いいひと。(前編)
登場人物紹介
田中貴史:主人公。三三歳、サラリーマン。桃華の教育係をしていた。
花咲桃華:ヒロイン。二三歳。先輩の貴史をからかうのが好き。酒豪。
――し、しまったぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!!!
桃華は、ノートパソコンのディスプレイを見ながら呆然としていた。
作成中の設計書に大きな誤りがあったのだ。
桃華の思い込みによる凡ミスだった。
ミスをした箇所は、かなりの重要部分で、多少の修正ではどうにもならず、ほぼ、作り直しになってしまう。
今から作り直したとしたとしても、今日中に完成させることはとても無理だった。
スケジュールの遅延は避けられなかった。
桃華の所属している部署では、ソフトウェア開発を行っていた。
ソフトウェアの開発は、開発規模にもよるが、複数人のチームでの開発となる。
桃華が今、参画しているプロジェクトも五人で開発をしていて、その一部分を担当していた。
つまり、なにが言いたいかというと、一人の遅れは、個人の問題ではなく、チームの問題になるのである。
まだ二年目の桃華には、他のメンバーよりも作業量を少なめにしてもらっているというのに、だ。
「……………」
桃華は、しばらく目をつむり逡巡すると――立ち上がり、チームリーダーの元へ向かった。
「田中センパイ、少し、よろしいでしょうか」
「ん? 花咲?」
田中先輩は、仕事が一段落していたのかペットボトルの麦茶を美味しそうに飲んでいた。
だが、桃華の真剣な表情を見て、なにかあったとすぐに気づいたのか、
「なにがあった?」
と、まっすぐにこちらを見た。
「実は……」
桃華は、勇気を出して、事情をすべて田中先輩に説明する。
「…………なるほどなぁ……」
田中先輩は、腕組みをしながら考え込む。
桃華は、田中先輩からどれだけ怒られるのかと、戦々恐々としていると――
田中先輩は、「心配するな」と、安心させるような笑みをみせた。
「よくわかった。とりあえず、席に戻っていてくれ」
「は、はい」
素直に桃華は自分の席に戻る。
田中先輩は、課長となにかを話している。
課長は、声を荒らげていたが、田中先輩は「まあまあ」と言った感じで宥めているように見えた。
――なにを話しているんだろう……
桃華はそんなやりとりを自分の席でハラハラとしながら見ていた。
課長との話を終えた、田中先輩が桃華の席までやって来た。
「とりあえず、課長には報告しておいたから大丈夫。スケジュールは一緒に見直すか。いきなり遅れは取り戻せないので、少しずつ取り戻していこう」
「それで、いいんですか?」
「いいって、なにがだ?」
「その、残業してでも遅れを取り戻さないといけないのかな、と」
田中先輩は、苦笑すると。
「まあ、そういう手もあるかもしれないが、無理矢理頑張ると後に響くからな。リリース前とか、本当に切羽詰まったとき以外はやらない方がいい」
「そういうものですか」
「そういうもんだ。――とりあえず、詳しい状況についてまとめてくれ。三〇分後に打ち合わせをしよう」
「はい。本当に、申し訳ありませんでした」
「気にすんな。ミスは誰にでもあるからな。――大事なのはその後、どうするか、だ」
「その後、ですか?」
桃華が訊き返す。
「ああ。ミスの報告ってのは、誰だってしたくないもんだよな。だが、それを自分で抱えてなんとかしようとすると、より大きな問題になったりするんだよ。――だから、迷わず報告に来てくれた花咲は、凄いと俺は思うぞ」
「…………そうでしょうか」
「そうだよ。よくやったよ、花咲は。――俺が、花咲と同じくらいの歳のころはそれがなかなかできなくてな。――国田さんに叱られたもんだ」
