薔薇のつぼみ(前編)
登場人物紹介
田中貴史:主人公。三三歳、サラリーマン。桃華の教育係をしていた。酒には弱い。
花咲桃華:ヒロイン。二三歳。先輩の貴史をからかうのが好き。酒豪。
森和雄:桃華の祖父。六〇歳。バー『カスク』のマスター。実はガンダムファン。基本マスターとしか呼ばれないので名前が出てくることはない。
久瀬亜香里:桃華の幼なじみ。自称二二歳。実際は、貴史と同年代っぽい? 桃華に頼まれて貴史を口説こうとしたが、酔っ払って楽しくなり忘れてしまった。
嵯峨万梨絵:貴史の同期。かなりの美人で同期の中でもアイドル的存在だった。先日、久々に再会した。
今日もいつも通り、社員食堂で昼食を取り自分の席に戻ろうと、廊下を歩いている時のことだ。
正面から歩いてくる人たちの中に、見覚えのある顔があった。
同期の嵯峨万梨絵だった。
遠目からでも一目で「美人だ」とわかる華やかな顔立ちをしていた。
万梨絵は、女子社員数人と楽しそうに話しながら歩いていたが、明らかに一番目立っていた。
あちらは、複数人で歩いているし、そんなところに話しかけられるわけもなく、貴史は通り過ぎようとした。
だが――
「田中くん」
万梨絵の方がが立ち止まり、声を掛けてきた。
「え?」
予想外のことに、思わずそんな声を出してしまう。
「また会ったね。――元気してた?」
万梨絵は笑顔で言った。
さすがに、反応をしないわけにはいかず、
「どうも、嵯峨さん……」
『また会った』とは、先日、給湯室で会ったときのことだろう。
万梨絵とは、これまで部署どころか勤務地も違うので、新人研修以来、顔を合わせたことはなかった。
それが、今年度から異動で同じ勤務地になったとのことで、給湯室での再会となったのだった。
「ぼちぼちかな。――それじゃ」
貴史は軽く会釈をして、歩き出す。
万梨絵とは、同期ではあるが、特に親しいわけではない。
連絡先も交換していない。
その程度の関係なので、挨拶程度で立ち去ろうと思ったのだが――
「ちょっと待ってよ、田中くん」
万梨絵は言いながら、早足で貴史を追いかけてきた。
ぽんと、肩を叩き、
「行っちゃうなんてヒドいじゃない」
万梨絵が口をとがらせる。
「いや、これから、昼メシ食べに行くんでしょ?」
「そうだけど……ちょっと、時間をもらえる?」
「……俺はもう昼メシ食べたから大丈夫だけど……」
貴史は戸惑う。
嵯峨万梨絵は、同期の中ではアイドル的存在だった。
芸能人顔負けの容姿に、人当たりの良い性格は、男女問わず大人気で、彼女の元には常に人が集まっていた。
常にぼっちだった貴史とは正反対だと言っていい。
彼女とは、こんなにフレンドリーに話すような関係ではなかったはずだ。
だが、万梨絵は気安い口調で、
「ねえ、ここじゃゆっくり話すことも出来ないから、今度飲みにいこうよ」
万梨絵は、とんでもないことを言ってきた。
正直、意味がわからなかった。
――あの嵯峨さんが、俺なんかを飲みに誘うなんて有り得ないだろ。
ここは、逃げの一手だろう。
「嵯峨さん」
「なに?」
「ほら、同僚の人たちが待ってるよ」
指差すと、女子社員達は、万梨絵を待っていた。
ついでに言うと、貴史に対して白い目も向けていた。
なぜ、万梨絵がこんな冴えない男と話しているのだろう、と思っているのだろう。
――俺から声を掛けたわけじゃないんだから、勘弁してくれ……
「あ」
万梨絵はうっかりしたような表情を見せた。
「じゃあ、俺は行くから」
貴史は返事を待たずに、歩き出した。
すると――
「飲みに行く約束、忘れないでねー」
そんな万梨絵の声が聞こえたが、聞こえなかったことにして、そのまま歩き去った。
気疲れしながら自分の席に戻り、一息を付く。
すると、ジト目の桃華がこちらを見ていた。
「センパイ、また同期の女の人と話してましたよね?」
「そうだけど、それが?」
「飲みに誘われてませんでしたか?」
