第七章 あの日の約束を、まだ覚えてるよ
約束の重さは、渡した人と受け取った人で違います。お盆前の、朝の神社です。
十一日目。
この日だけ、蓮は午前中に神社へ行った。
理由はうまく言葉にできなかった。昨夜から、結衣の言葉が頭の中にあった。夏だけなの、私がいられるのは。眠りにつく前も、朝目が覚めたときも、その言葉が最初に来た。だから朝食を終えるとすぐに、
「ちょっと出てくる」
と母に言って、坂を登った。
お盆前の神社は少し人が多かった。
参拝客が来て、線香の煙が漂っていた。家族連れが手を合わせていた。年配の夫婦が参道をゆっくり歩いていた。子供が鈴を鳴らしたがって、親に抱き上げてもらっていた。夏の朝の神社は、こういう人たちで少しだけ賑わう。お盆が近くなると、帰省した人たちが先祖への挨拶に来る。
結衣はいた。
人が多い中でも、いつもの場所にいた。参道の石段の端、木漏れ日が当たる場所。そこに立って、参拝客を眺めるでもなく、ただそこにいた。
周りの人たちは結衣に気づいていなかった。
それに蓮は、今日初めて気づいた。
参道を歩く人が結衣のすぐ横を通り過ぎた。距離にして三十センチもなかった。でもその人は結衣を見なかった。よけもしなかった。まるで結衣がそこにいないみたいに、まっすぐ歩いて行った。
別の人が参道を横切った。結衣の方を向いた。でも視線が結衣の上を滑った。止まらなかった。
今まで見えていなかったことが、突然見えた感じ。
あるいは、見えていたのに見ないようにしていたことが、もう見ないでいられなくなった感じ。
心臓が少し速くなった。蓮は深呼吸して、参道を歩いた。
蓮が来ると、結衣は笑った。
「今日は早い」
「うん。ちょっと話したいことがあって」
「何?」
蓮は少し考えた。
直接聞くべきか、遠回りに聞くべきか。でも結衣の「あまり聞かないでほしい」という言葉も覚えていた。線を引かれた感覚も覚えていた。それを踏み越えることへの躊躇いがある。でも踏み越えなければ、近づけない場所がある。
「昨日、夏だけしかいられないって言ってたよな」
「言ったね」
「それって」
「それはそういうこと」
結衣はさらっと言った。
「難しく考えなくていいよ」
「難しく考えるなって言われても」
「蓮はいつも考えすぎるんだよ」
結衣は笑った。
「昔からそう」
「考えすぎて何が悪い」
「悪くないけど」
結衣は空を見た。
「今日みたいなきれいな朝に、難しい顔するのがもったいないな、って」
蓮は空を見た。
確かにきれいな朝だった。入道雲が白く、空が青く、風が少し涼しかった。お盆前の朝特有の、清潔な空気。線香の煙が細く上がって、空に溶けていった。
もったいない、という言葉が引っかかった。
結衣がそういう言い方をするのは珍しかった。いつも「聞かないでほしい」と線を引くか、「きれいだよね」と別の方向へ流すか。でも今日は「もったいない」と言った。難しい顔をすることが惜しいと言った。この朝が、この時間が、もったいないと言った。
まるで、残り少ないものを大事にしているみたいな言い方だった。
「……約束のこと」
蓮は言った。
「結衣は何の約束って言ったの?」
結衣がまばたきした。
「約束?」
「前に、あの日の約束を覚えてる、って言ってたよな。どの約束?」
結衣が口にした言葉だった。「あの日の約束を、まだ覚えてるよ」。
そのときは聞き返せなかった。何の約束か確認できないまま、話が流れた。でも頭の片隅にずっとあった。
結衣は少し考えた。「考えた」というより、「どこまで話すか」を測っている感じがした。蓮にはそれが分かるようになっていた。結衣が言葉を選ぶときと、答えを探しているときは、表情に、微かな違和感がある。
「……ラムネの約束じゃなくて?」
「ラムネの約束は中学のときの話だろ。それ以外に、何かあった?」
「……蓮は覚えてない?」
「覚えていれば聞かない」
結衣は少しの間、遠くを見た。
境内の木の向こう、空の方を見た。入道雲が光を受けて、白く輝いていた。
「高校の最後の夏に、二人で海に行ったよね」
「行った」
蓮には記憶があった。七月の終わり、受験勉強の合間に、二人で汐崎の浜へ行った。バスで十五分ほどの海だった。泳いだわけじゃなく、砂浜に座って、水平線を見ていた。
「そのとき、蓮が言ったんだよ」
「何を?」
結衣が蓮を見た。
