いいひと。(後編)
登場人物紹介
田中貴史:主人公。三三歳、サラリーマン。桃華の教育係をしていた。
花咲桃華:ヒロイン。二三歳。入社時は二二歳。酒豪。
鈴木慶太:二五歳。新人当時、貴史が教育係だった。
佐藤清美:二四歳。新人当時、貴史が教育係だった。新人歓迎会の幹事をやらされていた。
幹事の佐藤清美がしみじみと語る。
「……田中さんって、本当ににいい人だよねー。――実は、私の教育係も、田中さんだったんだ」
「そうなんですか?」
「ええ。本当に、田中さんが、教育係で良かった。おかげで少しはまともな社会人になれたと思うんだよね……」
清美は、当時を懐かしんでいるようだった。
「そうなんですね……」
鈴木慶太だけでなく、清美も田中先輩が教育係だったのか。
毎年、田中先輩が新人の教育係をやっているのだろうか。
――もしかして、毎年押しつけられているんじゃないかな……
あり得ることだとだな、思った。
「じゃ、私は戻るから」
と、清美と別れ、桃華はトイレに入り、考え込む。
――田中さん、どうして嘘をついたんだろう?
田中先輩は、駅前をぶらぶらしていて、偶然桃華を見かけた、と言っていた。
だが、それは真っ赤な嘘で、困っている幹事の清美のために、桃華を探し回っていた、ということになる。
それは、別に隠すようなことではないはずだ。
桃華は、田中先輩の真意がわからなかった。
用を足し、個室に戻る。
すると、田中先輩が、何者かと楽しそうに話していた。
「国田さん、遅いっすよ。もう新人歓迎会終わりじゃないですか?」
そこにいたのは、同じ部署の国田圭介だった。
年齢は、四〇前後だったか。
軽く挨拶ぐらいはしたが、桃華はほとんど話したことはなかった。
「悪いな。どうにも仕事の切りが付かなくてよ」
国田の言葉に、田中先輩は不満そうな声を漏らす。
「今日ぐらいいいじゃないですか。国田さん、全然飲めないから、飲み会には滅多に来ないですし」
「おいおい、なに言ってんだよ、田中。お前だって、ほとんど飲み会に参加してないだろ。――俺みたいな下戸ではないだろうが、酒強くないんだろ、お前」
「まあ、そうなんですけど。国田さんが出席するなら行きますよ」
「本当かぁ?」
二人は楽しそうに話していた。
特に、田中先輩は、特に楽しそうだった。
――そういえば、田中先輩の新人時代の教育係が、国田さんだったっけ?
そんな話を、田中先輩から聞いた気がする。
田中先輩と国田は、単なる先輩後輩の間柄ではないと言うことか。
「お、花咲。帰ってきたか。ほら、こっち来いよ」
「は、はい」
桃華は、田中先輩の隣――国田が座っている方とは逆――に座った。
「国田さん、彼女が今年の新人の花咲ですよ。知ってますよね」
「ああ、一度挨拶してくれたからな」
「よ、よろしくお願いします。花咲桃華です」
「国田圭介だ。改めて、よろしくな」
国田が笑う。
優しそうな笑みだった。
なんとなくだが、田中先輩と似たものを感じた。
「さて、じゃあ、俺は行くかな」
国田が言った。
「え? 国田さん、もう行っちゃうんですか?」
「新人に挨拶はできたからな。――じゃあな」
国田は、その他の面子に軽く挨拶をすると、帰ってしまった。
「まったく、国田さんは仕方ねえなぁ。どうせ、家に帰らないで、『ネスト』に行くんだろうし、まだ居てくれてもいいのによ」
田中先輩が不満そうな声を漏らす。
よほど国田が帰ってしまったのが残念なのだろう。
「まあ、でも、そろそろお開きの時間だしな。――佐藤、そろそろ終わりにしようか」
田中先輩は立ち上がると、清美の元へ向かった。
――田中さんって、国田さん相手だとあんな感じになるんだな……
桃華は、残った日本酒をちびちびと飲みながら、独りごちる桃華だった。
新人歓迎会が終わった。
会計も無事済ませ、今は、居酒屋入り口付近にいた。
「じゃあ、私も帰りますね」
清美が一礼をして、駅に向かって歩いて行った。
課長をはじめとした酔い潰れ軍団もさすがに酔いが覚め、既にいない。
残ったのは、桃華と田中先輩だけである。
「いやー、無事終わったな。――花咲は大丈夫か?」
「はい。全然大丈夫です」
桃華は嘘偽りなく答えた。
「そうか、凄いな、お前……」
田中先輩は、呆れ顔だった。
そんなこと言われても本当に大丈夫なのだから仕方ない。
未だ限界には至っておらずまだまだ飲める状態だった。
「…………じゃあ、そろそろお開きするか。――気をつけて帰れよ」
「田中さん」
「どうした?」
「お願いがあるんですけど、聞いてくれますか?」
「なんだ?」
「二次会、行きませんか? もう少し飲みたい気分なんです」
「……マジ?」
