第四章 開幕
激しさを増す雨は、王都ルミナスに立ち込める硝煙と血の匂いを洗い流すことはできなかった。
港湾区での大爆発により、ギオン帝国が誇る超巨大魔導砲はその真価を発揮する前に沈黙し、黒煙を上げて傾いていた。しかし、本隊の壊滅を免れた帝国軍の底力は依然として凄まじく、港の石畳は両軍の兵士の死体で埋め尽くされつつあった。
「セシル! 持ちこたえろ!」
カイル【中尉】が叫びながら、迫り来る帝国の重装歩兵を槍で突き崩す。
先鋒隊を率いるセシル・ルグラン【少佐】は、ジン・シュターク【大佐】との死闘の末、満身創痍であった。肩と脇腹から流れる血が雨水に滲み、白銀の甲冑を赤く染めている。しかし、その手に握られたトマス軍曹の形見である短剣の重みだけが、彼の意識を現世に繋ぎ止めていた。
「ハッ、はぁっ……。まだだ、まだ私は倒れるわけにはいかない……!」
セシルは痛む身体を鼓舞し、再び剣を構えた。その視線の先では、大腿部を負傷したジン【大佐】が、狂気と執念の入り混じった歪んだ笑みを浮かべて立ち上がっていた。
「お前らアルトの残党が、どれだけ小細工を弄そうとなぁ……! ヴォルグ閣下が、この地を離れることはない! 貴様らの旅路はここで終わりだ!」
ジン【大佐】が漆黒の双剣を交差させ、地を蹴った。負傷しているとは思えぬ速度で迫る死神の刃。
「受けて、立つ……!」
セシルは己の全魔力を足に込め、正面から迎え撃った。
金属が激突する凄まじい音が港に響き渡る。ジンの圧倒的な剣技がセシルの防御を崩し、漆黒の刃がセシルの胸当てを切り裂いた。しかし、セシルはその痛みに怯むことなく、自らの身体をさらに前へと押し進めた。
「何だと……!? 命を捨てる気か!」
ジンが驚愕の声を上げた瞬間、セシルは右手の短剣をジンの首元へと突き出した。
ザクッ、という肉を断つ鈍い音が、雨音に消される。トマス軍曹の形見の刃が、ジンの喉元を深く貫いていた。
「これ……は……、俺が……、負ける……だと……」
ジン・シュターク【大佐】の瞳から急速に光が失われ、その巨体が仰向けに石畳へと崩れ落ちた。帝国の狂犬と呼ばれた男の、それが最期であった。
「トマス軍曹……、やりましたよ……」
セシルはその場に膝をつき、激しい呼吸を繰り返した。ジンの執念から解放された瞬間、一気に押し寄せた疲労と激痛により、彼の視界は急速に狭まっていく。カイルたちが駆け寄ってくる声が遠くに聞こえるなか、セシルは静かに意識を失った。
一方、港の中央ドック付近では、アルト奪還解放軍の象徴であるリアンナ・アルト【総大将】と、総参謀長レオン・ヴァンス【中佐】が、驚異的な統率力で帝国軍の本隊を追い詰めていた。
「レオン中佐! 敵の右翼崩壊しました! 今こそ総督府への進撃の好機です!」
魔術兵の報告を受け、レオンは即座に決断を下した。
「全軍、港湾区の残敵を掃討しつつ、中央大通りから総督府へ進軍せよ! 王国五百年の歴史に泥を塗った侵略者たちに、真の鉄槌を下すのだ!」
「おおおっ!!」
解放軍の兵士たちの士気は最高潮に達していた。ジュリアン王子の最期の裏切りと、セシル少佐による敵将ジンの撃破。すべての歯車が、アルト王国の奪還という奇跡の瞬間に向かって噛み合い始めていた。
しかし、その高揚感を一瞬にして凍りつかせる、圧倒的な「圧」が戦場に降臨した。
ドクン、と戦場にいるすべての者が、心臓を直接掴まれたかのような錯覚に陥った。
中央大通りの霧の向こうから、悠然と歩みを進めてくる一人の老将の姿があった。
ギオン帝国軍総司令官、ヴォルグ・ザイラー【大将】。
その手に握られた魔槍『ニーズヘッグ』からは、周囲の雨粒さえも蒸発させるほどの、禍々しい黒き瘴気が立ち上っていた。彼の周囲を固めるのは、未だ無傷の帝国近衛兵一千。
