第二部 終われない理由 第一章 古い携帯に、最後のメッセージが残っていた
閉じたはずのものを、もう一度開く朝があります。もう少し奥まで。
十二日目の朝、蓮はまた古い携帯を開いた。
起きてすぐだった。朝食の前に、自然と手が伸びた。引き出しに戻しておいたはずなのに、昨夜寝る前にまた出して、枕元に置いていた。自分でもいつそうしたか、はっきり覚えていなかった。
前回は着信履歴だけ見て閉じた。今日は、もう少し奥まで見ようと思った。理由は自分でもはっきりしない。ただ、何かがあるような気がした。着信履歴の前に、もっと何かが残っているような気がした。昨夜、眠れないまま天井を見ていた時間に、そういう予感がじわじわと育っていた。
ボタンを押してメールのフォルダを開いた。
受信箱に、メールが並んでいた。
高校時代の友人からのもの、母からのもの、学校からの連絡のもの。どれも懐かしいアドレスで、懐かしい件名だった。古い時代の記録を見ているみたいだった。
結衣からのメールが、受信箱の上の方にあった。
最後のメールは、五年前の夏。蓮が東京へ出発した日の、前日の夜に届いていた。
件名はなかった。本文だけ。
蓮へ
明日、出発だね。
ちゃんと言えなかったけど、ずっと応援してたよ。東京でうまくいくといいな。
一個だけお願いがあるんだけど、聞いてくれる?
帰ってきたとき、海を見に行こう。一緒に。
蓮が約束してくれたから、私もちゃんと待てる気がする。
行ってらっしゃい。
結衣
蓮は画面を見たまま、しばらく動けなかった。
朝の光が窓から入ってきていた。鳥が鳴いていた。どこかで母が台所で何かをする音がした。でもそれらが全部、遠い場所で起きていることみたいだった。蓮の意識は、画面の中の文字に貼りついていた。
メールが届いていたことを、覚えていなかった。
出発前日の夜は早めに寝た。荷物の最終確認をして、アラームをセットして、早めに横になった。スマホに切り替えたのはちょうどその頃で、古い携帯を見なくなっていたのかもしれない。新しい機種の方に意識が向いていて、古い方に目が行かなかった。
届いていたのに、読んでいなかった。
読まないまま、翌朝出発した。
結衣が当日の朝に三回電話をかけてきたのは、このメールへの返事が来なかったからだろう。返事が来ない。既読にもならない。だから電話をかけた。三回。全部不在着信になった。それでも、折り返しは来なかった。
蓮はメールをもう一度読んだ。
一回では、全部が頭に入らなかった。言葉の一つ一つを、ゆっくり確認するように読んだ。
ちゃんと言えなかったけど、ずっと応援してたよ。
ちゃんと言えなかった。何を言えなかったのか。応援している、ということか。それとも、もっと別の何かか。
蓮が約束してくれたから、私もちゃんと待てる気がする。
待てる気がする、と書いた。
断言していない。待てる、じゃなくて、待てる気がする。気がする、という不確かさが含まれている。自分でも確信が持てないまま、それでもこの約束があれば待てると思った。そういう文章だった。
蓮は携帯を閉じた。
閉じても、文字が目の裏に残っていた。
窓の外で、蝉が鳴いていた。今日も暑かった。空は白く光っていた。夏の日差しがカーテンを透かして、床に柔らかい光を作っていた。
「私もちゃんと待てる気がする」
その一文が、頭の中で繰り返した。
待てる気がする、と書いた。
実際に、結衣は待っていたのか。
五年間、何を待っていたのか。
蓮が帰ってきて、一緒に海を見に行く、そのことを。
だとしたら。
だとしたら、結衣は五年間、この神社にいた。スマートフォンも持たず、仕事もせず、誰にも会わず、毎日ここにいた。待ちながら。蓮が帰ってくるのを、待ちながら。
「夏しかいられない」という言葉と、「約束を果たすまで待っていた」という事実が、頭の中でゆっくりと繋がり始めた。
