春子の一日
7月になった。
水曜日、今日は小春庵の定休日だ。
春子は今日は忙しい。
3月に華が、1階のスタッフルームを改装して客席にし、2階の使っていない部屋をスタッフルームにしてはどうか、そしてランチメニューを新設してはどうかという案を出してくれた。
それ以来少しずつ案を練ってきたが、今日は計画を進めるための実際の手続きに回るのだ。
4月や5月は新しいスタッフたちの教育に追われて何も出来なかったが、6月には、小春庵を作った時にお世話になった古沢工務店にあれこれ相談し、図面を作成してもらった。
先日それを家主さんにも確認してもらったので、今日はそれを持って保健所と消防署に手続きに行く。
朝からまずバスに乗って、保健所に行った。
書類を手に持ち、番号札を取って椅子に座っていると、すぐに呼び出された。
保健所の職員は書類を読み、さらに口頭でも質問する。
「2階の新しいスタッフルームには、調理道具は置かない予定ですか?」
「冷蔵庫も電子レンジも置かないですし、食器なども置きません」
「2階に上がるのは何人ぐらいですか?」
「6人いるスタッフのうち順番に1人ずつ休憩や着替え、荷物置きに使います。お客様が上がることはありません」
「お昼休憩では飲食はしますか?」
「お弁当やパンや飲み物などの飲食はしますが、食べ終えたら下に持って降りて捨てるようにします」
その他にもいくつかの質問に答えたが、最終的にはOKが出て、無事届け出を済ませることができ、春子はホッとした。
4年前に小春庵を作った時、古民家とはいえ水回りやトイレなどは綺麗に贅沢に作ったほうが満足度が高いとのアドバイスを工務店担当者から受けたので、実際その通り、男女それぞれ1つずつの木目調個室トイレと、中央には自動水栓の手洗い所を作った。
厨房も広くとってある。
今になって改装するとなると、こういう点はじゅうぶんに、お釣りが出るほどの安心材料になったので、古民家リノベーションを得意とする古沢工務店に依頼して良かったなと、担当者に心の中で感謝する。
春子は次に歩いて10分ほどの消防署に向かった。
ここでも書類を揃えて待っていると、係の人がすぐに出てきた。
春子はまた2階にはスタッフしか行かないことや、古民家特有の急な階段には新たに手すりを設置することなどを説明する。
2階の新しい配線工事とエアコンの付け替え、消火器の個数や場所なども確認し、最終的にこちらもOKをもらった。
ホッとして消防署を出る。
最初は古いエアコンのままで一応動くしいいかなとか、今のスタッフルームのテーブルと椅子を2階に運ぶだけでいいかなとか思っていたが、実際に計画を練り始めるとそういうわけにもいかず、新しく買い直すものや工事をする箇所が増え、出費は結構かさみそうだ。
でも今年の2月にカフェ専門雑誌「ChaCha」で小春庵が紹介されて以来売り上げは去年よりずっと多くなっているし、座席を増やして新メニューも作ると、きっとまたお客様も増えるだろう。
何よりランチメニューを新設することは自分自身大きな楽しみである。
心配は少しあるが、ワクワクの方が大きい。
春子は消防署前から小春庵の方に向かうバスに乗った。
これから小春庵に戻って、たまっている事務処理をして、と考えながらバスに揺られていると、
「次は白澤神社前でございます」
とアナウンスが流れる。
そうだ、リニューアルのことを神様にもお願いしようと急に思いつき、春子は降車ボタンを押してバスを降りた。
白澤神社は小春庵や春子の自宅から徒歩で行ける神社だが、初詣の時以外はほとんど行かないので、半年ぶりである。
鳥居でお辞儀をし、手水舎で手と口を清め、本殿に向かう。
お賽銭をして手を合わせ、リニューアルがうまくいくことを祈った。
最後にもう一度お辞儀をし、社務所の方に向かう。
絵馬やお守り、御朱印帳などが並んでいる。
