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脳内計算  作者: 西山ありさ
その後の短編+番外編
126/126

03



**********




日が傾きだす夕暮れ時。たくさんの子どもたちが一斉に下校をする時間帯。

楽しそうに笑う子どもの絵が描かれたバスが、住宅地の中に停まり、そこから何人かの幼稚園児が降りた。

『せんせい、さようなら。』と元気な声で挨拶し、それぞれの母親の元へ駆けだす園児たち。

その中で、頬を上気させ、必死に小さな足を動かしながら目的地へと急ぐ小さな女の子の姿があった。

二つ結びした髪をぴょこぴょこと弾ませながら、走る女の子。

やがてマンションの一室にたどり着き、ドアを開けると同時に笑顔で叫んだ。



「ママーッ!!」



どたどたと、足を滑らせながらも廊下を走り抜ける小さな影。

女の子は黄色いリュックサックを放り投げ、一目散にリビングに向かった。



「ママ!ただいま!!あのね、りな、きょうようちえんでね、」



ソファに飛び込んで、大好きな『ママ』に向かってそう話しかけるが、返事がない。

少し色素の薄い茶色の髪を揺らし、『あれ?』と首を傾げると、横からべしっと頭をはたかれた。



「…うるさい、莉那(リナ)。母さんなら寝てる。」

「おにいちゃん…いたい。」



目をうるませながら女の子は、自分を叩いた相手―彼女の兄である省悟(ショウゴ)を睨んだ。

省悟はちらりと妹を一瞥すると、何事もなかったかのように読んでいた本へと目線を戻す。

その態度もまた、なにか馬鹿にされているみたいだ。

莉那はむーっとふくれた。



「……ママ、ねちゃったの?」

「そう。静かにしとけ。」

「え~そんなぁ。りな、みせたいものがあったのに…」

「後でいいだろ。それよりおやつがあるから、手、洗ってきなよ。」

「はーい…」


不服気に口をとがらせていた莉那だったが、『おやつ』と聞いてすぐに立ち上がる。

見た目と同様にかわいらしい脳はさっさと『今日のおやつは何か』という疑問で埋め尽くされたのだ。


まったく、単純なやつ…


省悟はスキップしながら洗面所に消える莉那を見て、ふっと笑った。





「ただいまー。」

「あ、パパ!おかえりなさい!」


それから数時間後。

がちゃりと鍵をまわし、男が家に入ってきた。

莉那は、ぱっと顔をほころばせて男に駆け寄ると、勢いよくその足に抱きついた。

『パパ』も、笑顔で小さな愛娘の頭を撫でる。


「お、莉那。ただいま。今日も可愛いな。」

「えへへー。」


くすぐったそうに笑う莉那。―と、遅れて省悟も玄関先に姿を現した。


「おかえり、父さん。」

「ああ、ただいま。…母さんは?」

「寝てる。ちょっと体がだるいんだって。」


省悟がそう言うと、男は顔をしかめた。

またなんか無理してねぇだろうな…と呟きながら上着を脱ぐ。

そしてソファに歩み寄り、寝息を立てている彼の妻の頬を撫でた。


…少し顔色が悪いか。


男は妻を覗きこみ、静かに声をかけた。



「なんだ、大丈夫かよ……おい、那津?」

「う……ん…せいご?」



うわごとのように自身の名前を呼ぶ妻。

だが、覚醒までは至らず、すぐにまた夢の世界に戻ってしまった。

男――聖悟は、はあ、と息をつくと那津の体をゆっくりと持ち上げた。



「…悪い、莉那。ママを寝かせてくるから、ちょっとどいてくれるか?」

「ママ、どこかわるいの?」

「いや、多分、ちょっと疲れちゃっただけだ。」

「だいじょうぶ?」

「ああ。」


莉那は心配そうに母親を見上げる。

そして、大事に持っていた画用紙を差し出しながら、少し言いにくそうに口を開いた。


「…あのね、りな、きょう、おえかきしたの。これ、ママにもみてもらいたかったんだけど…」

「へえ、そうか。じゃあパパが渡しておこう。起きた後で、見てもらおうな。」

「ほんと!」


聖悟がそう答えると、莉那は途端に表情を明るくした。



「ありがとう!パパ大好き!」

「お、莉那はパパのこと好きか?」

「うん!りな、パパとけっこんする!!」

「そうかそうか!パパのお嫁さんになるか!」


そんな、ある意味定番ともいえる会話を繰り広げるバカ父娘。

その様子を観察していた省悟はふん、と鼻を鳴らすと、

じゃあ、と横やりを入れた。


「いーよ、莉那。それなら俺、母さんと結婚するから。」

「…省悟。それは許さんぞ。」

「実の息子をそんな目で見ないでよ。余裕のない大人だな。」

「…可愛げのないガキに育ったな、お前…」


涼しげな顔をしている息子を睨みながら、

こいつ、外も中も那津そっくりだな、と聖悟は思った。


那津が男になったらこんな感じだろうか。

ということは、また『計算』だのなんだの、言いだすんじゃないだろうな。

そう考えると、那津の結婚前――大学時代のことが思い起こされて、聖悟はなんだか懐かしい気分になった。

そして、少し笑ってしまった。


「じゃあ、ちょっと待ってなさい。すぐに飯の用意もしてやるからな。」

「早くね。」

「分かってるって。」


もう『我関せず』状態で本を読んでいる、マイペースな息子に苦笑を返しながら、

聖悟は那津を夫婦の寝室へと運びいれたのだった。



――



「……ん、」


もぞ、と体をよじらせる。

するとリビングのソファではなく、柔らかな布団の感触がして、あれ?と思った那津。

ゆっくりと目を開けると、そこは見慣れた自分たちの寝室であった。


