EPISODE30 南八ヶ岳登山2
「さて。」
芦川は編笠山へ向かう登山道を見る。
「ここからちょっと道が変わるよ。」
「どう変わるんです?」
青柳が尋ねる。
「急になる。」
「……。」
「あと。」
芦川は自分のストックを畳み始めた。
「ストックはザックにしまった方がいい。」
「なんでです?」
「手を使うところが出てくるから。」
「手?」
「岩をつかんで登るところ。」
青柳の顔が曇る。
「聞いてないです。」
「今言った。」
「それ便利ですね。」
「山岳部だから。」
「またそれですか。」
宮木もストックをしまう。
「面白そう。」
「あなたは本当に何でも楽しそうね。」
芦川は笑った。
◇
最初の十分ほどで、青柳にも意味が分かった。
傾斜が明らかに増した。
それまでの苔むした穏やかな登山道とは違う。
大きな岩。
木の根。
段差。
足だけでは上がりにくい場所では、自然と手を使う。
「青柳くん。」
「はい。」
「右手、そこ。」
芦川が岩を指差す。
「左足を一段上。」
「こうですか。」
「そう。」
「身体を引っ張り上げるんじゃなくて、脚で立つ。」
「はい。」
青柳は岩をつかむ。
足を上げる。
身体を持ち上げる。
「き、きっつい……。」
「まだ始まったばかり。」
「それ言わないでください。」
その後ろから宮木が続く。
彼女も、さすがにこれまでの登山道との違いには戸惑っていた。
「手も使うんですね。」
「そう。」
「こういうの初めてかも。」
「アルプスでは珍しくないよ。」
芦川が答える。
「ただし、手の力で登らない。」
「脚を使う。」
「足場決めてから身体上げる。」
「はい。」
宮木は素直に従う。
戸惑ってはいる。
だが。
足の動きはしっかりしていた。
一度教えれば、すぐ次の岩で試している。
(やっぱり吸収早いな。)
芦川は内心で感心する。
◇
さらに登る。
急峻。
また急峻。
時折、少し傾斜が緩む。
そしてまた岩。
「……はあ。」
青柳の呼吸は明らかに荒くなっていた。
「大丈夫?」
芦川が尋ねる。
「大丈夫じゃないですけど、行けます。」
「正しい返答。」
「雲取山でも似たようなこと言いましたよね。」
「言ったかな。」
「言いました。」
芦川は笑う。
「じゃあ、あと少し頑張ろう。」
「あと少しってどのくらいです?」
「登れば分かる。」
「信用できない……。」
やがて。
登山道の先に短い梯子が現れた。
「え。」
青柳が立ち止まる。
「これ?」
「これ。」
「登るんですか。」
「登るよ。」
「ですよね。」
芦川が先に取りつく。
「三点支持意識して。」
「手二つ、足一つ。あるいは手一つ、足二つ。」
「一気に動かない。」
「はい。」
芦川が軽やかに上がる。
青柳が続く。
宮木もその後。
短い梯子。
距離そのものは大したことがない。
だが青柳には、いつもの登山とは明らかに違う世界だった。
「こういうのがアルプスなんですね。」
「八ヶ岳もアルプスじゃないけどね。」
「今それ言います?」
芦川が笑った。
◇
さらに高度を上げる。
そして。
突然。
「うわ。」
宮木が声を上げた。
森が切れた。
空が広がる。
それまで頭上を覆っていた木々が消え、周囲の展望が一気に開けた。
「森林限界。」
芦川が言った。
風が強くなる。
空が近い。
岩の多い世界。
青柳は荒い息を整えながら周囲を見る。
「すごい……。」
初めてだった。
自分の足で、森の上まで登ってきた。
その感覚。
宮木も少し言葉を失っている。
「これが……。」
「山っぽいでしょう。」
芦川が笑う。
「山っぽいっていうか……。」
宮木はうまく言葉が出ない。
そして。
ほんの少し進んだところだった。
「あ。」
芦川が前を指す。
「着いた。」
目の前。
岩の間に立つ標識。
編笠山。
標高二千五百二十四メートル。
青柳は腕時計を見る。
「一時間……。」
「押手川から、だいたい一時間。」
芦川もうなずいた。
青柳は膝に手をつき、大きく息を吐く。
「はあ……はあ……。」
きつかった。
それでも。
登り切った。
隣では宮木が周囲を見回している。
呼吸は少し荒い。
だが、やはり余裕がある。
「副部長。」
「なに?」
「すごいですね。」
「何が?」
「さっきまで森の中だったのに。」
宮木は空を見る。
「急に世界が変わった。」
「それが高い山の面白いところ。」
芦川も周囲を見る。
そして少し笑った。
「ようこそ。」
「南八ヶ岳の稜線へ。」
青柳豪毅にとって。
ここが初めて、自分の足でたどり着いた二千五百メートルの世界だった。
「凄い眺めですね」
青柳豪毅は、ようやく整い始めた呼吸の合間にそう漏らした。
編笠山の山頂は、それまで歩いてきた苔むした森とはまるで別世界だった。頭上を覆っていた木々はなく、足元には大きな岩が転がり、その向こうには青い空と山並みがどこまでも広がっている。
何より圧倒的なのは、これから向かう八ヶ岳の峰々だった。
「あれが権現岳」
芦川翔子が指を差す。
「今回の本命ね。その奥の一番高く見えるのが赤岳。こっちが阿弥陀岳」
「……すごい」
宮木景美も、珍しくそれ以上の言葉が出てこなかった。
山岳部へ入ってからいくつもの山を歩いた。
塔ノ岳。
大室山。
だが、目の前にある景色は、それまでとは明らかに違う。
