第二章 誰かに話すと、きみのことを思い出せなくなる気がして
言葉にした途端に、変わってしまうものがあります。話さないことで、蓮は何を守っているのでしょう。
十三日目。
蓮は午前中、実家の縁側でスマートフォンを見ていた。
東京の友人から連絡が来ていた。
「帰省どう?」
という軽いメッセージだった。スタンプが一つ、添えてあった。蓮と同期入社で、よく昼飯を一緒に食う友人だ。他愛ない連絡で、返信も他愛ない言葉でいい。「まあまあ」とか「のんびりしてる」とか、それだけで済む話だった。
でも返信しながら、ふと気づいた。
結衣のことを誰にも話していない。
帰省して十三日、毎日会っている。一度も会えなかった日はない。石段に座って、雲の話をして、ラムネを飲んで、約束をした。それなのに、誰にも言っていない。東京の友人にも、SNSにも、一緒に実家にいる親にも。
なぜだろうと考えた。
別に隠す理由はない。幼なじみに再会した、というだけの話だ。帰省あるあるとして語れる、ごく普通の話のはずだった。でも文字にしようとすると、どこかで手が止まる。「実は地元の幼なじみと再会して」と打ち込もうとして、止まる。何度か試みたが、そのたびに消した。
言葉にすると、何かが壊れる気がする。
そういう感覚があった。
SNSに書けば、誰かが読む。友人に話せば、「へえ、どんな子?」と聞かれる。答えようとすると、結衣のことを「言葉で説明できるもの」にしなければならない。名前、年齢、関係性、最近の様子。そういう輪郭を与えると、今の蓮の中にある結衣の感じが、別の何かに変わってしまいそうだった。
あるいは。
結衣のことを「今の話」として語ることに、どこかで抵抗がある。「今の話」として語れる確信が、持てない。
なぜそう感じるのかは、まだ言葉にできなかった。でもその感覚は、ここ数日で少しずつ育っていた。確信に変わりそうで、でも変わってほしくない何かが、蓮の中でゆっくりと形を成していた。
友人への返信は
「のんびりしてる、実家ご飯がうまい」
で済ませた。それだけだった。
*
その日の神社で、蓮は結衣に聞いた。
二人で石段に座って、しばらく話した後で、自然に出てきた言葉だった。
「俺のこと、他の人に話してる?」
「蓮のこと?」
「うん。帰省してきて、また会うようになったって」
結衣は少し考えた。視線を石畳の方に落として、何かを確認するように間を置いた。
「……話す人が、いないかな」
「友達は?」
「今は、いないんだよね」
さらっと言った。
悲しそうでも、投げやりでもなく、ただそういう状況として言った。自分の部屋に傘がない、くらいの温度で言った。でもその温度の低さが、かえって蓮には重く聞こえた。諦めているのとも違う。ただ、それが今の自分の状況だと、正確に知っている感じだった。
「学校のときの友達は?」
「みんな、ここを離れてる」
結衣は言った。
「東京とか、遠い街に行って。私だけここにいる」
「……連絡は取れるんじゃないか?LINEとか」
「スマホ、ないから」
「そうだった」
言ってから、蓮は自分の言葉の間の抜け方を少し恥ずかしく思った。分かっていたことを、また確認してしまった。スマホがない。携帯もない。繋がる手段がない。そういう結衣に、「連絡取れるじゃないか」と言った。
「それに」
結衣は少し間を置いた。
「みんな、私のことを少し忘れかけてると思う」
「忘れかけてる?」
「うん。久しぶりに連絡来ても、なんか薄い感じがして。前みたいじゃなくて。時間が経つと、そうなるのかなって」
薄い感じ。
その表現が、蓮の中で何かと共鳴した。
人の記憶は時間とともに薄れる。写真を見返さなければ顔が曖昧になる。声を聞かなければ声が消える。何年も会わなければ、その人の「感じ」が輪郭を失っていく。それは仕方のないことで、誰でもそうなる。
でも結衣がそれを言うとき、どこか他人事みたいだった。忘れられることへの悲しみより、観察する視線の方が強かった。時間が経つと、そうなるのかな、と。まるで自分が忘れられていく過程を、外から見ているみたいな言い方だった。
「蓮は?」
結衣が聞いた。
「私のこと、誰かに話した?」
「……話してない」
蓮は正直に言った。
「なんで?」
「言葉にすると、おかしくなる気がして」
「おかしくなる?」
「うまく言えないけど」
蓮は石畳を見た。
「話すと、俺の中にある結衣の感じが変わりそうで」
言いながら、自分でもうまく説明できていないと思った。でも正直な感覚だった。結衣のことを言葉で誰かに伝えようとすると、その言葉が結衣を別の何かに変えてしまう。ここで感じている結衣の存在感が、言語化された途端に薄くなってしまう。
