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EPISODE29 南八ヶ岳登山1

午前七時。

 水光大学の正門前には、まだ夏休みに入ったばかりの静けさが残っていた。

 その中で、山岳部員六人はそれぞれ大きなザックを抱え、樋口響子のアルファードの前に集まっていた。

「忘れ物ない?」

 芦川翔子が最後の確認をする。

「テント二張り。」

「あります。」

「共同調理器具。」

「積みました。」

「絶望カレー。」

 青柳豪毅が紙袋を持ち上げる。

「あります。」

「その名前、なんとかならないの?」

 田村智代が少し不安そうに言う。

「料理研究会副部長命名だから。」

「余計怖いですね。」

 そんなやり取りをしている間にも、荷物は次々とアルファードへ積み込まれていく。

 最後にリアゲートを閉めた樋口が、運転席へ向かう。

「じゃあ出るわよ。」

 そして振り返った。

「無理しない、怪我しない、月曜から――」

「先生、夏休みです。」

 芦川が突っ込む。

「……じゃあ夏休み明けから学業。」

「だいぶ先ですね。」

「細かいこと言わない。」

 午前七時過ぎ。

 アルファードは大学を出発した。

     ◇

 朝の中央自動車道。

 樋口のアルファードは、東京の市街地を離れ、西へ向かって快調に走っていた。

 後部座席では、一年生たちがそれぞれ違う表情を浮かべている。

 宮木景美だけは、いつもどおりだった。

 窓の外を眺めながら、時折楽しそうに山の方向を見ている。

 一方。

 青柳。

 大古森。

 田村。

 三人の表情には、わずかな緊張があった。

 南八ヶ岳。

 これまでの丹沢や奥秩父とは、名前の響きからして違う。

 しかも一泊二日。

 テント泊。

「青柳くん。」

 隣から宮木が声を掛ける。

「緊張してる?」

「まあ、少し。」

「私、楽しみ。」

「知ってる。」

「瞳ちゃんは?」

 大古森は窓際で小さくなっていた。

「……不安。」

「大丈夫だって。」

「景美ちゃんの大丈夫は信用できない……。」

「なんで?」

「基準が違うから。」

 その一言には全員が少し納得した。

 田村は前の席で静かにガイドブックを眺めている。

「八ヶ岳って、こんなにたくさん峰があるんですね。」

「そうよ。」

 助手席の芦川が答える。

「今日行くのは南八ヶ岳側。」

「権現岳。」

「はい。」

「岩っぽい雰囲気もあるけど、今回は初心者向けに余裕を持った行程にしてる。」

「日帰りもできるんですよね?」

「健脚ならね。」

 芦川は少しだけ振り返る。

「でも今回は初心者三人いるし。」

「それに。」

 宮木を見る。

「テント泊をみんなに経験してもらうのも目的。」

「私、テント楽しみです。」

「青柳くんは経験済み。」

「一応。」

「眠れた?」

「それは聞かないでください。」

 芦川が吹き出す。

 樋口は運転しながら眉をひそめた。

「なに、その話。」

「なんでもないです。」

「怪しいわね。」

「先生、運転に集中してください。」

「分かってるわよ。」

     ◇

 途中のパーキングエリアで一度休憩を取った。

 トイレ。

 水分。

 軽いストレッチ。

 樋口はコーヒーを買い、一年生たちは売店を少し眺める。

「今から山登るのにソフトクリーム食べたい。」

 宮木が言う。

「やめときなさい。」

 芦川が即答する。

「帰りにしよう。」

「約束ですよ。」

「覚えてたらね。」

「絶対覚えてます。」

 再び車へ乗り込む。

 小淵沢インターチェンジで高速道路を降りる。

 そこから八ヶ岳公園道路へ。

 標高が上がるにつれ、空気が少しずつ涼しくなっていく。

 そして。

「着いた。」

 樋口の声。

 観音平。

 ここが今日の登山口だった。

     ◇

 車から降りると、空気が違った。

「涼しい。」

 大古森が思わず声を上げる。

 東京の蒸し暑さとはまるで違う。

