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きみがいた夏は、もう終わらない  作者: Noct


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7/21

第七章 あの日の約束を、まだ覚えてるよ

約束の重さは、渡した人と受け取った人で違います。お盆前の、朝の神社です。

 十一日目。

 この日だけ、蓮は午前中に神社へ行った。

 理由はうまく言葉にできなかった。昨夜から、結衣の言葉が頭の中にあった。夏だけなの、私がいられるのは。眠りにつく前も、朝目が覚めたときも、その言葉が最初に来た。だから朝食を終えるとすぐに、

「ちょっと出てくる」

と母に言って、坂を登った。

 お盆前の神社は少し人が多かった。

 参拝客が来て、線香の煙が漂っていた。家族連れが手を合わせていた。年配の夫婦が参道をゆっくり歩いていた。子供が鈴を鳴らしたがって、親に抱き上げてもらっていた。夏の朝の神社は、こういう人たちで少しだけ賑わう。お盆が近くなると、帰省した人たちが先祖への挨拶に来る。

 結衣はいた。

 人が多い中でも、いつもの場所にいた。参道の石段の端、木漏れ日が当たる場所。そこに立って、参拝客を眺めるでもなく、ただそこにいた。

 周りの人たちは結衣に気づいていなかった。

 それに蓮は、今日初めて気づいた。

 参道を歩く人が結衣のすぐ横を通り過ぎた。距離にして三十センチもなかった。でもその人は結衣を見なかった。よけもしなかった。まるで結衣がそこにいないみたいに、まっすぐ歩いて行った。

 別の人が参道を横切った。結衣の方を向いた。でも視線が結衣の上を滑った。止まらなかった。

 今まで見えていなかったことが、突然見えた感じ。

 あるいは、見えていたのに見ないようにしていたことが、もう見ないでいられなくなった感じ。

 心臓が少し速くなった。蓮は深呼吸して、参道を歩いた。

 蓮が来ると、結衣は笑った。

「今日は早い」

「うん。ちょっと話したいことがあって」

「何?」

 蓮は少し考えた。

 直接聞くべきか、遠回りに聞くべきか。でも結衣の「あまり聞かないでほしい」という言葉も覚えていた。線を引かれた感覚も覚えていた。それを踏み越えることへの躊躇いがある。でも踏み越えなければ、近づけない場所がある。

「昨日、夏だけしかいられないって言ってたよな」

「言ったね」

「それって」

「それはそういうこと」

結衣はさらっと言った。

「難しく考えなくていいよ」

「難しく考えるなって言われても」

「蓮はいつも考えすぎるんだよ」

結衣は笑った。

「昔からそう」

「考えすぎて何が悪い」

「悪くないけど」

結衣は空を見た。

「今日みたいなきれいな朝に、難しい顔するのがもったいないな、って」

 蓮は空を見た。

 確かにきれいな朝だった。入道雲が白く、空が青く、風が少し涼しかった。お盆前の朝特有の、清潔な空気。線香の煙が細く上がって、空に溶けていった。

 もったいない、という言葉が引っかかった。

 結衣がそういう言い方をするのは珍しかった。いつも「聞かないでほしい」と線を引くか、「きれいだよね」と別の方向へ流すか。でも今日は「もったいない」と言った。難しい顔をすることが惜しいと言った。この朝が、この時間が、もったいないと言った。

 まるで、残り少ないものを大事にしているみたいな言い方だった。

「……約束のこと」

蓮は言った。

「結衣は何の約束って言ったの?」

 結衣がまばたきした。

「約束?」

「前に、あの日の約束を覚えてる、って言ってたよな。どの約束?」

結衣が口にした言葉だった。「あの日の約束を、まだ覚えてるよ」。

そのときは聞き返せなかった。何の約束か確認できないまま、話が流れた。でも頭の片隅にずっとあった。

 結衣は少し考えた。「考えた」というより、「どこまで話すか」を測っている感じがした。蓮にはそれが分かるようになっていた。結衣が言葉を選ぶときと、答えを探しているときは、表情に、微かな違和感がある。

「……ラムネの約束じゃなくて?」

「ラムネの約束は中学のときの話だろ。それ以外に、何かあった?」

「……蓮は覚えてない?」

「覚えていれば聞かない」

 結衣は少しの間、遠くを見た。

 境内の木の向こう、空の方を見た。入道雲が光を受けて、白く輝いていた。

「高校の最後の夏に、二人で海に行ったよね」

「行った」

 蓮には記憶があった。七月の終わり、受験勉強の合間に、二人で汐崎の浜へ行った。バスで十五分ほどの海だった。泳いだわけじゃなく、砂浜に座って、水平線を見ていた。

「そのとき、蓮が言ったんだよ」

「何を?」

 結衣が蓮を見た。

 笑みを浮かべてはいるものの、その瞳の奥には何かが潜んでいた。今まで見えなかった何かが、今日は少し見えた。薄い膜の向こう側にずっとあったものが、光の角度が変わって、輪郭だけ見えるようになった感じ。