田中先輩は、どこか懐かしむように言う。
「とにかく、同じことを繰り返さないようにしないとな」
「はい!」
桃華は元気よく頷いた。
田中先輩と一緒にスケジュールを見直して、作業を再開しようとした時。
男性社員が桃華の席にやってきた。
「花咲」
「なんでしょう、鈴木さん」
声を掛けてきたのは、二年先輩の鈴木慶太だった。
鈴木は、田中先輩の方をちらりと見て、
「あのな、お前のミスの件だけどよ……」
鈴木は、小声で話し始めた。
「え? それって、本当ですか?」
「ああ」
鈴木の話では、桃華のミスの件は、課長に自分の指示ミスとして報告していたというのだ。
「どうして……」
田中先輩がどうして泥を被る必要があるのだろう。
戸惑う桃華に、鈴木は、考え込みながら、
「たぶん、田中さん的には、本気で自分のミスと思っているんだろうな。事前に確認しておけば避けられた事態だってな」
「それはさすがに…………」
と、桃華は言うが、田中先輩ならそう言うだろうな、とも思った。
「田中さんらしいよ。俺も同じようにしてもらったことがあるからな」
鈴木は当時を懐かしんでいるようだ。
「そうなんですか?」
「ああ。俺のやらかしは、花咲よりヤバかったけどな。――さすがに、いい人過ぎるよな」
鈴木は苦笑していた。
「はい。わたしもそう思います」
「でもよ。それって、ある意味、重いと思わないか?」
「重い、ですか?」
「ああ。どうして、俺達のフォローをしてくれるのかって言えば、期待しているからだと思うんだよ。次からは同じ事はしないだろうって、俺達のことを信じて」
「…………………」
黙り込む桃華に、鈴木はふっと笑みを見せ、
「田中さんの期待には、応えたいよな」
「はい」
桃華は大きく頷いた。
「じゃあ、お互い頑張ろうぜ」
鈴木は自分の席に戻った。
桃華は、設計書の修正作業を再開する。
――センパイ……
脳裏に浮かぶのは田中先輩のことだった。
思えば、田中先輩は初めて会ったときから、本当にいい人だった。
桃華が今の会社に入社したときの教育係が、田中先輩なのである。
田中先輩と初めて会ったのは、配属されてすぐのことだった――
*
「俺がキミの教育係になる田中だ。よろしく」
入社後、数ヶ月に及ぶ研修の後、配属された部署で最初に会ったのが田中先輩だった。
「よろしくお願いします。田中さん」
「まあまあ、あまり気張らずに。いきなり戦力になれなんて言わないからよ」
ようやく本格的に仕事が始まるということで、かなり緊張をしている桃華を、安心させるような口調だった。
「はい。よろしくお願いします」
その時は、田中先輩にたいして特別な感情は抱いていなかった。
ただ、恐そうな人ではなくて良かった、と思ったぐらいなものだ。
それから、は田中先輩につきっきりで、仕事についてだけではなく、なぜか売店や社員食堂のオススメメニューまで教えてくれた。
その時の印象として、先輩っぽくない人だな、と思った。
田中先輩は、基本、怒らない。
こちらが理解できるまで懇切丁寧に、教えてくれる。
とてもありがたいことだった。
年齢は三〇代とのことだが、よく、後輩社員からもズケズケと言われていた。
田中先輩もそれに言い返しはすれど、よく言い負けている。
こう言うと、田中先輩が後輩社員に舐められているように感じるかも知れないが、そうではない。
田中先輩を慕うが故のイジりみたいなものだった。
そして、入社して最初の週末。
桃華の新人歓迎会が行われることになった。
会場は隣の駅前にある居酒屋だった。
だが――桃華は致命的なやらかしをしてしまった。
――あれ、会場はどこだったっけ?