「あんなの社交辞令だろ。ああいうのを鵜呑みにすると痛い目に遭うって」
「……センパイって、女性からの誘いに警戒しすぎじゃないですか?」
「いや、俺みたいな凡人が、生きて行くには、波風を立てない方がいいの」
「……まあ、わたしとしては、行かない方がいいので、いいですけど……」
「なんか言ったか?」
「なにも言ってません!」
「ていうか、またお前、覗いてたのか?」
「たまたまですよ、たまたま!」
仕事終わりに、今日も『カスク』に来た。
「いらっしゃいませ、田中様」
「いらっしゃいませー、センパイ」
今日はマスターだけでなく、桃華もすでにバーテンダー姿で立っていた。
「花咲、早いな」
「ええ、今日は、仕事の切りが良かったんで」
「そうか」
貴史は、翌日の仕様書レビューの準備が終わっていなかったので、少し残業していた。
――明日のレビューのことは忘れて、飲むか……
と、マスターに話しかけようとした時。
貴史の隣に誰かが座ってきた。
「え?」
桃華が目を丸くしてその隣客を見ている。
恐る恐る視線を動かすと――
「やあ」
そんな気安い口調で、挨拶をしてきたのは、万梨絵だった。
「ど、どうして――」
それ以上言葉が出ない貴史に、
「ああ。ちょっと、田中くんの後をつけさせてもらったの」
万梨絵はからっとした口調でとんでもないことを言った。
「な――」
「だから、飲みに行こうって言ったじゃない」
万梨絵は楽しそうに愛嬌良く笑った。
美人なだけあって、とても様になっていた。
「そ、それはそうなんだけど……」
「ていうか、田中くん、このバー、雰囲気いいね。――いい店知ってるじゃない」
「はぁ……」
その時――
「いらっしゃいませ、なにになさいますか?」
口を挟んできたのは、桃華だった。
言いながら、貴史に対して冷たい視線を向けてきた。
『どういうことですか?』
と目で語っていた。
――俺だって、予想外なんだって……
貴史も同じように目で訴えかけようとするが、万梨絵が先に言葉を発した。
「あなた、花咲さん……よね。田中くんの後輩の?」
「は、はい……そうですけど。――その、どうして知っているんですか?」
「ふふっ」
万梨絵は、答えず、柔らかな笑みを浮かべている。
「な、なんですか?」
そんな万梨絵が少し気味が悪くなったのか、桃華が若干引いている。
だが、万梨絵はなにも言わず、桃華の方を楽しそうに眺めていた。
――なんだ? この状況……
何故、貴史の後を付けてまで、『カスク』に来たのか?
何故、万梨絵は桃華のことを知っているのか?
貴史は状況に付いていけず、戸惑うしかなかった。
「じゃあ、私と田中くんにハイボール、お願いします」
しばらくして、万梨絵がようやく注文をする。
「え?」
貴史の分も注文したことに、驚いていると、
「田中くん、ハイボール好きだったよね」
万梨絵はこちらを見透かすような視線を向ける。
「む」
そんな万梨絵を見て、なぜか桃華がむっとしていた。
「まあ、嫌いじゃないけど……」
貴史は素直に答えた。
ハイボールは、ウイスキーを炭酸水で割ったお酒のことだ。
貴史は、居酒屋ではとりあえずハイボールを飲むことが多かった。
飲み会となると、他の人はまずビールを飲んだりするのだが、貴史はビールがあまり得意でなかったので、ハイボールにしていた。
特別好きではないが――ビール以外だと無難かな、程度で飲んでいただけだった。
「勝手についてきたお詫びにおごるよ。いいでしょ?」
万梨絵が有無言わさぬ、とばかりに詰め寄ってくる。
しばらくはなんとか断ろうとしたのだが、万梨絵がゆずることはなさそうだったので、観念した。
「……わかったよ……」
「オッケー。マスター、お願いします」
「かしこまりました」
マスターは、バックバーから一本のウイスキーを取り出し、ハイボールを作り始めた。
背の高いタンブラーに、大きな氷をひとつ、ふたつ。
氷同士がぶつかり、硬質な音を立てていた。
