第十一話:摩天楼への挑戦状
成功の匂いにつられてやってくる連中には二種類いる。
金を数える算盤の音しか聞こえない「商人」と、音の深淵を覗き込もうとする「狂信者」だ。
目の前に現れたヴィクター・サリバンは、間違いなく後者だった。
世界を掌の上で転がす男が、わざわざ極東の薄汚い事務所まで足を運んだ理由。それは契約書にサインさせるためじゃない。
――僕の中に棲む、死んだはずの「如月アサヒ」の残響を確かめるためだ。
いいだろう。
世界の頂がどれほど高いか、その身で教えてやる。
事務所の前に並んだ黒塗りの大型SUV。そこから降りてきたのは、映画の撮影現場かと見紛うほどの威圧感を放つ男たちだった。
その中心に立つヴィクター・サリバンは、白髪を完璧にオールバックにし、仕立ての良いスーツをラフに着こなしている。その佇まいだけで、周囲の空気が新宿の雑踏から、マンハッタンの高級スタジオのそれに書き換えられたようだった。
「サキさん、お茶……じゃなくて、奥から一番高いウィスキーを出して。あと、凛。フードを脱げ。こいつは客じゃない、獲物だ」
僕の指示に、サキさんは震えながら頷き、凛は無言でフードを跳ね上げた。
応接室の重い沈黙を破ったのは、ヴィクターの低く、よく通る声だった。
「……ハロー、ミスター神代。いや、『若き調律師』と呼ぶべきか」
ヴィクターは僕の目を真っ直ぐに見つめてきた。その瞳は、深海のように底が見えず、同時にすべてを見透かしているかのように鋭い。
「単刀直入に聞こう。昨夜の『バベル』。あの曲の四分十二秒目、コードがマイナーからメジャーへ移る瞬間に一瞬だけ混じった『不協和音』。……あれは、誰の指示だ。少女のミスか? それとも君の悪意か?」
凛がムッとしたように口を開こうとしたが、僕は手でそれを制した。
ヴィクターが指摘したのは、一般のリスナーはおろか、プロの耳ですら聞き逃すような、一瞬の音の「歪み」。
「悪意ではありませんよ、ヴィクター。あれは『祈り』だ。完璧なメロディの中に、あえて人間の醜い息遣いを残した。如月アサヒが生前、最期に到達しようとしていた『未完成の美』……君なら、理解できるだろう?」
ヴィクターの眉が大きく跳ねた。
彼は椅子の背もたれに深く体重を預け、低く笑い出した。
「ククク……ハハハハ! 驚いたな。アサヒの死後、あの領域を語れる奴は世界中に一人もいなくなったと思っていたよ。……小僧、君は一体、彼から何を継承した?」
「何も。僕はただ、彼がやり残したゴミを掃除し、その上に新しい城を建てようとしているだけだ」
僕はテーブルに、世界ツアーのプロットが書き込まれたタブレットを置いた。
「三ヶ月後。ニューヨーク、マディソン・スクエア・ガーデン。そこで、君が抱えている全米ナンバーワンの歌姫、ステラと、白雪凛を同じステージに立たせろ」
脇に控えていたヴィクターの側近たちが、絶句して僕を睨みつけた。
「……正気か? ステラは現在、グラミー賞の最有力候補だぞ。キャリアも実力も、そんな東洋の新人とは次元が違う」
「次元が違うのは、こっちの方だ」
僕は凛に顎で合図を送った。
「凛。……一節だけ、この老いぼれた帝王の心臓を止めてやれ。アカペラだ。マイクはいらない」
凛はゆっくりと立ち上がった。
彼女はヴィクターの眼前、わずか一メートルの距離まで詰め寄ると、その瞳を真っ向から睨み返した。
そして。
防音設備のない、普通の事務所の空気を、彼女の歌声が「裂いた」。
『――ああ、神よ。あなたはもう、いないのか』
言葉の壁など、そこには存在しなかった。
狭い部屋の中に、地鳴りのような共鳴が広がる。凛の声は、ヴィクターの鼓膜を、脳を、そしてその老いた魂を直接叩きつけた。
サキさんが持ってきたグラスの氷が、声の振動でチリチリと音を立てて震えている。
わずか十数秒の独唱。
凛が歌い終えた後、部屋には完全な静寂が訪れた。
ヴィクターの側近たちは、まるで幽霊でも見たかのように、口を開けたまま硬直している。
ヴィクター本人はといえば――。
彼は、震える手で自分の胸元を掴んでいた。
「……アメイジング(信じられない)。……まるで、音楽そのものが実体を持って、私の喉元に牙を突き立ててきたようだ」
ヴィクターは、憑き物が落ちたような顔で、僕を見た。
「分かった。マディソン・スクエア・ガーデンの枠は、私が責任を持って用意しよう。……だが、条件がある」
「条件?」
「もし、そのステージで白雪凛がステラを圧倒できなかった場合……君のその『耳』と、如月アサヒの全遺産の権利を、私が没収する。……賭けるか?」
「安いものだ。……もし僕たちが勝ったら、君が築き上げた世界の音楽利権の半分を、僕たちの自由に使わせてもらう。それでいいな」
僕が言い放つと、ヴィクターは満足そうに口角を上げた。
「交渉成立だ。……ニューヨークで会おう。死神の調律師」
黒塗りの車列が去っていくのを見送りながら、凛がドサリとソファに崩れ落ちた。
「……あ、足が、震えて止まんないんだけど。あのおじいさん、オーラが化け物すぎるでしょ」
「怖かったか?」
「当たり前でしょ。……でも、気持ちよかった。あの人の魂が、私の歌でガタガタに震えるのが分かったから」
凛は、不器用な笑みを浮かべた。
彼女はもう、借金返済のために歌う地下アイドルではない。
世界という名の怪物を狩る、若き猟師だ。
一週間後。
僕たちは、JFK国際空港の地に降り立った。
見上げるような摩天楼。絶え間ない喧騒。そして、世界中から集まった「本物」たちが放つ、強烈なプレッシャー。
「さあ、始めようか、凛。ここが、僕たちが世界を調律する、最初の祭壇だ」
如月アサヒとしての未練も、神代朔としての渇望も。
そのすべてをこの街の空気に溶かし、新しい伝説を刻む。
ニューヨーク。
死神と少女の、本当の初舞台が幕を開ける。
第十一話、最後までお読みいただきありがとうございました!
今回は、ヴィクターとの息詰まる交渉と、凛の「アカペラでの一撃」を描きました。
音楽モノにおいて、言葉で説明するのではなく「一発の音」ですべてを納得させる瞬間。それを、AIにありがちな大げさな形容詞を極力削ぎ落とし、現場の震える空気感で表現したつもりです。
いよいよ舞台は世界の中心、ニューヨークへ。
三ヶ月という限られた時間の中で、朔が凛をどう「世界基準」に調律していくのか。そして、全米トップの歌姫ステラとの対決はどうなるのか。
「ヴィクターを圧倒するシーンに痺れた!」「いよいよ世界編、ワクワクする!」
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次回、第十二話――「眠らない街の、戦慄」。
お楽しみに!