繋がった先に、何があるのか。
その答えを、蓮はまだ直視できなかった。目の前まで来ているのに、最後の一歩が踏み出せない。分かってしまったら、何かが終わる。そういう予感が、足を止めさせていた。
*
神社へ向かった。
今日は足が重かった。坂を登りながら、一段一段を意識した。いつもは何も考えずに登る坂が、今日は長く感じた。
それでも行かないという選択肢が、蓮にはなかった。
行かなければ、昨日の約束が宙に浮いたままになる。海へ行く約束。でもそれ以上に——行かなければ、今日も結衣に会えない。それが嫌だった。足が重くても、行くことの方が行かないことよりずっと自然だった。
鳥居をくぐると、境内を風が吹き抜けていた。
木々の葉が揺れて、緑の光が揺れていた。昨日よりも風が強くて、境内全体が揺れているみたいだった。葉の隙間から差し込む光が、石畳の上で絶えず形を変えていた。
結衣はいた。
参道の端に立って、風を受けていた。髪が揺れていた。目を閉じて、顔を少し上に向けていた。風を正面から受けているみたいな立ち方だった。
蓮が来ると振り返った。いつもの笑顔。
でも今日の蓮には、その笑顔がいつもと少し違って見えた。
笑顔の奥に、何かがある。ずっとあったのに、蓮が見えていなかっただけで。あるいは、見ようとしていなかっただけで。
「どうかした?」
結衣が聞いた。
無意識のうちに、蓮の顔に出てしまっていたのだろうか。
「メール、読んだ」
蓮は言った。
「昨日のじゃなくて、五年前の」
結衣がまばたきした。
「古い携帯に、残ってたんだ」
「うん。出発の前日に送ってくれてたやつ」
「……読んでなかったんだね」
責める声じゃなかった。確認する声だった。そうか、読んでいなかったのか、という、ただの事実確認。
「ごめん」
「いいよ」
結衣は言った。少し間があった。
「読んでもらえなかったのは、寂しかったけど。でも怒ってない」
「寂しかった、って言えるんだな」
「言えるよ。今は」
今は、という言葉の重さを、蓮は感じた。
今は言えること。今だから言えること。時間が経ったから言えるようになったのか、あるいは——もう怒ったり傷ついたりすることができない場所にいるから、静かに言えるようになったのか。
どちらなのか、蓮にはまだ分からなかった。
でもその「今は」という二文字が、ひどく複雑な重さを持っていた。
「約束、覚えてなくて本当にごめん」
「でも帰ってきたじゃない」
結衣は言った。
「ちゃんと、帰ってきてくれた」
その声には、責めるような響きはなかった。
怒りの色もなかった。
ただ、静かに受け止めていた。帰ってきた、という事実を。五年かかったけれど、ちゃんと帰ってきた。それだけで十分だという声だった。
それがかえって、蓮の胸に重く刺さった。
責められる方が、まだよかった。怒られる方が、謝る場所があってよかった。でも結衣は怒らない。責めない。静かに、全部受け取る。
その受け取り方の深さが、蓮には自分が何をしてしまったのかを、じわじわと教えた。
「結衣」
蓮は言った。
「うん?」
「もっと早く帰ってきたらよかった」
結衣は少しの間、蓮を見た。
それから空を見た。風が来て、髪が揺れた。
「帰ってきたよ」
結衣は言った。
「今年、ちゃんと」
今年。
五年目の夏に、ちゃんと帰ってきた。結衣にとってそれは、遅すぎることでも、早すぎることでもないのかもしれなかった。ただ、来た。それだけだった。
風が強くなった。
境内の木が大きく揺れた。葉の音が響いた。光が激しく揺れて、石畳の模様が踊った。
結衣は風の中で、静かに立っていた。
まるで、風に揺れない何かみたいに。
読まれなかった一通のメール。責められるより、静かに受け取られるほうが痛いこともあります。「帰ってきたじゃない」の声が、胸に残ります。