「ハイボールかぁ。こういう所でも飲むんだな。――俺は、なんとなく居酒屋で飲むイメージだったんで」
貴史が、マスターの見事な所作を見ながらつぶやくと、万梨絵がとんでもない、とこちらを見た。
「なに言っているのよ。むしろ定番でしょ。――ね、そうでしょ? 花咲さん」
「あ、はい、そうですね。ウイスキーを飲みたいけれど、ストレートやロックは苦手なお客様が飲まれますね」
突然質問されながらも、しっかり答える桃華。
「へー、そうなんだ」
貴史が感心していると、
「お待たせしました」
マスターが、万梨絵と貴史にハイボールが入ったグラスをカウンターの上へ静かに滑らせた。
「どうぞ。ハイボールです」
「ありがとう、マスター」
貴史はグラスを受け取り、万梨絵の方を見て、
「ありがとう、嵯峨さん。遠慮なく飲ませてもらうよ」
「気にしないで。迷惑料だと思って」
「まあ、それはそうだな」
「ヒドっ」
「はは、じゃあ、いただきます」
グラスを少し持ち上げると、氷がからり、と涼しげな音を立てた。
照明を透かした液体は、淡い琥珀色。細かな気泡が底から絶え間なく立ちのぼっている。
貴史はグラスを口元へ運び、一口。
冷たい液体が舌の上を滑り、直後に炭酸の細かい刺激がはじけた。
ウィスキーの香りが鼻へ抜けるが、それほど強くはない。
「うまいです」
やはり、居酒屋で飲むハイボールとはひと味違う。
「ありがとうございます」
貴史の言葉に、マスターは短く答えた。
「本当ね。美味しい」
万梨絵も美味しそうに、グラスを傾けている。
そして、桃華の方に顔を向け、
「そう思わない? 花咲さん」
「そ、そうですね。わたしもそう思います」
「今度は、あなたの作ったハイボールが飲みたいわね」
「は、はあ……」
万梨絵は、楽しそうに桃華と話していた。
桃華の方は戸惑い気味のようだが……
――結局、嵯峨さんはなにがしたいんだ?
貴史は、二人の様子を見ながら、ハイボールをちびちびと飲んでいた。
と、今度は万梨絵はこちらの方を見た。
「それにしても、こうしてゆっくり話すのって本当に、久しぶりだよね」
「まあ……そうだね」
「なんか、反応鈍い。――新人研修の時、一緒の班だったでしょ?」
「それは、覚えているよ」
新人研修では、六人組の班を組んで実施するのだが、貴史と万梨絵は一緒になった。
それ自体は、覚えている。
覚えているが――
「あの時は、課題が大変で、ほとんど話した記憶がないんだけど……」
新人研修の課題は本当に大変で、とにかく必死だったのだ。
「……………………そうなんだ。覚えていないんだね」
万梨絵は、少しがっかりしたような表情を見せた。
「え? 俺なんか言ったっけ?」
「……まあ、田中くんらしいかな。ふふっ」
万梨絵はじっと潤んだ瞳で見つめてきた。
「え? そ、そうなんだ……」
なんだか、気まずくなって正面を向く。
「……………………ふーん……」
桃華がカウンター越しにジトッとした目を向けていた。
話が違うぞ、と言いたげだった。
正直、こちらもよくわからない。
どうして、彼女がこんなことをするのか。
――仕方ない……
貴史は意を決して口を開いた。
「嵯峨さん」
「なに? 田中くん」
「結局、嵯峨さんは、なにが目的なのかな?」
「どういう意味?」
万梨絵が、きょとんとした表情をしている。
まさか、そんな質問をされるとは思っていなかったのかも知れない。
「私は、田中くんと仲良くしたいと思っているんだけど」
万梨絵の『仲良く』には、単なる友人関係以上のニュアンスが込められていた。
貴史を見つめる、万梨絵の瞳は、ますます熱を帯びていた。
万梨絵のような美女からこんな熱視線を注がれれば、普通の男性であれば、イチコロであろう。
だが――
「それはないでしょ」
貴史は、即答した。
「………………」
あまりの反応の速さに、万梨絵は鳩が豆鉄砲をくらったような顔をしていた。
万梨絵もこんな顔をするのだな、と思った。




