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きみがいた夏は、もう終わらない  作者: Noct


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8/21

第二部 終われない理由 第一章 古い携帯に、最後のメッセージが残っていた

閉じたはずのものを、もう一度開く朝があります。もう少し奥まで。

 十二日目の朝、蓮はまた古い携帯を開いた。

 起きてすぐだった。朝食の前に、自然と手が伸びた。引き出しに戻しておいたはずなのに、昨夜寝る前にまた出して、枕元に置いていた。自分でもいつそうしたか、はっきり覚えていなかった。

 前回は着信履歴だけ見て閉じた。今日は、もう少し奥まで見ようと思った。理由は自分でもはっきりしない。ただ、何かがあるような気がした。着信履歴の前に、もっと何かが残っているような気がした。昨夜、眠れないまま天井を見ていた時間に、そういう予感がじわじわと育っていた。

 ボタンを押してメールのフォルダを開いた。

 受信箱に、メールが並んでいた。

 高校時代の友人からのもの、母からのもの、学校からの連絡のもの。どれも懐かしいアドレスで、懐かしい件名だった。古い時代の記録を見ているみたいだった。

 結衣からのメールが、受信箱の上の方にあった。

 最後のメールは、五年前の夏。蓮が東京へ出発した日の、前日の夜に届いていた。

 件名はなかった。本文だけ。


 蓮へ

 明日、出発だね。  

 ちゃんと言えなかったけど、ずっと応援してたよ。東京でうまくいくといいな。  

 一個だけお願いがあるんだけど、聞いてくれる?

 帰ってきたとき、海を見に行こう。一緒に。

 蓮が約束してくれたから、私もちゃんと待てる気がする。  

 行ってらっしゃい。

 結衣


 蓮は画面を見たまま、しばらく動けなかった。

 朝の光が窓から入ってきていた。鳥が鳴いていた。どこかで母が台所で何かをする音がした。でもそれらが全部、遠い場所で起きていることみたいだった。蓮の意識は、画面の中の文字に貼りついていた。

 メールが届いていたことを、覚えていなかった。

 出発前日の夜は早めに寝た。荷物の最終確認をして、アラームをセットして、早めに横になった。スマホに切り替えたのはちょうどその頃で、古い携帯を見なくなっていたのかもしれない。新しい機種の方に意識が向いていて、古い方に目が行かなかった。

 届いていたのに、読んでいなかった。

 読まないまま、翌朝出発した。

 結衣が当日の朝に三回電話をかけてきたのは、このメールへの返事が来なかったからだろう。返事が来ない。既読にもならない。だから電話をかけた。三回。全部不在着信になった。それでも、折り返しは来なかった。

 蓮はメールをもう一度読んだ。

 一回では、全部が頭に入らなかった。言葉の一つ一つを、ゆっくり確認するように読んだ。

 ちゃんと言えなかったけど、ずっと応援してたよ。

 ちゃんと言えなかった。何を言えなかったのか。応援している、ということか。それとも、もっと別の何かか。

 蓮が約束してくれたから、私もちゃんと待てる気がする。

 待てる気がする、と書いた。

 断言していない。待てる、じゃなくて、待てる気がする。気がする、という不確かさが含まれている。自分でも確信が持てないまま、それでもこの約束があれば待てると思った。そういう文章だった。