 観音平の標高は、およそ千五百六十メートル。

 すでにかなり高い場所から歩き始める。

 全員で荷物を下ろす。

 テント。

 個人装備。

 共同装備。

 芦川は一人ずつザックの重さを確認していく。

 大古森は軽め。

 田村は中程度。

 青柳はテントを一張り。

 福山と宮木にはやや重め。

「景美さん。」

「はい。」

「重くない?」

「大丈夫です。」

「でしょうね。」

「副部長、最近雑じゃないですか?」

「信頼してるの。」

 芦川は笑った。

 時刻は十時を少し過ぎていた。

「じゃあ、今日の行程説明するね。」

 地図を広げる。

「ここ観音平から、青年小屋まで。」

「そこでテント泊。」

「明日、権現岳へ登って戻る。」

 青柳が地図を見る。

「今日は山頂まで行かないんですね。」

「行かない。」

「楽ですね。」

「その発言、あとで後悔しても知らないよ。」

「……。」

 そして隊列。

 先頭。

 芦川翔子。

 その後ろに大古森瞳。

 田村智代。

 青柳豪毅。

 宮木景美。

 最後尾、福山俊祐。

「今日は瞳さんのペース基準。」

 芦川が言う。

 大古森が少し驚く。

「私ですか?」

「そう。」

「なんで……。」

「全員で青年小屋に着くのが目的だから。」

 そして歩き始めた。

     ◇

 登山道は、苔むした森の中へ続いていた。

 八ヶ岳らしい深い原生林。

 倒木。

 岩。

 木の根。

 そのすべてを鮮やかな緑の苔が覆っている。

「すごい……。」

 田村が立ち止まりそうになる。

「幻想的な雰囲気だわ……。」

 まるで映画の中へ入り込んだようだった。

 湿った土の匂い。

 木々の間から差し込む光。

 鳥の声。

 田村は何度も周囲へ目を向ける。

「智代さん。」

 芦川が前から声を掛ける。

「景色見るのはいいけど、歩きながら横ばっかり見ないでね。」

「あ、はい。」

「転ぶよ。」

「すみません。」

 それでも嬉しそうだった。

 音楽をやっている人間らしく、景色の受け取り方が少し違うのだろう。

     ◇

 芦川は意識的にゆっくり歩いていた。

 大古森の呼吸。

 歩幅。

 肩の上下。

 何度も確認する。

「瞳さん。」

「はい。」

「今どう?」

「まだ大丈夫です。」

「呼吸は?」

「苦しくないです。」

「よし。」

 大倉尾根では、最初から少しペースが速かった。

 今回は違う。

 最初から大古森に合わせる。

 急がない。

 長時間歩ける速度。

「副部長。」

 青柳が後ろから声を掛けた。

「はい。」

「標高差って、どのくらいなんですか。」

「いい質問。」

 芦川は振り返らずに答える。

「観音平が千五百六十メートル。」

「今日泊まる青年小屋が二千三百八十メートル。」

「青柳くん。」

「はい。」

「引き算。」

「え。」

「ほら。」

 青柳は頭の中で計算する。

「……八百二十メートル。」

「正解。」

「だから単純な標高差だけなら、大倉尾根よりまだまし。」

「まだまし、っていう言い方が怖いですね。」

「山岳部だから。」

「便利な言葉ですね。」

 後ろで福山が笑った。

     ◇

 登り始めて一時間少々。

 森の中に少し開けた場所が現れた。

「雲海。」

 芦川が言った。

「ここで休憩。」

 全員がザックを下ろす。

「ふう……。」

 大古森も腰を下ろした。

 だが、大倉尾根のときとは違う。

 息が乱れていない。

 表情にも余裕がある。

 そして。

 ごそごそ。

 ザックのポケットから何かを取り出した。

「それ何?」

 宮木が覗く。

「塩大福。」

「大福?」

「調べたの。」

 大古森は袋を開ける。

「長く歩くときは、少しずつ糖分と塩分取った方がいいって。」

 ぱくり。

 半分食べる。

 そして水。

 ごくり。

「おいしい?」

「うん。」

 残りも食べる。

 芦川は少し離れたところから、その様子を見ていた。

(調べてきたんだ。)