「起きたか?」


少しだけ顔を上げたところで、横から声がかかる。

視線を向けると、自分の夫―国崎聖悟がほほ笑んでいた。

しばらくそのままぼうっとしていた那津だったが、

外が暗いことと彼がもう帰ってきているということに気付き、あわてて身を起こした。


「…おかえり。ごめん、寝ちゃってた…」

「いい、それより調子はどうだ?熱はあるか?」

「んー、多分大丈夫…」


ベッドに腰を下ろした聖悟が那津の頭を撫でる。

那津は大人しく撫でられながら、ぼんやりと答えた。



「大事な体なんだ、体調管理はしっかりしろよ。なにかあったら病院に行って…」

「安定期も入ったし、心配ないよ。…もう三回目だし。」



過保護なんだから、と那津は笑った。

発言を遮られた聖悟はむう、と膨れる。

その仕草が、最近一段と可愛くなってきた莉那そっくりで――

――まったく、似ている父娘だ、と那津は人知れず思った。


そして、やや膨らんできたお腹をさすりながら自分もベッドの端に座る。



「ま、何かあったら実家にでも連絡するから、大丈夫だよ。」

「…本当か?」

「うん。なんなら聖悟の所のご両親に来てもらおうか?」

「…それは、やめてくれ。あいつら、子供らに無駄なおもちゃばっかり買ってくるから。」

「ははは。」


彼の親の話を持ち出した途端に暗い顔を作る聖悟と、ニヤニヤしながらからかう那津。

夫婦はしばらく他愛のない話をしていたが、ふと聖悟が思い出したように呟いた。


「そうだ、今度、課長に昇進することになった。」

「へぇ、おめでとう。」

「…もっと喜べよ。大出世だぞ?」

「喜んでるって。やっぱり凄いよね、君は。着実に上に行ってるじゃない。」

「だから言ったろ?俺は有言実行派だって。お前も、もうそろそろ専業主婦になっても…」

「私に、仕事やめろって?」

「いや、まあ無理に、とは言わないけど…」


隣からじろり、と睨まれ言葉を濁す聖悟。

本音では、家族が増えてきて忙しくなることだし、那津には家庭に従事してもらいたいのだが、

いかんせん、彼女は彼女で、やりがいを持って会社で働いている。

それを無下にしたくはないのだが…どうしたものか。


そうだな、こうなりゃ早々に四人目でも……



「…聖悟、変なこと考えてない?」

「ん、いや?…ああそうだ、莉那がお前に見せたいもんがあるって。」

「え?莉那が私に?」


うまいこと話題を変えてはぐらかした聖悟は、

『これだよ』と、娘から預かった一枚の画用紙を那津に手渡した。

それを広げ、那津はわあ、と感嘆の声を漏らした。


―そこに描かれていたのは、色鮮やかな虹の上に立つ国崎一家だった。

中央に莉那と省悟が手をつないで笑っている姿、そしてそれを囲むように那津と聖悟が立っている。

那津の腕にはまだ見ぬ三人目の子供も抱かれていた。

画用紙いっぱいに広がる楽しげな風景に、那津はふっと微笑む。



「すごい。莉那、絵が上手だね…」

「ああ、俺たちの子だもんな。」

「あれ?聖悟、学生時代は美術2って言ってなかったっけ?」

「那津だってどっこいどっこいだろ?」


―じゃあ、誰の才能でもないじゃん。

そう言いながら、那津はまた明るく笑った。

そんな愛しい妻の横顔を眺め、聖悟は眩しそうに目を細める。

おもむろにその肩を抱き、頬に口を寄せた。



「なあ、那津。」

「ん、何?」



くすぐったそうに身をよじる那津。だがその顔に笑みは絶えない。


―本当によく笑うようになったな。


聖悟も自然と笑みを浮かべながら、もう一度、那津の顔にキスをする。



「――今、幸せか?」

「はは、何、急に。」

「いや、別に。ちょっと思っただけ。」



何でもないことのように聖悟は呟く。

だが、その軽い口調とは裏腹に、真剣な顔で那津を見つめた。




約十年前、卒業式の日に、お前に必ず与えると約束した『幸せ』。

それをお前は今、感じているか?

何の不安もなく、俺の横に立ってくれているか?


――俺は、お前の『賭け』とやらに勝ったか?


俺は、間違いなく幸せだ。

お前と結婚して、子供が生まれて―仕事で疲れて帰ってきたときもお前たち家族に癒されて。

毎日が楽しくて仕方ないんだ。

…誰よりも『幸せ』なのはひょっとしたら俺の方かもしれない。


でも、それを那津も同じように感じてくれているかどうかは分からない――



―馬鹿だな。

至近距離でそう言われて、聖悟はハッと我に返った。見ると那津がいたずらっ子のような顔でこちらを覗いている。

聖悟は憮然とした表情で、『なにが』と呟いた。


「だって、余計な心配してるんだもん。…私も君と同じくらい幸せだよ?」

「…本当かよ。」

「本当さ。」


那津は何を当たり前のことを、とでも言うように断言した。


好きな職場でバリバリ働けて、

手は焼くものの可愛い子どもたちに囲まれて、

穏やかな日々が過ごせて、

――なにより、国崎聖悟の隣にいられて。


そりゃあ、もう。



「――すっごく、幸せ。こんな幸せ、思ってもみなかった。」



――これ以上の幸せなんて、ないでしょ。



溢れんばかりの愛と幸福を胸に、国崎那津は笑顔でそう言った。





FIN





これにて、『脳内計算』完全完結となります。

ここまでお付き合いくださいまして本当にありがとうございました!!

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