「また帰ってきたら、一緒に海を見よう、って」

 蓮は息をのんだ。

 言ったかもしれない。

 出発の前に、別れの挨拶みたいに言った可能性がある。あの夏は、東京への出発が近づいていて、終わっていく夏と始まっていく東京が頭の中で混在していた。感傷的な気分になっていて、そういうことを言いそうな状態だった。

 でも記憶が曖昧だった。

 あの頃の蓮は、東京への出発で頭がいっぱいで、あの夏の細部をあまり覚えていない。何を食べたか、何を話したか、何を見たか。全部が東京行きの興奮の中に溶けていた。

「言った?」

蓮は確認するように聞いた。

「言ったよ」

結衣は静かに言った。

「ちゃんと聞こえてた」

 その声が、どこか微かに違っている。

 柔らかいけど、重かった。いつもの結衣の声は軽い。羽みたいに、水面を滑るみたいに、軽い。でも今の声は底があった。言葉に根が生えているみたいに、深いところから来た声だった。

 ちゃんと聞こえてた。

 その「ちゃんと」が重かった。聞き間違いじゃない。聞き流しもしていない。ちゃんと、受け取った。そういう「ちゃんと」だった。

 蓮は、自分があの約束をどれほど軽く扱ってきたかを、その一言で知った。

 言ったかもしれない、と思いながら確認した。言ったかどうかも定かじゃない約束を、結衣は五年間持ち続けていた。ちゃんと聞こえてた、と言えるほどに。

「……海、行こう」

蓮は言った。

「まだ帰省中だから、一緒に行こう」

 結衣は少し驚いた顔をした。

 まばたきが一回、二回。それから、笑顔になった。

 今度の笑顔は余韻があった。石段に座っていつも見せる笑顔とも違う。ラムネを飲んでいるときの笑顔とも違う。何かを待っていて、それがようやく来たときの笑顔だった。長い時間をかけてやっと届いた言葉を受け取ったときの、静かな、でも確かな笑顔。

「うん」

と言った。

「行きたい」

 その「行きたい」の声が、蓮の胸の奥に落ちた。

 ただそれだけの言葉なのに、どうしてこんなに重く聞こえるのか。

 行きたい。まだ行けていない場所に、行きたい。そこへ連れていってほしい。そういう声だった。

「じゃあ、帰省が終わる前に」

蓮は言った。

「何日か後に、一緒に行こう」

「うん」

「約束する」

「約束だよ」

 結衣がそう言ったとき、また声の質が変わった。

 約束、という言葉が、結衣の口の中で違う重さを持った。蓮が使ったのと同じ言葉なのに、受け取る側と渡す側では、その言葉の密度が違うみたいだった。

 蓮にとっての約束は、軽い取り決めだった。数日後に海へ行く、というスケジュールの確認に近い。でも結衣の「約束」には、もっと時間が込められていた。五年間、「また帰ってきたら」という言葉を待っていた時間が。

 二人で少しの間、石段に座った。

 朝の境内は、人が行き来していた。でも相変わらず、誰も結衣に気づかなかった。蓮の隣に誰かがいることに、誰も反応しなかった。

 蓮はそれを意識しながら、意識していることを表に出さないようにした。

 今はまだ、その話をするときじゃない。海へ行く約束をした。まずそれを果たす。

「朝の空も好き?」

蓮は聞いた。

「好き」

結衣は空を見た。

「でも夕方の方が好き」

「なんで」

「一日の色が全部、夕方に出てくる気がするから」

 蓮はそれを聞きながら、「夏だけしかいられない」と「また帰ってきたら海を見よう」が、頭の中でゆっくりと近づいていくのを感じた。

 二つの言葉が重なったとき、何かが分かる。

 その瞬間が、近づいていた。

 *

 帰り道、蓮は海の方を向いて歩いた。

 実家とは反対方向だったが、少しだけ遠回りした。汐崎の海は、丘を越えた先にある。ここからは見えない。でも風の中に、かすかに潮の匂いがした。

 五年前の夏、あの海辺に座って、結衣と何を話したのか。

 水平線のことを話したかもしれない。東京がどんな場所か、想像で話したかもしれない。受験のことを話したかもしれない。何も話さずに、ただ並んで座っていたかもしれない。

 でも一つだけ、言ったことがある。

 また帰ってきたら、一緒に海を見よう。

 その言葉を、結衣は五年間持っていた。

 蓮は空を見た。

 入道雲が、さっきより少し大きくなっていた。

「ちゃんと聞こえてた」。言ったかもしれない、で済ませた言葉を、誰かが五年間、持ち続けていました。海へ行く約束が、ここで生まれます。

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