険しい峰が一つだけあるのではない。
大きな山々が連なっている。
その一つ一つに登山道があり、人が歩き、小屋があり、さらにその先へ道が続いている。
「赤岳って、八ヶ岳で一番高いんですよね?」
「そう。二八九九メートル」
「行けますか?」
「そのうちね」
芦川は笑った。
「景美さんなら体力は問題ないと思う。ただ、赤岳は体力だけで登る山じゃないから」
「岩ですか?」
「岩。鎖場もあるし、高度感のあるところもある。だから今回は権現岳でそのへんを経験してもらう」
「なるほど……」
宮木は再び赤岳を見た。
芦川はその横顔をちらりと見る。
やはり、この子は怖がるより先に興味を持つ。
それは登山者として大きな長所であると同時に、扱い方を間違えれば危うさにもなる。
「青柳くんも、あれが赤岳だから覚えておいて」
「僕も行くんですか?」
「そのうち」
「宮木さんと同じ答えなのが嫌なんですが」
「十月まで鍛えるって言ったでしょう」
「……付き人なのに」
「参謀じゃなかった?」
「そうでした」
そんな二人の会話を聞いて、宮木が笑った。
今度は振り返る。
こちらもまた、素晴らしい景色だった。
はるか眼下には、小淵沢周辺の街並み。
そこから視線を上げれば、甲斐駒ヶ岳をはじめとする南アルプスの山々が大きな壁のように連なっている。
そしてさらに遠く。
「あ。」
宮木が気づいた。
「富士山!」
「見えるでしょう」
芦川が笑う。
「天気よくて良かったね」
「ほんとに富士山って、どこから見ても分かるんですね」
「まあ、あの形だからね」
青柳も富士山を見る。
塔ノ岳の時にも見た。
だが標高二千五百メートルを超える場所から眺める富士山は、また印象が違う。
自分がずいぶん高いところまで来た。
ようやく、その実感が湧いてきた。
さっきまでの苦しい登りが、少しだけ報われた気がした。
◇
もっと眺めていたい。
だが、芦川が腕時計を見る。
「そろそろ行こうか」
「もうですか?」
宮木が少し残念そうに言う。
「もうそろそろ小屋に部長たち着くと思うから」
芦川は青年小屋の方向へ目を向ける。
「こっちがいつまでも来なかったら、心配させちゃうのもあれだし」
「青年小屋、あれですか?」
青柳が眼下を指した。
山と山の鞍部。
そこに、確かに建物の屋根が見える。
「そう」
「近いじゃないですか」
「……そう見えるね」
芦川が意味ありげに答える。
青柳は嫌な予感がした。
「また何かあるんですか?」
「下れば分かる」
「副部長、そればっかりですね」
◇
分かった。
編笠山から青年小屋へ向かう下り。
これが、思った以上に急だった。
「うわ……」
青柳が足を止める。
山頂直下からいきなり高度を落としていく。
しかも、登ってきた道とは違って大きな岩が多い。
「青柳くん、焦らない」
芦川が先に下りながら声を掛ける。
「歩幅小さく。足を置く場所を決めてから体重移す」
「はい」
「景美さんも」
「はい」
宮木も慎重に下る。
大室山で見せた軽快な下りとは勝手が違う。
土の登山道なら、多少勢いをつけても足で衝撃を受け止められる。
だが岩場では、一歩の選択を間違えればバランスを崩す。
それでも宮木は、芦川の動きを見ながら着実についてくる。
青柳も遅れながら、一歩ずつ下った。
青年小屋の屋根は見えている。
近そうなのに。
なかなか近づかない。
「見えてるのに着かない……」
「山あるあるね」
「精神的に嫌ですね、これ」
「小屋が見えてるだけありがたいと思いなさい」
樹林帯へ入り、さらに高度を下げる。
やがて道の様相がまた変わった。
巨大な岩が一面に転がっている。
「……これ、道ですか?」
「道よ」
「どこが?」
「ペンキ見て」
芦川が岩を指差す。
赤や黄色のペンキで印が付けられている。
「ここからは、それを追っていく」
岩から岩へ。
足を置く。
身体を移す。
また次の岩。
普通の登山道のようには歩けない。
「これ、地味に疲れますね」
「だから頂上から小屋が見えてても、すぐ着くとは限らないの」
宮木は相変わらず興味深そうだった。
「こういうところもレースで出ますか?」
「大会によるけど、景美さん」
「はい」
「今はレースのこと忘れようか」
「あ、はい」
芦川は苦笑した。
◇
午後二時過ぎ。
「あった!」
宮木の声。
岩の向こうに、青年小屋の建物が現れた。
今度こそ本当に近い。
三人は最後の岩場を越える。
そして。
「お疲れさん」
小屋の前から声が飛んできた。
「部長」
福山俊祐だった。
近くには田村智代と大古森瞳もいる。
三人とも、すでにザックを下ろしていた。
「いつ着いた?」
芦川が尋ねる。
「ちょっと前」
「問題なかった?」
「全然。巻き道は多少上り下りあったけど、瞳も普通に歩けた」
「ほんと?」
芦川が大古森を見る。
「はい」
大古森は少し疲れた顔をしている。
しかし、大倉尾根の時のような消耗はない。
「ちゃんと歩けました」
「よかった」
芦川は素直に笑った。
「こっちは?」
福山が聞く。
「青柳くんが苦しんだ」
「やっぱり」
「やっぱりって何ですか」
「宮木は?」
「元気」
「やっぱり」
「だから、やっぱりって何ですか」
今度は宮木が抗議した。




