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第十二話:眠らない街の、戦慄

ニューヨーク。

 この街には二種類の人間しかいない。

 自分の才能を世界に証明しに来た「勝者」と、その夢に破れて摩天楼の影に消えていく「敗者」だ。

 JFK空港に降り立った瞬間、肺に流れ込んできたのは、冷たい冬の空気と、排気ガス、そして人々のどす黒い野心が混ざり合った独特の匂いだった。

「ようこそ、地獄へ」

 僕は隣で呆然とタイムズスクエアの巨大広告を見上げる凛に、皮肉を込めて言った。

 

 ここでの戦いは、日本での「ざまぁ」とは次元が違う。

 言葉が通じない、文化が違う。そんな言い訳は、この街の雑踏にかき消されるだけだ。

 僕たちは、一から「音楽という共通言語」を作り直さなければならない。

タイムズスクエアの喧騒を離れ、僕たちが向かったのは、マンハッタンの南端に近い、薄汚れたレンガ造りのビルだった。

「……ねえ、ここがヴィクターが用意したスタジオ? 冗談でしょ?」

 凛は鼻を摘みながら、ガタガタと音を立てる旧式のエレベーターに乗り込んだ。

 壁には落書きが溢れ、床にはいつのものか分からないコーヒーの染みが広がっている。

「ヴィクターが用意したのは『場所』だけだ。中身は僕が選んだ」

 五階に到着し、重い鉄の扉を開ける。

 そこには、最新鋭のデジタル機材ではなく、1970年代の伝説的なロック・スターたちが愛したような、巨大なアナログコンソールと、使い古された真空管アンプが並んでいた。

「ここは『エレクトリック・ソウル・スタジオ』。かつての名盤たちが生まれた聖域だ。今の君に必要なのは、磨き上げられたクリスタルのような音じゃない。この街のコンクリートに叩きつけても壊れない、泥臭くて熱い、アナログの『魂』だ」

 僕はカバンから、一枚のデモテープを取り出した。

 それは、如月アサヒとして死ぬ直前、あえてデジタルを一切使わずに、古い機材だけで録音した未完のバラードだった。

「凛。今日から三日間、一歩も外に出るな。このスタジオの空気に、君の声を馴染ませろ。……ステラは、完璧な精密機械だ。彼女と正面から歌唱力で殴り合っても、今の君では数秒で喉を潰される」

 凛は僕の言葉に苛立ちを隠さず、譜面台を叩いた。

「……またそれ? 日本でやってきたことが無駄だって言いたいの?」

「無駄じゃない。だが、足りない。……いいか、凛。ニューヨークの観客は、上手いだけの歌には拍手すらしない。彼らが求めているのは、歌い手の『命の削りカス』だ」

 僕は無慈悲に録音ボタンを押した。

 

 修行は、想像を絶する過酷なものになった。

 食事はピザのデリバリーとコーヒーだけ。睡眠時間は三、四時間。

 僕は凛の歌声の端々に混じる「日本的な遠慮」を、一つずつ剥ぎ取っていった。

 

「違う。もっと深く。腹の底から声を出すな。足の裏から地球の裏側まで響かせるつもりで鳴らせ」

「息を吸うな。この街の毒を吸い込め」

 

 深夜。

 凛の声は、疲労でかすれ、限界を迎えていた。

 それでも僕は、冷徹に「もう一回」を繰り返した。

 

「……っ、もう無理。……声が、出ない……」

 凛が防音室の中で、マイクを握りしめたまま膝をついた。

 

 僕はブースに入り、床に座り込む彼女の前にしゃがみ込んだ。

「……凛。覚えているか。君が『音楽が大嫌いだ』と言ったあの路地裏を」

 

 彼女は顔を上げず、ただ肩で息をしている。

 

「君が憎んでいたのは、音楽じゃない。音楽を道具にして君を縛り付けた、あの掃き溜めのような大人たちだ。……でも、ここはニューヨークだ。誰も君を知らない。君を縛る過去も、借金も、何もない。……今、ここで歌わなければ、君はただの『敗者』として日本に帰ることになる。それでいいのか?」