田中先輩は、驚いていた。
「はい、お願いします」
桃華は、改めてお願いした。
田中先輩は、渋々ではあるが受け入れてくれた。
二次会は個人経営の居酒屋だった。
こじんまりとしていて居心地の良さそうな店だ。
「かんぱーい」
「……乾杯」
桃華は、ビールの大ジョッキで、田中先輩はウーロン茶だった。
田中先輩は、美味しそうにビールを飲む桃華を見て、
「よくそんなに飲めるな」
と感心しきりだった。
「どうなんでしょ。そういう体質なのかも知れません。調べたわけじゃないのでわかりませんが」
「ふーん」
田中先輩は、ウーロン茶に口を付けていた。
桃華は、そんな田中先輩をじーっと見ていた。
「ど、どうした? 花咲」
突然見つめられて、戸惑い顔の田中先輩に向かって、桃華は口を開いた。
「田中さん、今日はありがとうございました」
「は? なんのことだ」
田中先輩は、とぼけた表情で言った。
「いえ、田中さんのおかげで、歓迎会に遅刻しないですみましたので」
「マジでなんのことだよ。むしろ俺は、花咲に店まで先導してもらったわけで――」
「佐藤さんから聞きました」
「え、マジ?」
田中先輩の顔色が変わった。
「マジです。――わたしのこと、探してくれたんですね。本当に、ありがとうございます」
桃華の言葉に、田中先輩はバツの悪そうな表情を見せて、
「……別に、そこまで感謝されることなんてしていないって」
「そんなことないです。あの時は、本当に不安で…………来てくれて、うれしかったんですよ」
桃華は、思いの丈をぶつけた。
このまま、感謝の言葉も言えずに今日が終わらせてはいけない、と思った。
田中先輩を二次会に誘ったのもそのためだ。
「そ、そっか。不安が解消されたってなら、良かったな……」
田中先輩は、照れくさいのか視線を逸らしていた。
その時――
――むむっ!
田中先輩の耳が真っ赤になっているのを桃華は見逃さなかった。
――なるほど…………そうなんだ……
なんの事はない。
そんなに難しい話ではなかった。
どうして、田中先輩が嘘をついたのか。
それは、単に恥ずかしがり屋なだけだった。
――素直じゃないんですね、田中さん……
思わず顔がほころんでしまう桃華だった。
それから、桃華の飲むペースはさらにあがる。
「本当に大丈夫か?」
「大丈夫ですって。自分の飲める量はわかっていますから」
桃華は上機嫌だった。
田中先輩となら、いくらでも飲める気がしていた。
「ならいいけどよ……」
田中先輩は、やたらテンションが高い桃華に戸惑っているようだ。
「……田中さんって、本当にいいひとですよね」
桃華は頬杖をつきながら、ぽつりと言った。
「なんだよ、突然」
「駅でわたしが困っていた時もそうだし、お酒に強くないのに、二次会に付き合ってくれましたし」
桃華はとろんとした眼で、田中先輩を見つめていた。
田中先輩は顔をしかめ、
「花咲はそう言ってくれるが、俺は別にたいしたことをしちゃいねーからな。この程度で『いい人』なんて言ってたら、ほとんどの人が『いい人』だろーよ」
「そんなことないですよ。田中さんは、いい人です」
桃華は、譲らなかった。
「花咲…………お前、酔っているだろ?」
「…………どうでしょう? 田中さんには、どう見えます?」
「……知らねーよ」
また、そっぽを向かれてしまった。
だが、そんなリアクションも、桃華からしたら好ましいものだった。
「やっぱり、いいひとですよ。田中さん」
「だから、もうそういうのはいいって」
「モテそうですよね田中さん。こんなに気配りできて」
桃華は素直にそう思った。
これだけ気配りのできる男がモテないはずがない。
「は? 馬鹿言うなよ。俺ほどモテない男はおらんぞ」
「嘘です」
「嘘じゃねーよ。だいたいなあ、花咲は、俺はいい人って言っているが、いい人なんてモテねーんだからな」
「そうなんですか?」
「そーだよ。――いい人ってのは、どうでもいい人なんつってな。優しいだけで、毒にも薬にもならない男に、心惹かれる女なんておらんのよ」
田中先輩は、強く拳を握り、力説していた。
なんだかとても実感のこもった物言いだった。
過去になにかあったのだろうか。
――わたしはそんなこと思わないんだけどなぁ……
だが、その後も「そんなことないですよ」と言っても、田中先輩は信じてくれなかった。
どうやら、お世辞で言っていると思っているようだ。
「新人に気を遣われたら、俺もおしまいだな」
田中先輩はため息をついていた。
どうしてなのかわからないが、田中先輩は自己評価が低すぎると思った。
田中先輩が本当にどうでもいい人であるなら、鈴木慶太や佐藤清美があれほど慕うだろうか。
