EPISODE28 諏訪原さんの絶望カレー
(28)
南八ヶ岳山行の前日。
水光大学山岳部の部室は、いつも以上に足の踏み場がなかった。
床にはザック。
壁際にはテント。
テーブルの上にはコッヘル、ガスストーブ、燃料、救急用品、予備のヘッドライト。
芦川翔子は黒縁眼鏡を押し上げながら、一つ一つ装備を確認していた。
「テント二張り……よし。」
チェックリストへ印を付ける。
「バーナー二台……よし。」
ガス缶の残量も確認する。
「ファーストエイド、テーピング、予備電池……。」
確認しても。
確認しても。
次が出てくる。
「……面倒くさい。」
思わず本音が漏れた。
六人分の安全がかかっている。
忘れ物一つで即事故になるわけではない。
だが山の上では、下界なら簡単に手に入るものが手に入らない。
だから出発前に潰せる不安要素は、できるだけ潰しておく。
さらに今回はテント泊。
共同装備を誰へ持たせるかも考えなければならない。
芦川は床に並べた荷物を見る。
(瞳さんには、重い共同装備は持たせない。)
大倉尾根で限界を見ている。
本人の装備だけで十分だ。
(俊祐は……まあ、持たせていい。)
部長なのだから当然である。
(景美さんも問題なし。)
むしろ少し重くしても普通に歩きそうだ。
(青柳くんには……テント一つお願いしようかな。)
雲取山で、泊まり装備を背負って三時間の林道を淡々と歩けることは確認した。
速度はない。
だが、荷物を増やしてもペースが乱れにくい。
田村は――。
(体力的には大丈夫そうだけど、山行慣れしてないから調理道具くらいかな。)
芦川はチェックリストへ書き込む。
そして、深くため息。
「山岳部の管理者なんて、なるもんじゃないわね……。」
「何がです?」
突然声がして、芦川は顔を上げた。
「あ。」
入口に青柳豪毅が立っていた。
「こんにちは。」
「青柳くん、ちょうどよかった。」
「嫌な予感しますね。」
「正解。」
「やっぱり。」
芦川は立ち上がる。
「悪いんだけど、調理室行ってきてくれる?」
「調理室?」
「明日の夕飯用。」
「カレーですか?」
「そう。料理研究会にカレールーと野菜お願いしてあるの。」
青柳は一瞬黙った。
料理研究会。
鈴波麻衣。
山の名水を口に含んだだけで産地を言い当てた、あの小柄な料理狂。
そして。
――料理研究会の暴走女、諏訪原理子。
芦川が以前、少し険しい顔で口にした名前まで思い出した。
「僕が行くんですか。」
「私、これ終わらないから。」
芦川は周囲の装備を指差す。
「お願いします。」
「……分かりました。」
「ありがとう。」
実に自然な流れで雑用を任された。
◇
調理実習棟。
青柳は、やはり少し足が重かった。
(またあの人たちか……。)
料理研究会という名前に反して、どうにも普通の料理サークルという印象がない。
扉を開く。
「失礼します。」
調理室には数人の学生がいた。
だが、鈴波麻衣の姿が見えない。
「あの……。」
青柳は周囲を見回す。
「鈴波部長いますか?」
「ヘイッ。」
横から、明るい声が飛んできた。
「山岳部の少年。」
「……え?」
青柳が振り向く。
一瞬。
言葉が止まった。
銀髪。
長い。
艶のある髪が、背中まで流れている。
すらりとした長身。
黒いポロシャツ。
料理研究会のエプロン。
そして、人懐っこい笑顔。
かなり整った顔立ちだった。
「鈴波部長から話は聞いてるよ。」
少女は楽しそうに近づいてくる。
距離が近い。
「君、青柳くんでしょ?」
「はい。」
「ヘイッ、正解。」
少女は軽く指を立てる。
「私は料理研究会副部長、二年の諏訪原理子。」
「よろしくね。」
「……よろしくお願いします。」
(この人が?)