菅原道真にちなんだ限定御朱印の見本が飾られているのを見て、春子は今年のお正月に藍子から教わった「飛梅伝説」のことを思い出した。
藍子は古典文学が好きで、時折ちょっとした古来の伝説などを教えてくれることがあった。
飛梅伝説は確か、太宰府に左遷された菅原道真が庭の梅に別れを告げて京都を去るが、梅は道真を追いかけて飛んでいき、太宰府で花を咲かせたというような話だった。
春子が話すと全然だが、藍子が静かな声で語ると同じ話でも涙が出そうになるほど心に沁み入り、藍子の話には不思議なくらい惹かれたものだ。
今はウッドバーニングの看板制作の仕事をしているはずだが、元気だろうか。
ふと、藍子が初詣の時に白澤神社の近くにある「うめのはな」でランチをしたと言っていたのを思い出し、自分も行ってみようと思いついた。
スマホの地図アプリで確かめると、ここから徒歩5分くらいのところにあるようだ。
時間もお昼時なので、向かうことにする。
「うめのはな」は小春庵よりもかなり大きな古民家をリノベーションした和食店だった。
母屋の他に蔵を改装した部屋もあり、春子はそちらに案内された。
畳敷きの個室だが、驚いたことに掘りごたつ式になっている。
「古民家リノベーションでも掘りごたつ式にできるのね…」
座ってみると、結構居心地が良い。
ただ、こたつの機能はないようで、掘られていて椅子のように座れる形状というだけのようだ。
和服を着た店員がお茶とメニューを持ってきて、春子は「うめのはなランチ」を注文する。
運ばれてきたのは木のトレーに並べられた豪華なランチだった。
白身魚の梅味噌焼き、和牛とアスパラガスを焼いたものには醤油と和辛子が添えられている。
小鉢は根菜の煮物に、オクラの梅あえ、胡麻豆腐、サラダにはごま油の香るドレッシングがかけられている。
ごはんは五穀米で、お味噌汁は梅の形にくり抜いた大根や人参が入っている。
それぞれの器は小さめではあるが、品数は多く、豪勢な1人ランチの始まりだ。
食前酒用の小さな陶器のグラスには、ノンアルコールの梅ジュースが入っていた。
春子はまず梅ジュースを飲む。
「美味しい!」
梅酒だよと言われても信じそうな濃厚な美味しさである。
「さあ、いただきましょう」
箸袋を手に取ると、そこには
「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花
主なしとて春な忘れそ」
と、菅原道真の和歌と梅の花の絵が描かれていた。
「わあ、素敵」
春子はしばらく眺めたあと、バッグから手帳を出し、箸袋をはさんだ。
お正月に藍子がここに来た時も、きっと同じように箸袋をバッグに入れただろうな。
古典に興味のないというご主人と息子さんが食べ始めている横で、古典の好きな藍子がそっと箸袋をバッグに入れる姿を想像し、春子は1人で微笑んだ。
「いただきます」
春子は手を合わせて食べ始める。
「美味しい!」
デザートには梅シャーベットが運ばれてきて、春子は満腹になって店を出た。
小春庵までは徒歩10分と地図には出ていたが、15分ほどかけてのんびり歩いて向かう。
定休日で誰もいない店内で、春子は帳簿をつけたり書類の整理をしたり、たまっていた雑用を片付けていったが、贅沢なランチであまりにもお腹いっぱいになりすぎて、睡魔が襲ってきた。
今は2階の部屋の畳は古すぎて横になることはできないが、リフォームしたらこういう時ゴロンと横になって休憩できるな。
春子は想像し、楽しみで笑顔になったが、眠さは消えないので、目を覚ますためにコーヒーを入れに行った。
「さあ、もうひと頑張りしよう!」
この物語はフィクションです。作中に登場する人名や地名、校名、お茶やフルーツの銘柄などはすべて架空のものです。一部実在の名称と同じものも混在しますが、実在の人物や団体などとは一切関係ありません。