「田中さんって、なんでそんなに素直じゃないんですか? 素直に受け入れて下さいよ」
「別に捻くれてなんてないぞ、俺は。ただ……」
と、田中先輩は言いづらそうに、こちらをちらちらと見ていた。
「田中さん?」
桃華が言うと、田中先輩は、観念したのか、話し始める。
「……俺、人から褒められたりするの苦手なんだよ。むず痒いというか……困るんだよな、ほんと」
「田中さん…………」
「まあ、でも、そこまで言ってくれたなら少しは信じてみるわ。ありがとな、花咲」
顔を赤らめながら、頬をかく田中先輩。
「――――――――――――っ!!!!!」
それを見て、桃華は固まってしまう。
不意打ちにもほどがある。
ドクン、と胸の奥で大きな音が響く。
――なんなの、この人、可愛すぎるんですけど……
桃華は、恥ずかしがっている田中先輩を見て、たまらない気分になっていた。
もっと、田中先輩のいろんな顔が見てみたい、と思った。
「ど、どうした? 花咲」
様子のおかしい桃華に、戸惑う田中先輩。
「い、いえ、なんでもありません」
我に返り、言葉を濁す桃華だった。
「そろそろいい時間だな。終電もなくなりそうだし、お開きにしようぜ」
「えー、もう少し、飲みましょうよ」
桃華はまだ話し足りなかった。
もっともっと、田中先輩と一緒に居たかった。
「なに言ってんだよ。明日も普通に仕事なんだぞ」
田中先輩は顔をしかめていた。
「…………今日ってわたしの歓迎会ですよね」
「くっ、それを言われると……」
「ありがとうございます!」
「馬鹿、まだ了承してねえぞ」
「えー、ダメなんですか……」
桃華は上目遣いをしてみせた。
「…………花咲って、いい性格してるよな。――仕方ない、深夜までやっている居酒屋を探すか」
「やった! 今日はとことん行きましょうね! 田中センパイ」
*
そして、現在。
――あの後、本当に朝まで飲んだんだよなぁ。
そのおかげか、田中先輩とは、かなり親しくなれたと思う。
だが――それでも、田中先輩の特別になれたか――と言われると、まだまだだと思う。
田中先輩は、優しい人だ。
だが、その優しさは、桃華にのみ向けられるものではない。
鈴木慶太や、佐藤清美も、同じように優しくされたからこそ、慕っているのだろうし。
『でもよ。それって、ある意味、重いよな』
鈴木慶太の言葉を思い出す。
田中先輩の優しさは期待の裏返しでもある。
些細なことで、つぶれないように、桃華たちを優しく導いてくれているのだ。
そういう意味では、田中先輩の庇護の元でいる限り、桃華のことを対等な関係として見てくれないかも知れない。
桃華は、田中先輩の席まで行き、
「センパイ。ありがとうございます」
突然の言葉に、田中先輩は戸惑いの顔を見せ、
「なんのことだ? もうミスのことについては、いいから」
「それでも、言わせて下さい。本当にありがとうございました。田中センパイ」
桃華は頭を下げた。
「……ったくよ……まあ、言いたいならいいけどよ……」
田中先輩は、恥ずかしそうに顔を逸らした。
だが、顔が見られなくても、耳が赤くなっているのを見れば、照れているのは一目瞭然だった。
「――――うふふふふっ……」
桃華は、田中先輩の可愛いところを見て、にへらと相好を崩してしまう。
――ダメダメ、今は真面目な時なんだから……
とはいえ、口元が緩むのを止められなかった。
優しくて、素直ではなくて、やけに自己評価が低くて、恥ずかしがり屋。
花咲桃華は、そんな田中先輩が大好きだった。
そんな先輩の特別になりたい。
そうなれるよう、まず一人前にならねば、と思う桃華だった。
*
「――――うふふふふっ……」
突然、気味の悪い笑みを浮かべる桃華に、貴史は顔を引きつらせる。
――花咲って、たまにこうなる時、あるよな……
普段は、真面目でいい後輩だと思うのだが、スイッチが入ったかのように豹変する時があるのだ。
なんだか、舐め回すように見られているような気もするのだが……。
――き、気のせいだよな、気のせい……
自分に言い聞かせる貴史だった。
あとがき
『いいひと。』と言えば、高橋しん先生による漫画作品なわけですが、今回、タイトルにすることもあり、一話から読ませていただいているのですが、主人公の北野優二が本当に良いキャラクターをしていますね。まさに「いいひと。」だな、と思いました。
しかし、令和に時代になって読んでみると、やりたい放題のライテックス社がやばいですね。社員を駒のように扱い、どこに所属させるかも社長の気分次第。
当時はここまで会社の立場が強かったのか、と思いますね。
あと、高橋しん先生の作品では、『最終兵器彼女』も好きでしたね。