結衣はそれを聞いて、少し笑った。
今日の笑顔は、珍しく目元まで動いていた。
いつもの笑顔は口元が動く。でも今日のは、目じりも一緒に下がった。本当に嬉しいときの顔だった。
「それ、嬉しいな」
「何が?」
「変えたくないと思ってくれてること」
蓮は返事ができなかった。
変えたくない、と思っているのは確かだ。でもそれは同時に、「変わってしまうかもしれない」という不安でもある。変えたくないと思うのは、変わることを恐れているからだ。恐れているのは、変わった後の世界を想像しているからだ。
その不安が何についての不安なのかを、蓮はまだ言葉にしたくなかった。
「結衣が嬉しいなら、よかった」
蓮はそれだけ言った。
結衣は「うん」と言って、また空を見た。
今日の空には高い雲があって、光が少し柔らかかった。夏の盛りを少し過ぎた空の色だった。
*
その夜、蓮は実家の縁側に出た。
夜の庭は昼と全然違う。草の色が見えない。輪郭が消えて、全部が暗い塊になっている。でも虫の声が濃い。昼間は蝉の声に覆われていた音の層が、夜になると全部虫の声に入れ替わる。コオロギ、キリギリス、名前の分からない虫たち。それぞれが違うリズムで鳴いていて、全部が合わさると一つの音になる。
空には星があった。
東京ではあまり見えない星が、ここでは見える。ビルがなく、街灯が少なく、空が広い分だけ、星が多く見える。子供の頃、夏になると縁側で父に星座を教えてもらった。サソリ座が南の空に低く見えると、夏の終わりが近いと父が言った。今年もサソリ座はそこにあった。
縁側の引き戸が開いて、母が出てきた。
湯飲みを二つ持っていた。一つを蓮の隣に置いて、自分も縁側に腰を下ろした。麦茶だった。氷が入っていて、夜風の中では少し冷たすぎる温度だった。
二人で庭を見ていた。
虫の声がしていた。どこかで風鈴の音がした。近所の誰かの家から、夏の音が届いてきた。
「お母さん」
蓮は言った。
「結衣のこと、何か知ってることがあれば教えてほしい」
母が湯飲みを持ったまま黙った。
長い間ではなかった。でも確かな間だった。この質問が来ることを、どこかで待っていたような間だった。
「知ってることって、何が?」
「今どうしてるか。ここ数年、どうしてたか」
「……蓮」
母は少しして言った。
「蓮は、結衣ちゃんとちゃんと会って、話してるの?」
「会ってる。毎日、神社で」
母がゆっくりと蓮の方を向いた。
暗い中でも、その表情が複雑なのが分かった。心配と、どこか安堵と、そして何か決め兼ねているものが混じっていた。
「そう」
と言った。それだけだった。
「それだけ?」
「……蓮が感じてることを、まず蓮自身がちゃんと整理した方がいいと思う」
「感じてること?」
「結衣ちゃんのこと、少し変だと思わない?」
蓮は答えなかった。
「変だと思ってるでしょ」
母は言った。責めているのではなく、確認するように。穏やかに、でも真っすぐに。
「変だと気づいてて、でも聞きたくないんでしょ」
蓮はまた黙った。
否定できなかった。
変だと思っている。気づいている。でも聞きたくない。そのことを、母はどこかで見ていた。十三日間、毎日神社に出かける息子を、母はどういう気持ちで見ていたのか。
「……聞いたら、どうなる?」
蓮はそれだけ言った。
母は答えなかった。
湯飲みを両手で包んで、庭を見ていた。虫が鳴いていた。風鈴がまた鳴った。遠くで車が一台通り過ぎる音がして、また静かになった。
蓮は星を見上げた。
聞いたら、どうなる。
その問いの答えを、蓮はどこかで知っていた。知っているから、聞けないでいた。知ってしまったら、何かが終わる。今のまま、毎日神社へ行って、石段に座って、空の話をして帰ってくる、そのサイクルが終わる。
結衣と過ごすこの時間が、変わってしまう。
それが怖かった。
「お母さん」
蓮はもう一度言った。
「俺が聞く準備ができたら、話してくれる?」
母は少しの間、黙っていた。
「……うん」
と言った。
「そのときは話すね」
二人でしばらく、夏の夜を見ていた。
麦茶の氷が溶けて、コップの中で小さな音を立てた。
蓮はその音を聞きながら、準備ができる日がいつ来るのかを、考えていた。
来てほしいような。
来てほしくないような。
夏の夜が、静かに更けていった。
「薄い感じがする」と結衣は言いました。忘れられていく過程を、外から眺めているような声。縁側で母が約束した「そのときは話す」を、蓮は抱えて眠ります。