笑みを浮かべてはいるものの、その瞳の奥には何かが潜んでいた。今まで見えなかった何かが、今日は少し見えた。薄い膜の向こう側にずっとあったものが、光の角度が変わって、輪郭だけ見えるようになった感じ。
「また帰ってきたら、一緒に海を見よう、って」
蓮は息をのんだ。
言ったかもしれない。
出発の前に、別れの挨拶みたいに言った可能性がある。あの夏は、東京への出発が近づいていて、終わっていく夏と始まっていく東京が頭の中で混在していた。感傷的な気分になっていて、そういうことを言いそうな状態だった。
でも記憶が曖昧だった。
あの頃の蓮は、東京への出発で頭がいっぱいで、あの夏の細部をあまり覚えていない。何を食べたか、何を話したか、何を見たか。全部が東京行きの興奮の中に溶けていた。
「言った?」
蓮は確認するように聞いた。
「言ったよ」
結衣は静かに言った。
「ちゃんと聞こえてた」
その声が、どこか微かに違っている。
柔らかいけど、重かった。いつもの結衣の声は軽い。羽みたいに、水面を滑るみたいに、軽い。でも今の声は底があった。言葉に根が生えているみたいに、深いところから来た声だった。
ちゃんと聞こえてた。
その「ちゃんと」が重かった。聞き間違いじゃない。聞き流しもしていない。ちゃんと、受け取った。そういう「ちゃんと」だった。
蓮は、自分があの約束をどれほど軽く扱ってきたかを、その一言で知った。
言ったかもしれない、と思いながら確認した。言ったかどうかも定かじゃない約束を、結衣は五年間持ち続けていた。ちゃんと聞こえてた、と言えるほどに。
「……海、行こう」
蓮は言った。
「まだ帰省中だから、一緒に行こう」
結衣は少し驚いた顔をした。
まばたきが一回、二回。それから、笑顔になった。
今度の笑顔は余韻があった。石段に座っていつも見せる笑顔とも違う。ラムネを飲んでいるときの笑顔とも違う。何かを待っていて、それがようやく来たときの笑顔だった。長い時間をかけてやっと届いた言葉を受け取ったときの、静かな、でも確かな笑顔。
「うん」
と言った。
「行きたい」
その「行きたい」の声が、蓮の胸の奥に落ちた。
ただそれだけの言葉なのに、どうしてこんなに重く聞こえるのか。
行きたい。まだ行けていない場所に、行きたい。そこへ連れていってほしい。そういう声だった。
「じゃあ、帰省が終わる前に」
蓮は言った。
「何日か後に、一緒に行こう」
「うん」
「約束する」
「約束だよ」
結衣がそう言ったとき、また声の質が変わった。
約束、という言葉が、結衣の口の中で違う重さを持った。蓮が使ったのと同じ言葉なのに、受け取る側と渡す側では、その言葉の密度が違うみたいだった。
蓮にとっての約束は、軽い取り決めだった。数日後に海へ行く、というスケジュールの確認に近い。でも結衣の「約束」には、もっと時間が込められていた。五年間、「また帰ってきたら」という言葉を待っていた時間が。
二人で少しの間、石段に座った。
朝の境内は、人が行き来していた。でも相変わらず、誰も結衣に気づかなかった。蓮の隣に誰かがいることに、誰も反応しなかった。
蓮はそれを意識しながら、意識していることを表に出さないようにした。
今はまだ、その話をするときじゃない。海へ行く約束をした。まずそれを果たす。
「朝の空も好き?」
蓮は聞いた。
「好き」
結衣は空を見た。
「でも夕方の方が好き」
「なんで」
「一日の色が全部、夕方に出てくる気がするから」
蓮はそれを聞きながら、「夏だけしかいられない」と「また帰ってきたら海を見よう」が、頭の中でゆっくりと近づいていくのを感じた。
二つの言葉が重なったとき、何かが分かる。
その瞬間が、近づいていた。
*
帰り道、蓮は海の方を向いて歩いた。
実家とは反対方向だったが、少しだけ遠回りした。汐崎の海は、丘を越えた先にある。ここからは見えない。でも風の中に、かすかに潮の匂いがした。
五年前の夏、あの海辺に座って、結衣と何を話したのか。
水平線のことを話したかもしれない。東京がどんな場所か、想像で話したかもしれない。受験のことを話したかもしれない。何も話さずに、ただ並んで座っていたかもしれない。
でも一つだけ、言ったことがある。
また帰ってきたら、一緒に海を見よう。
その言葉を、結衣は五年間持っていた。
蓮は空を見た。
入道雲が、さっきより少し大きくなっていた。
「ちゃんと聞こえてた」。言ったかもしれない、で済ませた言葉を、誰かが五年間、持ち続けていました。海へ行く約束が、ここで生まれます。




