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きみがいた夏は、もう終わらない  作者: Noct


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9/21

第二章 誰かに話すと、きみのことを思い出せなくなる気がして

言葉にした途端に、変わってしまうものがあります。話さないことで、蓮は何を守っているのでしょう。

 十三日目。

 蓮は午前中、実家の縁側でスマートフォンを見ていた。

 東京の友人から連絡が来ていた。

「帰省どう?」

という軽いメッセージだった。スタンプが一つ、添えてあった。蓮と同期入社で、よく昼飯を一緒に食う友人だ。他愛ない連絡で、返信も他愛ない言葉でいい。「まあまあ」とか「のんびりしてる」とか、それだけで済む話だった。

 でも返信しながら、ふと気づいた。

 結衣のことを誰にも話していない。

 帰省して十三日、毎日会っている。一度も会えなかった日はない。石段に座って、雲の話をして、ラムネを飲んで、約束をした。それなのに、誰にも言っていない。東京の友人にも、SNSにも、一緒に実家にいる親にも。

 なぜだろうと考えた。

 別に隠す理由はない。幼なじみに再会した、というだけの話だ。帰省あるあるとして語れる、ごく普通の話のはずだった。でも文字にしようとすると、どこかで手が止まる。「実は地元の幼なじみと再会して」と打ち込もうとして、止まる。何度か試みたが、そのたびに消した。

 言葉にすると、何かが壊れる気がする。

 そういう感覚があった。

 SNSに書けば、誰かが読む。友人に話せば、「へえ、どんな子?」と聞かれる。答えようとすると、結衣のことを「言葉で説明できるもの」にしなければならない。名前、年齢、関係性、最近の様子。そういう輪郭を与えると、今の蓮の中にある結衣の感じが、別の何かに変わってしまいそうだった。

 あるいは。

 結衣のことを「今の話」として語ることに、どこかで抵抗がある。「今の話」として語れる確信が、持てない。

 なぜそう感じるのかは、まだ言葉にできなかった。でもその感覚は、ここ数日で少しずつ育っていた。確信に変わりそうで、でも変わってほしくない何かが、蓮の中でゆっくりと形を成していた。

 友人への返信は

「のんびりしてる、実家ご飯がうまい」

で済ませた。それだけだった。

 *

 その日の神社で、蓮は結衣に聞いた。

 二人で石段に座って、しばらく話した後で、自然に出てきた言葉だった。

「俺のこと、他の人に話してる?」

「蓮のこと?」

「うん。帰省してきて、また会うようになったって」

 結衣は少し考えた。視線を石畳の方に落として、何かを確認するように間を置いた。

「……話す人が、いないかな」

「友達は?」

「今は、いないんだよね」

 さらっと言った。

 悲しそうでも、投げやりでもなく、ただそういう状況として言った。自分の部屋に傘がない、くらいの温度で言った。でもその温度の低さが、かえって蓮には重く聞こえた。諦めているのとも違う。ただ、それが今の自分の状況だと、正確に知っている感じだった。

「学校のときの友達は?」

「みんな、ここを離れてる」

結衣は言った。

「東京とか、遠い街に行って。私だけここにいる」

「……連絡は取れるんじゃないか?LINEとか」

「スマホ、ないから」

「そうだった」

 言ってから、蓮は自分の言葉の間の抜け方を少し恥ずかしく思った。分かっていたことを、また確認してしまった。スマホがない。携帯もない。繋がる手段がない。そういう結衣に、「連絡取れるじゃないか」と言った。

「それに」

結衣は少し間を置いた。

「みんな、私のことを少し忘れかけてると思う」

「忘れかけてる?」

「うん。久しぶりに連絡来ても、なんか薄い感じがして。前みたいじゃなくて。時間が経つと、そうなるのかなって」

 薄い感じ。

 その表現が、蓮の中で何かと共鳴した。

 人の記憶は時間とともに薄れる。写真を見返さなければ顔が曖昧になる。声を聞かなければ声が消える。何年も会わなければ、その人の「感じ」が輪郭を失っていく。それは仕方のないことで、誰でもそうなる。

 でも結衣がそれを言うとき、どこか他人事みたいだった。忘れられることへの悲しみより、観察する視線の方が強かった。時間が経つと、そうなるのかな、と。まるで自分が忘れられていく過程を、外から見ているみたいな言い方だった。

「蓮は?」

結衣が聞いた。

「私のこと、誰かに話した?」

「……話してない」

蓮は正直に言った。

「なんで?」

「言葉にすると、おかしくなる気がして」

「おかしくなる?」

「うまく言えないけど」

蓮は石畳を見た。

「話すと、俺の中にある結衣の感じが変わりそうで」

 言いながら、自分でもうまく説明できていないと思った。でも正直な感覚だった。結衣のことを言葉で誰かに伝えようとすると、その言葉が結衣を別の何かに変えてしまう。ここで感じている結衣の存在感が、言語化された途端に薄くなってしまう。