 蓮は携帯を閉じた。

 閉じても、文字が目の裏に残っていた。

 窓の外で、蝉が鳴いていた。今日も暑かった。空は白く光っていた。夏の日差しがカーテンを透かして、床に柔らかい光を作っていた。

「私もちゃんと待てる気がする」

 その一文が、頭の中で繰り返した。

 待てる気がする、と書いた。

 実際に、結衣は待っていたのか。

 五年間、何を待っていたのか。

 蓮が帰ってきて、一緒に海を見に行く、そのことを。

 だとしたら。

 だとしたら、結衣は五年間、この神社にいた。スマートフォンも持たず、仕事もせず、誰にも会わず、毎日ここにいた。待ちながら。蓮が帰ってくるのを、待ちながら。

 「夏しかいられない」という言葉と、「約束を果たすまで待っていた」という事実が、頭の中でゆっくりと繋がり始めた。

 繋がった先に、何があるのか。

 その答えを、蓮はまだ直視できなかった。目の前まで来ているのに、最後の一歩が踏み出せない。分かってしまったら、何かが終わる。そういう予感が、足を止めさせていた。

 *

 神社へ向かった。

 今日は足が重かった。坂を登りながら、一段一段を意識した。いつもは何も考えずに登る坂が、今日は長く感じた。

 それでも行かないという選択肢が、蓮にはなかった。

 行かなければ、昨日の約束が宙に浮いたままになる。海へ行く約束。でもそれ以上に——行かなければ、今日も結衣に会えない。それが嫌だった。足が重くても、行くことの方が行かないことよりずっと自然だった。

 鳥居をくぐると、境内を風が吹き抜けていた。

 木々の葉が揺れて、緑の光が揺れていた。昨日よりも風が強くて、境内全体が揺れているみたいだった。葉の隙間から差し込む光が、石畳の上で絶えず形を変えていた。

 結衣はいた。

 参道の端に立って、風を受けていた。髪が揺れていた。目を閉じて、顔を少し上に向けていた。風を正面から受けているみたいな立ち方だった。

 蓮が来ると振り返った。いつもの笑顔。

 でも今日の蓮には、その笑顔がいつもと少し違って見えた。

 笑顔の奥に、何かがある。ずっとあったのに、蓮が見えていなかっただけで。あるいは、見ようとしていなかっただけで。

「どうかした?」

結衣が聞いた。

 無意識のうちに、蓮の顔に出てしまっていたのだろうか。

「メール、読んだ」

蓮は言った。

「昨日のじゃなくて、五年前の」

 結衣がまばたきした。

「古い携帯に、残ってたんだ」

「うん。出発の前日に送ってくれてたやつ」

「……読んでなかったんだね」

 責める声じゃなかった。確認する声だった。そうか、読んでいなかったのか、という、ただの事実確認。

「ごめん」

「いいよ」

結衣は言った。少し間があった。

「読んでもらえなかったのは、寂しかったけど。でも怒ってない」

「寂しかった、って言えるんだな」

「言えるよ。今は」

 今は、という言葉の重さを、蓮は感じた。

 今は言えること。今だから言えること。時間が経ったから言えるようになったのか、あるいは——もう怒ったり傷ついたりすることができない場所にいるから、静かに言えるようになったのか。

 どちらなのか、蓮にはまだ分からなかった。

 でもその「今は」という二文字が、ひどく複雑な重さを持っていた。

「約束、覚えてなくて本当にごめん」

「でも帰ってきたじゃない」

結衣は言った。

「ちゃんと、帰ってきてくれた」

 その声には、責めるような響きはなかった。

 怒りの色もなかった。

 ただ、静かに受け止めていた。帰ってきた、という事実を。五年かかったけれど、ちゃんと帰ってきた。それだけで十分だという声だった。

 それがかえって、蓮の胸に重く刺さった。

 責められる方が、まだよかった。怒られる方が、謝る場所があってよかった。でも結衣は怒らない。責めない。静かに、全部受け取る。

 その受け取り方の深さが、蓮には自分が何をしてしまったのかを、じわじわと教えた。

「結衣」

蓮は言った。

「うん?」

「もっと早く帰ってきたらよかった」

 結衣は少しの間、蓮を見た。

 それから空を見た。風が来て、髪が揺れた。

「帰ってきたよ」

結衣は言った。

「今年、ちゃんと」

 今年。

 五年目の夏に、ちゃんと帰ってきた。結衣にとってそれは、遅すぎることでも、早すぎることでもないのかもしれなかった。ただ、来た。それだけだった。

 風が強くなった。

 境内の木が大きく揺れた。葉の音が響いた。光が激しく揺れて、石畳の模様が踊った。

 結衣は風の中で、静かに立っていた。

 まるで、風に揺れない何かみたいに。

読まれなかった一通のメール。責められるより、静かに受け取られるほうが痛いこともあります。「帰ってきたじゃない」の声が、胸に残ります。

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