第六章 きみは夏しか知らないのかもしれない
夏の音には、終わりの音が混じっています。ヒグラシが鳴き始める時間です。
十日目、蓮は少し遅い時間に神社へ行った。
午前中は母に頼まれた用事があって、昼過ぎに実家の近くで古い知人と顔を合わせて、気づいたら夕方になっていた。いつもより三時間ほど遅い。今日は会えないかもしれない、と思いながら坂を登った。
夕方の五時頃。空が橙色に染まり始める時間。
汐崎の夕暮れは、東京のそれより色が濃い。高いビルがないから、空が広い分だけ夕焼けが全部見える。地平線の方から色が変わっていって、真上の青と橙が混じりながら、少しずつ夜に向かっていく。その過程がゆっくりで、東京では気づかないうちに終わってしまう時間が、ここではちゃんと見える。
鳥居をくぐると、境内が金色に染まっていた。
木々の影が長く伸びて、石畳に縞模様を作っていた。いつもと光の角度が違うだけで、同じ場所がこれほど違って見える。蓮は少し足を止めて、それを眺めた。
結衣はいた。
でも今日は参道ではなく、拝殿の横にある古い木の根元に座っていた。大きな木だった。幹の周りが一抱え以上ある、年を経た木。その根が地面から盛り上がって、自然な椅子みたいな形を作っている。子供の頃、その根の上によく座った。
結衣は目を閉じていた。
寝ているのか、考えているのか。表情は穏やかで、背中が木の幹にもたれていた。夕方の光の中で、輪郭がやわらかかった。
蓮が近づくと、目を開けた。
驚いた様子はなかった。来ると分かっていたみたいな、静かな目の開け方だった。
「来た」
「来たよ。何してた?」
「聞いてた」
「何を」
「夕方の音」
結衣が目を細めた。
「朝と昼と夕方と夜で、ぜんぶ音が違うんだよね。夕方は特別で、蝉が変わる時間がある」
蓮は耳を澄ました。
確かに聞くと、アブラゼミとヒグラシが混じっていた。日中の、真っすぐで強いアブラゼミの声の中に、カナカナカナという音が混じっている。遠い方から聞こえてくる。どこか山の方から、夕暮れに引き寄せられるように鳴いている。
「ヒグラシ」
蓮は言った。
「うん。好きなんだよね、この音」
「なんで?」
「終わりの音がするから」
蓮は少し驚いた。
「終わりの音?」
「うん。夏が終わる前に鳴く感じがして。ヒグラシが鳴くと、夏がもうすぐ終わるな、って思う」
確かに、ヒグラシの声には独特の寂しさがある。カナカナという音の繰り返しが、何かが終わっていくリズムに聞こえる。子供の頃も、夏休みの終わりにヒグラシが鳴き始めると、胸が少し締まる感じがした。宿題が終わっていないとか、もっと遊びたいとか、そういう理由だけじゃない。もっと形のない、終わることへの抵抗みたいなもの。
「秋が来るのが嫌?」
結衣は少し間を置いた。
「……秋は来ないんだよ、私には」
蓮は結衣を見た。
木漏れ日の中にある顔。夕方の光が横から当たって、影の部分が深かった。
「どういう意味?」
結衣が笑った。
でもその微笑みは、これまで目にしたどの表情よりも遠く感じられた。いつもなら、触れそうなほど近くにあるはずの笑顔なのに。石段に座って並んでいるとき、ラムネを飲んでいるとき、雲の話をしているとき——結衣の笑顔はいつも、手を伸ばせば届く距離にあった。
今日の笑顔は、違った。
形は同じだった。目が細まって、頬が上がって、同じ顔が笑っている。でも距離が違う。手を伸ばしても届かないような、ガラスの向こう側にあるような距離だった。
「夏だけなの」
結衣はそれだけ言った。
「私がいられるのは」
「……それ、どういう」
「ほら、ヒグラシ、また鳴いてる」
結衣が空を見た。
カナカナカナ。木の向こうから、繰り返す声が来た。
話題を変えたのか、本当に聞いているのか、蓮には分からなかった。結衣の横顔は静かで、感情が読めなかった。夕方の光の中で、その輪郭がすこし滲んでいるように見えた。