 結衣はそれを聞いて、少し笑った。

 今日の笑顔は、珍しく目元まで動いていた。

 いつもの笑顔は口元が動く。でも今日のは、目じりも一緒に下がった。本当に嬉しいときの顔だった。

「それ、嬉しいな」

「何が?」

「変えたくないと思ってくれてること」

 蓮は返事ができなかった。

 変えたくない、と思っているのは確かだ。でもそれは同時に、「変わってしまうかもしれない」という不安でもある。変えたくないと思うのは、変わることを恐れているからだ。恐れているのは、変わった後の世界を想像しているからだ。

 その不安が何についての不安なのかを、蓮はまだ言葉にしたくなかった。

「結衣が嬉しいなら、よかった」

 蓮はそれだけ言った。

 結衣は「うん」と言って、また空を見た。

 今日の空には高い雲があって、光が少し柔らかかった。夏の盛りを少し過ぎた空の色だった。

 *

 その夜、蓮は実家の縁側に出た。

 夜の庭は昼と全然違う。草の色が見えない。輪郭が消えて、全部が暗い塊になっている。でも虫の声が濃い。昼間は蝉の声に覆われていた音の層が、夜になると全部虫の声に入れ替わる。コオロギ、キリギリス、名前の分からない虫たち。それぞれが違うリズムで鳴いていて、全部が合わさると一つの音になる。

 空には星があった。

 東京ではあまり見えない星が、ここでは見える。ビルがなく、街灯が少なく、空が広い分だけ、星が多く見える。子供の頃、夏になると縁側で父に星座を教えてもらった。サソリ座が南の空に低く見えると、夏の終わりが近いと父が言った。今年もサソリ座はそこにあった。

 縁側の引き戸が開いて、母が出てきた。

 湯飲みを二つ持っていた。一つを蓮の隣に置いて、自分も縁側に腰を下ろした。麦茶だった。氷が入っていて、夜風の中では少し冷たすぎる温度だった。

 二人で庭を見ていた。

 虫の声がしていた。どこかで風鈴の音がした。近所の誰かの家から、夏の音が届いてきた。

「お母さん」

蓮は言った。

「結衣のこと、何か知ってることがあれば教えてほしい」

 母が湯飲みを持ったまま黙った。

 長い間ではなかった。でも確かな間だった。この質問が来ることを、どこかで待っていたような間だった。

「知ってることって、何が?」

「今どうしてるか。ここ数年、どうしてたか」

「……蓮」

母は少しして言った。

「蓮は、結衣ちゃんとちゃんと会って、話してるの?」

「会ってる。毎日、神社で」

 母がゆっくりと蓮の方を向いた。

 暗い中でも、その表情が複雑なのが分かった。心配と、どこか安堵と、そして何か決め兼ねているものが混じっていた。

「そう」

と言った。それだけだった。

「それだけ?」

「……蓮が感じてることを、まず蓮自身がちゃんと整理した方がいいと思う」

「感じてること?」

「結衣ちゃんのこと、少し変だと思わない?」

 蓮は答えなかった。

「変だと思ってるでしょ」

母は言った。責めているのではなく、確認するように。穏やかに、でも真っすぐに。

「変だと気づいてて、でも聞きたくないんでしょ」

 蓮はまた黙った。

 否定できなかった。

 変だと思っている。気づいている。でも聞きたくない。そのことを、母はどこかで見ていた。十三日間、毎日神社に出かける息子を、母はどういう気持ちで見ていたのか。

「……聞いたら、どうなる?」

 蓮はそれだけ言った。

 母は答えなかった。

 湯飲みを両手で包んで、庭を見ていた。虫が鳴いていた。風鈴がまた鳴った。遠くで車が一台通り過ぎる音がして、また静かになった。

 蓮は星を見上げた。

 聞いたら、どうなる。

 その問いの答えを、蓮はどこかで知っていた。知っているから、聞けないでいた。知ってしまったら、何かが終わる。今のまま、毎日神社へ行って、石段に座って、空の話をして帰ってくる、そのサイクルが終わる。

 結衣と過ごすこの時間が、変わってしまう。

 それが怖かった。

「お母さん」

蓮はもう一度言った。

「俺が聞く準備ができたら、話してくれる?」

 母は少しの間、黙っていた。

「……うん」

と言った。

「そのときは話すね」

 二人でしばらく、夏の夜を見ていた。

 麦茶の氷が溶けて、コップの中で小さな音を立てた。

 蓮はその音を聞きながら、準備ができる日がいつ来るのかを、考えていた。

 来てほしいような。

 来てほしくないような。

 夏の夜が、静かに更けていった。

「薄い感じがする」と結衣は言いました。忘れられていく過程を、外から眺めているような声。縁側で母が約束した「そのときは話す」を、蓮は抱えて眠ります。

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