駅前広場で、桃華は途方に暮れていた。
開始時間と会場については、メールで送られていたので、その時は覚えていた。
だが、最寄り駅に着いてから、会場の居酒屋の名前をド忘れしてしまった。
――なんで、メモっていなかったのよ……
わかりづらい店名でもなかったし、メモっておく必要がないと勝手に思い込んでしまった。
もうすぐ、開始時間になる。
――わたしの歓迎会なのに、どうしよう……
桃華は絶望的な気分で空を仰いだ。
まだ配属されて数日なので、個人的に連絡先を交換している人もいなかったので、電話で助けを求めることもできない。
――どうしよう……
泣きたくなってきたが、泣いてもなんの解決にもならないのでぐっと我慢する。
と――
「お、花咲じゃないか」
「田中……さん?」
背後から声を掛けてきたのは、田中先輩だった。
「おっす」
気安い口調で田中先輩は手を上げて挨拶してきた。
「あ、あの……」
なにを言えばいい変わらず、あわあわしていると、田中先輩はなにかに納得したように頷くと、
「そっか。花咲もちょうど駅に着いたところか。――じゃ、一緒に行くか?」
「え?」
「確か、会場は――花園屋だったか」
「あ! そ、そうですね!」
言われて桃華も会場の名前を思い出すことができた。
どうして、ド忘れしていたのだろう。
「俺、その店よく知らないんだよな。一緒に行ってくれると助かるんだけど」
田中先輩は、頭をかきながら言った。
「は、はい! 大丈夫です」
名前がわかればスマホですぐに調べられる。
ここからなら五分もかからないでいける。
これならギリギリ間に合うはずだ。
「そっか、じゃあ、行くか」
「そ、そうですね。行きましょう」
桃華はそう言うと、田中先輩と並んで歩き出す。
隣を歩く田中先輩を見ながら、ふと思い出したことを口に出す。
「そういえば、田中さん、先に会社を出ていませんでしたっけ?」
田中先輩は、定時になるなりすぐ会社を出ていた気がする。
「今日は仕事の切りも良かったんで、さっさと会社を出れるわ」
と言っていた気がする。
「え?」
田中先輩は、一瞬顔色が変わったが、すぐに笑みを見せ、
「ああ、来るのがちょっと早すぎたんで、その辺をぶらついていたんだ」
「そうなんですね……」
桃華は、その時は深く考えずに納得していた。
新人歓迎会の会場の花園屋についた。
「よし、ギリギリセーフ!」
そんなこと言いながら個室に入る田中先輩。
「バカモン。ギリギリすぎるぞ! なにをやっている!」
課長は不機嫌そうに、田中先輩と桃華を見ていた。
田中先輩の方は、ぺこぺこと頭を下げ、
「すいません、課長。俺もこの店の場所がわからなくて、花咲に教えてもらってたんです」
田中先輩は、頭をかきながら言った。
「お前なにをやっているんだ。新人に助けられる奴があるか! ――まあいい、じゃあ始めるぞ。席に着け」
「はいはい、わかりましたよ」
「はいは、一回で良い」
「はい!」
「…………やれやれ……」
課長は、これ以上言っても響かないと判断して、苦笑いするしかないようだ。
最後に来たので、一番奥の席に二人で並んで座る。
「ギリギリ間に合って良かった。ありがとな、花咲」
「い、いえ……」
助かったのはこちらなのだが、ここでそれを言うのも変な感じなのでなにも言えなかった。
そして、新人歓迎会が始まる。
こういう場の定番として、若者に飲ませてくる輩がいるものだ。
「キミ、飲んでるか?」
ビール瓶を持ってやってきたのは課長だった。
「は、はい」
「遠慮することはない。ほら、どんどん飲みなさい」
課長は、桃華のグラスの縁にビール瓶の口を当てようとした。
だが、そこに田中先輩が割って入る。
「課長、イマドキそうやって、無理に飲ませるのは良くないっすよ」
「なんだと、お前。こういう時なんだから飲ませてあげないといかんだろう」
「いやいや、飲みたければ、みんな自分で飲みますって」
「田中ぁ、お前なぁ」
「代わりに俺が飲みますよ」
と、グラスを課長の前に出す田中先輩。
「……お前、酒に弱くなかったか?」
「少しは飲めますよ。知っているでしょ」
「ならいいが……」
課長も「お前が飲むというなら」と、グラスにビールをつごうとしていた。
「ま、待ってください」
そこに待ったを掛けたのは桃華だった。
「花咲?」
田中先輩がこちらを見た。
田中先輩は、桃華の代わりに、課長の酒を飲もうとしていた。
しかも、酒はあまり強くないというのに。
その心遣いに嬉しく思った。
だが、その心配は無用なのである。
「ビール、頂きます」
「お、おう、そうか」
毒気を抜かれたような表情で、課長はビールをつぐ。
「ありがとうございます」
桃華はグラスに入ったビールを豪快に飲み始めた。