青柳は少し戸惑った。
芦川が「暴走女」と呼んでいた人物。
もっと。
目つきが危ないとか。
言動が異常とか。
近づくだけで何か分かるような人を想像していた。
だが。
目の前の諏訪原理子は、むしろ普通以上に親しみやすかった。
「鈴波部長は?」
「ああ。」
諏訪原は手をひらひら振る。
「麻衣先輩ならいないよ。」
「夏休み入ったから、都内の和食店へ武者修行。」
「武者修行?」
「そうそう。」
楽しそうに笑う。
「最低賃金でいいから修行させてくださいって店にお願いしたんだって。」
「今ごろ魚の刺身切ってるんじゃないかな。」
「……すごいですね。」
「すごいよねえ。」
諏訪原は感心したようにうなずく。
「私、そこまで料理に人生かけられないもん。」
「副部長なのに?」
「私は麻衣先輩の方針に乗っかってるだけ。」
「気楽にやってます。」
どうやら、本当に鈴波とはタイプが違うらしい。
「あ。」
諏訪原が手を叩く。
「カレーでしょ?」
「はい。」
「聞いてる聞いてる。」
冷蔵庫の方へ向かう。
「ちょっと待ってね。」
数秒後。
戻ってきた。
手には、透明なジップロック。
中には。
茶色い塊。
「……これは?」
青柳が聞く。
諏訪原は満面の笑顔になった。
「ヘイッ!」
袋を掲げる。
「諏訪原さん特製。」
一拍。
「絶望カレーの素だよ!」
「……絶望?」
「うん。」
「カレーですよね?」
「カレー。」
「なんで絶望なんですか。」
諏訪原は当然のように答える。
「山岳部って、死にそうな極限状態になること多いんでしょ?」
「いや……。」
否定しようとして。
大倉尾根。
雲取山。
雨。
長時間行動。
いろいろ思い出す。
「まあ、たまに。」
「でしょ?」
諏訪原は嬉しそうだ。
「そんな絶望的な状況でも、おいしく食べられるようにスパイス調整してあるの。」
「どんな調整なんです?」
「秘密。」
「……。」
「あははは。」
諏訪原は笑いながら、袋を青柳へ渡す。
何個か入っている。
見た目だけでは、普通のカレーペーストにしか見えない。
「これ、ルーなんですか?」
「ルーっていうか、ペースト。」
「鍋に入れて溶かせば大丈夫。」
「辛い?」
「疲れてても食べられる程度。」
「香りは強め。」
「塩分もちょっと山仕様。」
「かなり考えてるんですね。」
「料理研究会だからね。」
胸を張る。
その瞬間だけは、少し鈴波麻衣に似ていた。
「それでね。」
「まだあるんですか。」
「このカレーは。」
諏訪原が声を低くする。
「野菜と一緒に煮込むと――」
青柳は待つ。
「十倍おいしくなる。」
「十倍。」
「当社比。」
「何と比較してるんですか。」
「気分。」
すぐに答えた。
「……。」
「だから。」
今度は紙袋を二つ渡される。
「玉ねぎ。」
「はい。」
「ジャガイモ。」
「はい。」
「両方とも北海道産。」
「いい素材だから。」
ずしり。
地味に重い。
「これ全部、山まで?」
「頑張って。」
「山岳部だから。」
言われてしまった。
「それと。」
諏訪原が青柳の顔を覗き込む。
「玉ねぎ切るとき、気をつけてね。」
「何をです?」
「いい玉ねぎだから。」
「はい。」
「涙、止まんなくなると思う。」
「品質と関係あるんですか?」
「あるある。」
本当なのか。
「だから割り箸くわえながら切って。」
「……何で?」
「涙が出にくい。」
「本当に?」
「たぶん。」
「たぶん?」
「私、そういう迷信好きなの。」
にこっと笑う。
青柳は思った。
(少し変な人ではある。)
ただ。
芦川の言っていた「暴走女」とは、少し印象が違う。
話しやすい。
明るい。
距離感は近いが、不快ではない。
何より――。
(普通に美人だな……。)
銀髪。
長身。
スタイルもいい。
笑うと少し小悪魔的な雰囲気がある。
青柳は、少しだけ目をそらした。
「どうしたの?」
「いえ。」
「顔赤くない?」
「暑いだけです。」
「調理室、冷房効いてるよ?」
「……。」
「ヘイッ。」
諏訪原は楽しそうに笑った。
「かわいいね、一年生。」
「からかわないでください。」
「あはは、ごめんごめん。」
だが、謝っている顔ではなかった。
◇
「じゃ、これで全部。」
絶望カレーの素。
玉ねぎ。
ジャガイモ。
「芦川先輩によろしく。」
「はい。」
「あと。」
「はい?」
「カレー食べた感想、今度聞かせて。」
「分かりました。」
「『絶望しました』とかでもいいよ。」
「味が悪いみたいじゃないですか。」
「それは困る。」
諏訪原は笑う。
青柳は荷物を抱え、調理室を出た。
廊下へ出る。
扉が閉まる。
数歩歩く。
そして。
「……。」
足を止めた。
改めて思い出す。
芦川翔子の言葉。
――料理研究会の暴走女、諏訪原理子。
「……そんなに悪い人には見えなかったけどな。」
むしろ。
かなり親しみやすい。
しかも、外見は明らかに自分の好みから外れているとは言い切れない。
(いや。)
すぐに思考を止める。
料理研究会副部長。
二年生。
しかも芦川が警戒している人物。
(余計なこと考えない方がいいな。)
青柳は紙袋を持ち直した。
ところが。
頭の片隅には、先ほどの銀髪と笑顔がしばらく残っていた。
南八ヶ岳山行前日。
青柳豪毅は、この日初めて。
芦川翔子が「関わると疲れる」と評した少女、諏訪原理子と出会った。
そしてまだ。
その評価の本当の意味を、何一つ知らなかった。