 

 凛の拳が、ぎゅっと握られた。

 彼女の目から、一粒の涙が落ちる。

 それは悲しみではなく、自分自身の不甲斐なさに対する、凄まじい「怒り」の涙だった。

 

「……帰らない。……死んでも、あんなところには帰らない……!」

 

 彼女が、よろけながら立ち上がった。

 その瞬間、彼女の背後に、如月アサヒが最期まで見ることのできなかった「覚醒」の予兆が、黒い炎となって揺らめいたのを僕は見た。

 

 その時だった。

 スタジオの扉が、音を立てて開いた。

 

 入ってきたのは、ヴィクターではない。

 真っ赤なドレスに、宝石を散りばめたようなハイヒール。

 そして、部屋全体の温度を一気に下げるほどの、圧倒的なカリスマ性。

 

 ――全米の歌姫、ステラ・ゴールドマン。

 

「……あら。ヴィクターが期待しているっていうから見に来てみれば。ネズミが鳴いているのかと思ったわ」

 

 ステラは通訳も介さず、流暢な英語で言い放った。

 彼女の隣には、かつてルナが抱いていたような、偽物の傲慢さはない。そこにあるのは、圧倒的な「実力」に裏打ちされた、本物の支配者の余裕だった。

 

 ステラは凛を一瞥すると、鼻で笑って僕の方を向いた。

「ミスター・カミシロ。あなたの耳、腐っているんじゃない? こんな喉を使い古した子供を、MSGマディソン・スクエア・ガーデンに立たせるなんて。……観客への侮辱よ」

 

「侮辱かどうかは、当日判断すればいい」

 僕は一歩前に出て、ステラの視線を真っ向から受け止めた。

「ステラ。君は完璧だ。だが、完璧なものほど、壊れた時の音は美しい。……三ヶ月後、君のその高慢な喉が、恐怖で震えるのを楽しみにしているよ」

 

 ステラは不快そうに目を細めたが、やがて優雅に背を向けた。

「……精々、喉を大事にすることね。本物の歌を聞く前に死なないように」

 

 彼女が去った後、スタジオには重苦しい空気が残った。

 凛は、ステラが立っていた場所を、殺気立った瞳で見つめていた。

 

「……朔」

 凛が、掠れた声で僕を呼ぶ。

「……今の女、なんて言ったの。教えなさい」

 

「『君の歌は、ネズミの鳴き声だ』とさ」

 

 凛の口角が、ゆっくりと吊り上がった。

 それは、獲物を見つけた獣の、凶悪な笑みだった。

 

「……いいわ。そのネズミが、あの女の喉笛を食いちぎってあげる」

 

 凛は、自分からマイクの前へ戻った。

 ヘッドホンを装着し、僕に「オケを流せ」と合図を送る。

 

 その夜、エレクトリック・ソウル・スタジオから響いてきたのは、歌ではなかった。

 それは、ニューヨークという巨大な獣を呼び覚ます、最初の一吠えだった。

 

 如月アサヒの遺した70年代風のアナログ・サウンドが、現代の怪物の叫びと混ざり合う。

 

 世界を獲るための、本当の調律が、今ここから始まった。

 第十二話、最後までお読みいただきありがとうございました!

 ニューヨーク修行編、開始です。

 日本での華やかな成功から一転、泥臭く過酷な環境で自分を追い込む二人。

 そして、ついに最強の敵、ステラとの直接対決(前哨戦)。

 ステラの圧倒的なオーラに、凛がどう食らいついていくのか。

 かつての70年代のソウルミュージックが持つ、荒々しくて剥き出しの熱量を、朔がどう凛に注入していくのか……。

 

 「ステラとの対峙がヒリついた!」「凛の覚醒が楽しみ!」

 という方は、ぜひページ下の【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】にして、この「世界への反撃」を後押ししてください!

 

 皆様のポイントが、ニューヨークの空に凛の歌声を響かせる力になります!

 次回、第十三話――「ストリートの洗礼」。

 実力を証明するため、二人はニューヨークの路上へと繰り出します。お楽しみに!

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