飲んでいるグラスは、小さめなので、たいした量は入っておらず、すぐに飲み干してしまう。
「おいしかったです。ありがとうございます、課長♪」
桃華は満面の笑みを浮かべていた。
田中先輩と課長はその飲みっぷりに目を丸くしていた。
そこからは桃華の独壇場だった。
その底なしの飲みっぷりに、皆、戦慄していた。
主賓ということで、皆、桃華のペースについてこうと飲んでいたが、次々に限界を超え、酔い潰れる者多数だった。
課長などは、威勢は良かったが、いの一番に酔い潰れていた。
桃華は、そんな惨状を見ながら、日本酒を冷やで飲んでいる。
「花咲って、メチャクチャ飲むんだな……」
隣の田中先輩が引きつった顔でこちらを見ていた。
「田中さんは、大丈夫なんですか?」
「俺か? 俺は、キミと張り合うつもりなんてないからな。――このハイボール。まだ二杯目なんだよ」
田中先輩は、グラスに入ったハイボールを一口だけ飲んで見せた。
なるほど、田中先輩はマイペースに少しずつ飲んでいるようだ。
それが正解だと思う。
無理に飲ませるのも良くないし、自分で飲み過ぎるのも良くない。
酒に飲んでも飲まれるな、である。
そういう意味では、田中先輩は、お酒には強くはないとのことだが、良い飲み方をしている、と思う。
いずれ、祖父の経営しているバーで一緒に飲んでみたいものだ。
「しかし、みんなひでえなぁ、特に酒飲み連中が軒並み酔い潰れてやがる。――確か、ここの予約は二時間だけだったはずだし、そろそろ起こさないとな」
田中先輩は、よっこらせ、と立ち上がり、酔い潰れている人たちを起こし始めた。
素直に起きる者、起きる気配のない者、そして絡んでくる者。
様々な酔っ払いを田中先輩は、「まったくよ、みんな飲み過ぎだぜ」と、ぶつぶつ言いながらも、介抱していた。
桃華は、そんな田中先輩の手伝いをしようかと思ったが――
――トイレ行きたい……
さすがに飲み過ぎたので、トイレに行きたくなってきた。
手伝うのは、トイレに行ってきたからにしよう。
立ち上がり、個室を出て、店のトイレに向かう。
まだ足取りに問題なかった。
正直まだまだ飲めるのだが、この感じでは二次会は行われない――いや、行えないだろう。
――あの人は……
通路を歩いていると、目の前から見覚えのある女性が歩いてきた。
同じ部署の佐藤清美だった。
どうやら、彼女もトイレに行っていて、その帰りのようだ。
「花咲さん」
清美はほっとした表情で声を掛けてきた。
「今日はいい飲みっぷりだったね。――楽しんでもらえて、幹事をした甲斐があったよ」
清美は、桃華の一年先輩で、この新人歓迎会の幹事だった。
「ほんと、幹事なんてやるもんじゃないよね。みんなの予定を聞くのも大変だし、こっちが決めた店にたいしてグチグチ言ってきたり……。だったら若手にやらせるんじゃないよって感じだよね」
清美がボヤいている。
どうも、伝統的に二年目の社員が新人歓迎会の幹事をやることになっているらしいのだ。
「そうですね。そうなると、来年はわたしがやることになりそうですし」
桃華的には、あまり幹事作業を苦にするタイプではないので、やれというならやるつもりではあった。
「あ、そうだ」
清美が声を上げた。
「どうしました?」
「ごめんね、花咲さん」
清美は手を合わせて謝罪をしてきた。
「なにがですか? 佐藤さん」
思い当たる節がないので首を傾げる桃華。
「歓迎会の会場までちゃんとエスコートできなくて、ごめん。――遅刻しそうになってたでしょ?」
「え? は、はい。そうですね」
どうやら、幹事として桃華に謝罪しているようだ。
「花咲さんは、新人だし、私が会場まで連れて行くべきだったよね。――時間と会場をメールするだけってのは、さすがに良くなかったと思う」
「いえ、そんな。――わたしが店名をド忘れしちゃったのがいけなかったんです」
逆に桃華の方も謝った。
「それに、ギリギリ間に合いましたし。気にしないで下さい」
正直、どうすれば良いかわからず涙目状態だったが、たまたま田中先輩と会えたおかげで助かった。
偶然に感謝である。
と――
「ほんと、田中さんには感謝だよ」
清美が突然、そんなことを言ってきた。
「え?」
桃華は、清美の言っていることがよくわからず、そんな声を漏らした。
「なかなか、花咲さんが来なかったんで、不安になったんで、田中さんに電話したら、『なら、俺が探してくるよ』と言ってくれて…………私は幹事で、店からは離れられなかったんで、本当に助かったんだよね」
「え? え?」
桃華は、思いもよらない事実に戸惑いの声を漏らした。
――ど、どういうこと?
予想外の事実、戸惑うしかない桃華だった。




