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EPISODE27 付け人

宮木景美から「裏丹沢山岳耐久レースに一緒に出てみない?」と誘われた翌日。

 青柳豪毅は、授業の合間も、帰宅してからも、そのことばかり考えていた。

 四十キロ近い山道。

 制限時間十二時間。

 文字で見るだけでも、どう考えても自分向きではない。

 宮木なら分かる。

 あの大室山で、芦川副部長の本気の登りについていった人間だ。

 しかも下りの技術まで急速に身につけている。

 対して自分は。

 雲取山で八時間動いたら、最後には脚が明らかに鈍った。

 雨の下山では、副部長に恋愛話まで振られて気を紛らわせてもらった。

(無理だろ……。)

 何度考えても、結論はそこへ戻る。

 けれど。

 スマートフォンを開く。

 宮木から送られてきたメッセージ。

『一緒に出たら楽しそうじゃない?』

 その一文を見る。

(ここで断ったら。)

 宮木は、たぶん笑って「そっか」と言うだろう。

 でも。

 少しくらいは残念に思うはずだ。

 青柳はそこまで考えて、ため息をついた。

「……やるだけやってみるか。」

 自分でも、どうしてそんな結論になったのか分からない。

 ただ、気づけば指は動いていた。

『やるだけやってみます。裏丹沢山岳耐久レース』

 送信。

 数秒。

『ほんと!?』

 すぐに返ってきた。

『やった! 一緒に頑張ろう!』

 画面越しなのに、宮木の笑顔が目に浮かぶようだった。

「……。」

 青柳はスマートフォンを伏せた。

(もう逃げられないな。)

     ◇

 裏丹沢山岳耐久レース。

 開催は十月最初の週末。

 青柳は申し込みを済ませ、参加費を振り込んだ。

 金額そのものより。

(本当に払っちゃった……。)

 という事実の方が重かった。

 あと二か月少々。

 それまでに、少しでも身体を作らなければならない。

 幸いと言っていいのか。

 夏休みには、すでに大きな山行が二つ予定されていた。

 七月末。

 南八ヶ岳、一泊二日。

 九月頭。

 南アルプス塩見岳、二泊三日。

 どちらもテント泊。

 つまり。

(嫌でも鍛えられるってことか。)