「よくぞここまで戦線を押し戻したものだ、アルトの生き残りどもよ」
ヴォルグ【大将】の声は、拡声の魔導具を使っていないにも関わらず、港全体に明瞭に響き渡った。
「だが、個の武勇や一時的な奇策など、圧倒的な『国家の力』の前には無力。リアンナ・アルト、貴公らがどれだけ血を流そうとも、この王都ルミナスが再びお前たちの手に渡ることはない」
「ヴォルグ・ザイラー……!」
リアンナは白銀の大剣『獅子王』を構え、一歩前へ出た。彼女の身体からも、王族の血に眠る青白い魔導の闘気が立ち上る。
「我が父を、我が兄を、そして数万の同胞を虐殺した侵略の首魁! あなたを倒さねば、この国に本当の夜明けは訪れない!」
「ならば、来るがいい。英雄ゲインの遺志を、その身でどれだけ継いでいるか、見せてもらおう」
ヴォルグ【大将】が魔槍を静かに水平に構えた。その瞬間、彼の背後の空間が歪み、無数の黒い雷撃が走り始める。
「全軍、散開せよ! 殿下に近づかせるな!」
レオン【中佐】が叫び、自らも魔導銃を構えてヴォルグを狙った。しかし、ヴォルグが一歩を踏み出した瞬間、その姿が戦場から消えた。
ズドォォォォォン!!
次の瞬間、解放軍の前衛にいた数十人の兵士が、一撃のもとに吹き飛んだ。ヴォルグの魔槍が描き出す軌跡は、まさに天災そのものであった。
「速すぎる……! これが、帝国最強の男の力か……!」
レオンが放った魔導弾は、ヴォルグの周囲に展開された目に見えぬ障壁によってすべて弾き返された。ヴォルグは一瞥もくれず、真っ直ぐにリアンナへと向かって突進する。
「ハァァァァッ!!」
リアンナは『獅子王』を渾身の力で振り下ろした。ゲイン大将直伝の、空間ごと敵を断ち切る縦の一閃。
しかし、ヴォルグは『ニーズヘッグ』の柄の僅かな部分でそれを正確に受け止め、そのまま力を受け流した。
「重さはある。だが、ゲイン・ベン・ドーラの域には程遠い」
ヴォルグの冷徹な声と共に、魔槍の突きがリアンナの胸元を襲う。
リアンナは間一髪で大剣の腹でそれを受けたが、伝わってくる衝撃は彼女の体内の臓器を揺るがすほどに凄まじかった。
「くっ……、あ……っ!」
リアンナは十数メートルも後退し、地面に深く足跡を刻んだ。
戦場は、一人の怪物の登場によって、再び混沌の渦へと叩き落とされようとしていた。解放軍の兵士たちが次々とヴォルグに斬りかかるが、そのすべてが黒い雷撃の前に塵となって消えていく。
(このままでは、皆が全滅する……。ゲイン大将なら、どう戦った……!?)
リアンナは口元の血を拭い、再び『獅子王』を握り直した。彼女の脳裏に、あの日、王宮の大階段で立ったまま息絶えた英雄の背中が蘇る。ゲインは決して、力に屈しなかった。その誇りこそが、アルトの盾だったはずだ。
「レオン中佐! 私に、すべての魔力を集中させてください! アルトの全魂を、この一撃に懸けます!」
リアンナの決死の叫びに、レオンは目を見開いた。それが何を意味するか、軍師である彼には痛いほど理解できた。自身の生命力すらも代償にする、禁忌の魔力解放。
「……御意に、我が君。アルトの未来を、あなたに託します」
レオン【中佐】は魔術兵たちに命じ、自身を含むすべての生存者の魔力を、術式を通じてリアンナへと転送し始めた。
戦場に集う数千の兵士たちの想い、悲しみ、そして祖国奪還への執念が、青き光の奔流となってリアンナの身体へと流れ込んでいく。
「ほう、全霊を賭した一撃か。良いだろう、それに相応しい幕引きを用意してやる」
ヴォルグ【大将】の魔槍『ニーズヘッグ』もまた、限界を超えた黒き瘴気を放ち、周囲の空間を完全に漆黒へと染め上げていた。
両国のすべてを懸けた、最後の瞬間の幕が上がろうとしていた。