「結衣」
「うん」
「今言ったこと、どういう意味か教えてほしい」
「……ヒグラシ、今日は多いね」
答えなかった。
蓮は何か言おうとして、やめた。言い方を変えて聞き直そうとして、でも結衣の横顔を見て、今じゃないと思った。聞いても答えてくれる顔じゃなかった。答えたくないのではなく、まだその時間じゃない、という感じがした。
二人でしばらく、ヒグラシの声を聞いていた。
夕暮れが深くなっていった。橙色が濃くなって、木々の影が長く伸びた。境内の空気が少し冷えてきた。昼間の熱気が少しずつ抜けていく、夕方だけの時間。
「蓮、もう帰った方がいい」
結衣が言った。
「暗くなる」
「結衣は?」
「私はここにいる」
「暗くなっても?」
「うん」
また「ここにいる」だった。どこにも行かない。どこへも帰らない。ここにいる。
蓮は立ち上がった。
「また明日来る」
「うん」
結衣は笑った。今度の笑顔は、少し隣に寄り添ってくれるような温かさがあった。
「来てね」
鳥居をくぐるとき、蓮は振り返った。
結衣はまた木の根元に座って、目を閉じていた。
夕暮れの光の中で、その姿が静かだった。まるで最初からそこにあった何かみたいに。木と同じくらい、自然にそこにある何かみたいに。
蓮は前を向いて、坂を下り始めた。
*
帰り道、蓮は商店街を通った。
夕方の商店街は少し賑やかだった。買い物帰りの主婦が袋を提げて歩いていた。自転車に乗った小学生が、ベルを鳴らしながら通り過ぎた。アイスクリームを食べながら歩く高校生が二人、笑いながら何かを話していた。
見慣れた風景だった。
でも今日は、いつもと違う目でそれを見た。
この人たちはみんな、秋が来ることを知っている。
夏が終わって、涼しくなって、紅葉が来て、冬が来ることを、当たり前のように知っている。来年の夏も来ることを知っている。夏の次に何があるかを、体で知っている。
結衣は「秋は来ない」と言った。
夏しかいられない、と言った。
その言葉を、どう受け取ればいいのか。
比喩なのか、本当のことなのか。
比喩だとしたら——結衣は夏が好きすぎて、夏以外を夏と感じられない、という意味かもしれない。詩的な言い方をする人は、たまにそういう表現をする。でも結衣はそういう大げさな言い方をする人じゃなかった。むしろ逆で、感情を大きく言葉にしない人だった。てんとう虫の点を数えて、雲が育つのを見て、ヒグラシを「終わりの音」と呼ぶ。小さいものを、ちゃんと見る人だった。
そういう人が、「夏しかいられない」と言った。
本当のことのように聞こえた。
本当のことだとしたら。
蓮はその先を考えようとして、止まった。
考えることが怖かった。四日目の夜に感じた怖さと、同じ種類の怖さだった。知ってしまうことで、何かが変わる。今のまま、每日神社へ行って、結衣と話して、それで帰ってくる。そのサイクルを壊したくない。
でも「夏しかいられない」という言葉は、もうすでに何かを壊し始めていた。
心のどこかで、ずっと分かっていたことを、言葉にされてしまったような感じがした。
夕焼けが、商店街のアーケードの隙間から差し込んでいた。橙色の光が、アスファルトに長い影を作っていた。
蓮の影が、西の方へ長く伸びていた。
自分の影を見ながら、蓮は考えた。影は夕方にしか、こんなに長くなれない。朝と昼は短い。夕方だけが、こんなに伸びる。
それが何かの比喩になっている気がしたが、うまく言葉にできなかった。
夕焼けの中を歩きながら、
「夏だけなの、私がいられるのは」
という結衣の声が、繰り返し聞こえた。
まるでヒグラシの声みたいに。
終わりを告げる声みたいに。
繰り返し、繰り返し。
同じ形の笑顔なのに、距離だけが違いました。伸びた影は、夕方にしかできません。夏だけ、という言葉を、蓮はまだ置き場所のないまま持ち帰ります。