 青柳はそう考えることにした。

     ◇

 七月下旬。

 前期試験があらかた終わった日の午後。

 青柳は久しぶりに山岳部の部室へ向かった。

 四階の一番奥。

 扉を開ける。

「こんにちは。」

「お疲れ。」

 やはりいた。

 芦川翔子。

 部長席を実質的に占拠し、ノートパソコンと山岳地図を広げている。

 黒縁眼鏡。

 栗色のポニーテール。

 机の脇には飲みかけのアイスコーヒー。

「試験どうだった?」

「たぶん大丈夫です。」

「たぶん?」

「単位は取れると思います。」

「ならよし。」

 芦川は画面へ視線を戻す。

「で、何か用?」

「相談があって。」

「珍しいね。」

 青柳はソファへ座った。

「宮木さんに誘われて。」

「うん。」

「十月に、裏丹沢山岳耐久レースっていうのに出ることになりました。」

 芦川の指が止まった。

「……。」

 ゆっくり顔を上げる。

「もう申し込んだ?」

「はい。」

「参加費も?」

「払いました。」

「……そう。」

 芦川はスマートフォンを取り出した。

「ちょっと待って。」

 大会名を入力する。

 検索。

 画面を開く。

 数秒。

「……あー。」

 何とも言えない顔になった。

「これね。」

「知ってたんですか?」

「名前くらいは。」

 画面をスクロールする。

 距離。

 制限時間。

 コース。

 標高差。

 芦川はしばらく黙って確認した。

 そして。

「もう気づいちゃったか……。」

 苦笑した。

「何がです?」

「景美さんが。」

「こういう世界。」

 青柳は首をかしげる。

「だって、あの子が山岳部に入った理由、そもそも山岳耐久レースでしょう?」

「あ。」

「いつか見つけると思ってた。」

 芦川はスマートフォンを机へ置く。

「四十キロ弱。」

「はい。」

「制限時間十二時間。」

「はい。」

「山岳耐久レースの中では、比較的初心者向けだと思う。」

「初心者向けで四十キロですか。」

「比較対象が悪いのよ。」

 芦川はさらりと言った。

「もっとひどいの、いくらでもあるから。」

「聞きたくないです。」

「で。」

 芦川は腕を組む。

「景美さんは……。」

 少し考える。

「たぶん行ける。」

「やっぱり。」

「もちろん、山岳レースは普通の登山とは違うから、断言はできない。」

「はい。」

「周りに速い人がいる。雰囲気に飲まれる。序盤で飛ばす。補給忘れる。下りで調子に乗る。」

 一つずつ指を折る。

「そのへんで自滅しなければ。」

 そして。

「景美さんなら完走できる可能性はあると思う。」

 青柳は納得した。

 問題は。

「僕は?」

「厳しい。」

 即答だった。

「早いですね。」

「正直に言った方がいいでしょう。」

「まあ……。」

「雲取山で見た限り、青柳くんは長く歩ける。でも速さがない。」

「はい。」

「四十キロを十二時間で処理するとなると、休憩込みだから、かなり効率よく動かないといけない。」

「やっぱり無理ですか。」

「無理とは言ってない。」

 芦川は少し身を乗り出した。

「ただし。」

「だめだと思ったら、潔くリタイアしなさい。」

 青柳は黙る。

「完走だけが正解じゃないから。」

「はい。」

「途中で脚が終わった。時間的に無理。体調悪い。」

「そうなったら撤退。」

 芦川は穏やかに言った。

「その判断ができることも、山のスキルだから。」

 青柳はうなずいた。

「でもね。」

「はい?」

 芦川の口元に、少し悪戯っぽい笑みが浮かぶ。

「青柳くん。」

「完走目指さなくていいんじゃない?」

「え?」

「景美さんのサポート。」

 少し考える。

「いや。」

「付き人?」

「……付き人?」

「そう。」

 芦川は真顔だった。


「大相撲中継で映ってるでしょう。」

「何がです?」

「力士の横についてる若い力士。」

「……。」

「荷物持ったり。」

「はい。」

「作戦話したり。」

「はい。」

「緊張ほぐしたり。」

「はい。」

「そういう役。」

「僕、それですか?」

「そう考えたら気が楽じゃない?」

「全然楽じゃないです。」

 芦川は笑った。

「でも、景美さんってたぶんレースになると周り見えなくなるよ。」

「ありそうですね。」

「そこを横から。」

 少し低い声で真似する。

「『景美さん、水飲んだ?』」

「『飛ばしすぎじゃない?』」

「『次の関門まであと何分』」

「……。」

「そういうこと言う人がいた方が、絶対いい。」

 青柳は少し考えた。

 確かに。

 宮木は体力がある。

 だからこそ、余裕があるうちは際限なく進みそうな危うさもある。

「付き人……。」

「嫌?」

「言い方が嫌です。」

「じゃあマネージャー。」

「それも違う気がします。」

「参謀。」

「急に格好よくなりましたね。」

「好きなの選んで。」

「じゃあ参謀で。」

 芦川は声を上げて笑った。

     ◇

「ただし。」

 ひとしきり笑ってから、芦川の表情が真面目になる。

「付き人でも参謀でも、ある程度はついていけないと意味ないからね。」

「ですよね。」

「景美さんが走ってるのに、青柳くんが三時間後ろじゃサポートできない。」

「はい。」

「ということで。」

 芦川は机の上に置いてあった南八ヶ岳の地図を広げた。

「八ヶ岳。」

 指でルートをなぞる。

 次に。

「南アルプス。」

 別の地図。

「塩見岳。」

 青柳は嫌な予感がした。

「副部長。」

「何?」

「まさか。」

「そのまさか。」

 芦川はにっこり笑った。

「景美さんと同じコースで鍛えてあげる。」

「……。」

「八ヶ岳も。」

「……。」

「南アルプスも。」

「……。」

「覚悟しなさい。」

 青柳は何も言えなかった。

 大古森には大古森向けのコース。

 田村には田村向け。

 宮木には高負荷。

 そして自分は。

(宮木さんについていくための訓練……。)

 どうやら。

 あの一通のLINEを送った瞬間から。

 青柳豪毅の夏山は、自動的に一段階厳しくなってしまったらしい。

「……副部長。」

「なに?」

「僕、断るという選択肢は。」

「もう参加費払ったんでしょう?」

「はい。」

「だったら。」

 黒縁眼鏡の奥で、芦川翔子が楽しそうに笑った。

「やるだけやってみなさい。」

 青柳は天井を見上げた。

 それは。

 数日前。

 自分が宮木へ送った言葉と、まったく同じだった。


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