 大倉尾根で苦しんだ。

 黒川鶏冠山では、自分が急登に弱いことも分かってきた。

 そして今回は、自分なりに対策してきた。

「瞳さん。」

「はい。」

「いいね。」

「え?」

「今の補給。」

「あ……。」

「そういうの大事。」

 大古森は少し照れたように笑った。

「前みたいになりたくないので。」

 その一言を聞いて。

 芦川も小さく笑った。

 宮木のような、圧倒的な体力はない。

 青柳のように、淡々と長く歩けるタイプでもない。

 田村のような集中力もない。

 それでも。

 自分で失敗を振り返って。

 次に対策してくる。

 それも立派な成長だった。

「よし。」

 芦川が腕時計を見る。

「あと五分休んだら行くよ。」

 大古森はもう一口、水を飲んだ。

 苔むした八ヶ岳の森。

 その先には。

 今日の目的地、青年小屋が待っていた。

 雲海を出発してからも、登山道の雰囲気は大きく変わらなかった。

 苔むした樹林帯。

 湿った土。

 ところどころに露出した岩。

 急すぎない登りが、森の奥へ延々と続いている。

 六人は、相変わらず大古森瞳の歩調に合わせていた。

 一歩。

 一歩。

 急がない。

 大古森も、今回は呼吸を大きく乱していない。

 先ほど塩大福を食べた効果もあってか、足取りは思ったより安定していた。

 芦川翔子は何度か振り返って、その様子を確認する。

「瞳さん、大丈夫?」

「はい。」

「まだ余裕ある?」

「前の丹沢よりは全然。」

「それならよし。」

 芦川は満足そうに前を向いた。

 塔ノ岳の経験は、無駄ではなかった。

 大古森自身が補給を工夫し、歩き方も少しずつ変わっている。

 今はそれで十分だ。

     ◇

 雲海からおよそ一時間。

 時刻は十二時半頃。

 六人は押手川の分岐へ到着した。

「ここで一回止まろう。」

 芦川の指示で、全員がザックを下ろす。

 地図を広げる。

「ここから道が二つに分かれる。」

 芦川が指を置いた。

「左。」

「はい。」

「編笠山の頂上を通って青年小屋へ向かう道。」

 次に右。

「こっちは編笠山の山腹を巻いて、直接青年小屋へ行く。」

 大古森がすぐに聞いた。

「どっちが楽ですか?」

「当然、右。」

「じゃあ右で。」

 即答だった。

 宮木景美が笑う。

「瞳ちゃん早い。」

「だって……。」

 大古森はここまででも十分歩いている。

 まだばててはいない。

 だからこそ、余計な冒険をしたいとは思わなかった。

「うん。」

 芦川もうなずいた。

「瞳さんと智代さんは右でいい。」

「え?」

 青柳が反応した。

 芦川は黒縁眼鏡を押し上げる。

「青柳くんと景美さんは。」

 一拍置いて。

「私と三人で編笠山の頂上を踏んでいこうか。」

「……。」

 青柳は顔をしかめた。

「やっぱりですか。」

「やっぱり。」

「巻き道あるんですよね。」

「あるよ。」

「そっちじゃダメなんですか。」

「今後のこともあるし。」

 芦川はにっこり笑う。

 青柳には、その「今後」が何を意味しているのか分かった。

 十月の裏丹沢山岳耐久レース。

 そして、その前に控える南アルプス。

「うう……。」

 思わず声が漏れる。

 宮木は対照的だった。

「頂上行けるんですね。」

 むしろ嬉しそうである。

「うん。」

「やった。」

「景美さんは喜ぶと思った。」

 芦川は苦笑した。

 そして福山俊祐へ向き直る。

「部長。」

「はいよ。」

「瞳さんと智代さんお願い。」

「了解。」

「ここから青年小屋まで一時間二十分くらいだと思う。」

「分かった。」

「急がなくていいから。」

「任せろ。」

 福山は大古森と田村を見る。

「じゃ、俺たちは楽な方行こう。」

「お願いします。」

 大古森の表情が目に見えて明るくなる。

 田村も静かにうなずいた。

 こうして六人は、再び二つのパーティーへ分かれた。


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