上にいた女子学生。
芦川だった。
「あっ」
「お」
芦川も青柳に気づく。
「昨日、説明会にいた子でしょう?」
「覚えてるんですか?」
「前の方にいたからね」
青柳は少し驚いた。
「経済学部一年の、青柳豪毅といいます。登山は未経験ですが、先日の説明会で山岳部に興味ができまして……」
「おお、そうか」
男は嬉しそうにうなずいた。
「まあ、お茶でも飲んでってくれ」
「だから、なんであなたが言うのよ」
芦川は呆れた顔をする。
「ほらあ、部長。昨日、貴方がしゃべらなくて正解だったでしょう」
「何がだよ」
「貴方、口下手だから。下手したら勧誘できなくて新入部員ゼロ」
「……」
「そしたら部費カットされて、遠征代が……」
「くっ……」
男が言葉に詰まる。
そして青柳へ向き直った。
「僕は部長の福山だ。福山俊祐。よろしく」
「よろしくお願いします」
(この人が部長なんだ……)
昨日あれだけ熱弁を振るった芦川が副部長。
こちらの少し無愛想な男が部長。
何となく組織構造が見えた気がした。
◇
「はい、どうぞ」
芦川がマグカップを青柳の前へ置いた。
「ありがとうございます」
コーヒーだった。
「砂糖とミルクは?」
「ブラックで大丈夫です」
「あら、大人ね」
青柳は一口飲んだ。
香りがいい。
コーヒーに詳しいわけではないが、妙にすっきりしている。
「美味しいですね、このコーヒー」
芦川の表情が明るくなった。
「あら、味の違いが分かるなんて嬉しいわ」
自分のマグカップを手に取る。
「これ、遠征先の名水で淹れたコーヒーなのよ」
「名水?」
「そう」
芦川は得意そうに言った。
「山の湧き水」
「へえ……豆もいいものなんですか?」
「豆?」
芦川は一瞬きょとんとして。
「業務スーパーで買った普通のだけど」
「そこは普通なんですね」
「水がいいと味が引き立つのよ」
横から福山が口を挟む。
「こいつ、こういうの好きなんだ」
「俊祐は黙ってて」
「はい」
青柳は思った。
(やっぱり副部長の方が偉そうだな……)
◇
「で、青柳くん」
芦川が向かいのソファへ座った。
「登山未経験なんだよね?」
「はい」
「体力は?」
「普通だと思います」
「スポーツ経験は?」
「特には」
「高いところは?」
「多分大丈夫です」
「岩登りは?」
「やったことないです」
「ふむ」
黒縁眼鏡の奥から観察される。
青柳は就職面接でも受けているような気分になった。
「まあ、問題ないね」
「いいんですか?」
「最初はみんな初心者だから」
そして芦川は身を乗り出した。
「それにね、うちの山岳部は自由なのよ」
「自由?」
「なにせ全員参加は隔月。年六回の公式合同山行だけ」
「……六回?」
「そう」
「一年で?」
「一年で」
青柳は耳を疑った。
「それ以外は?」
「各部員が登りたい山へ適当に登る自主山行」
「放課後の練習とかは?」
「ないわ」
芦川はあっさり答えた。
「せいぜいここで山の本でも読むか、体力つけたかったら校舎の階段を上り下りするくらい」
「年六回だけ……」
青柳の心が大きく動いた。
「そんなフリーダムな部活なのですか」
「だって」
芦川が笑った。
「山をかじり始めると、登りたい山の方向性がみんなバラバラになってくるのよねえ」
福山を親指で指す。
「私は奥多摩とか奥秩父の森を歩きたいんだけど、あの人は北アルプス大好きで、宗派が違うのよね」
「宗派ってなんだよ」
「似たようなものでしょう」
「違うだろ」
芦川は無視した。
「昔は岩登り大好きな人もいたし、高尾山レベルのゆる登山だけでいいって人もいたし」
「へえ……」
「だから山岳部としては、基礎だけはみんなで共有しましょう。あとは各自好きな山へ登って、たまに情報交換とか技術交流しましょうって考えなの」
なるほど。
青柳が抱いていた体育会系山岳部のイメージとは、かなり違った。
もっとこう。
重い荷物を背負わされる。
先輩に怒鳴られる。
冬山へ放り込まれる。
そんな世界だと思っていた。
「もちろん公式山行はちゃんと参加してもらうけどね」
「六回なら……」
「なんとかなるでしょう?」
「まあ……」
「それに」
芦川が急に現実的な顔になった。
「うちだって、ガンガン遠征に行けるほど先立つものもないしね」
「お金ですか」
「お金です」
福山が重々しくうなずいた。
「山は金がかかるぞ」
「交通費、装備代、山小屋代。アルプスなんて行こうと思ったら結構するから」
芦川は指を折る。
「だからテントとか共同装備は部にあるものを貸す。最初から全部買わなくていい」
「それは助かります」
「でしょう?」
芦川は微笑んだ。
そして、青柳の目をまっすぐ見る。
「どう?」
「……」
「人生経験、豊かになるぞ」
青柳は一瞬、言葉に詰まった。
昨日の演説とは違う。
今度は目の前で、自分一人に向けて言われた。
人生経験。
高校時代まで、一人で本を読んで過ごすことの多かった自分。
せっかく東京へ出てきたのだ。
今までやったことのないことを、一つくらいやってみてもいいのではないか。
体育会系。
就職活動にも多少は使える。
活動は年六回。
思ったより自由。
何より。
この人についていけば、今まで知らなかった何かを見られるような気がした。
◇
その週末。
青柳豪毅は、再び山岳部の部室を訪れた。
「失礼します」
「はい」
いつもの席にいた芦川が顔を上げる。
青柳は一枚の紙を差し出した。
「これ」
入部届。
芦川は受け取る。
名前を確認した。
「青柳豪毅……と」
そして、にっと笑った。
「ようこそ、水光大学山岳部へ」
「よろしくお願いします」
このときの青柳は、まだ知らなかった。
年六回の公式山行だけ。
放課後の練習もなし。
自由で気楽な体育会系部活動。
その説明に嘘はない。
嘘はないのだが――。
その数か月後。
丹沢で階段地獄に苦しみ。
雲取山で雨に打たれ。
女子の先輩とテントで一夜を過ごして眠れず。
山奥から料理研究会のために五リットルの水を背負わされ。
さらには同級生の女子から山岳耐久レースへ誘われることになるとは。
この時点では、知る由もなかった。
ただ一つ確かなのは。
合同説明会で芦川翔子の演説を聞いたあの日から。
青柳豪毅の「静かな大学生活」という予定だけは、すでに少しずつ狂い始めていたのである。




