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きみがいた夏は、もう終わらない  作者: Noct


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6/21

第六章 きみは夏しか知らないのかもしれない

夏の音には、終わりの音が混じっています。ヒグラシが鳴き始める時間です。

 十日目、蓮は少し遅い時間に神社へ行った。

 午前中は母に頼まれた用事があって、昼過ぎに実家の近くで古い知人と顔を合わせて、気づいたら夕方になっていた。いつもより三時間ほど遅い。今日は会えないかもしれない、と思いながら坂を登った。

 夕方の五時頃。空が橙色に染まり始める時間。

 汐崎の夕暮れは、東京のそれより色が濃い。高いビルがないから、空が広い分だけ夕焼けが全部見える。地平線の方から色が変わっていって、真上の青と橙が混じりながら、少しずつ夜に向かっていく。その過程がゆっくりで、東京では気づかないうちに終わってしまう時間が、ここではちゃんと見える。

 鳥居をくぐると、境内が金色に染まっていた。

 木々の影が長く伸びて、石畳に縞模様を作っていた。いつもと光の角度が違うだけで、同じ場所がこれほど違って見える。蓮は少し足を止めて、それを眺めた。

 結衣はいた。

 でも今日は参道ではなく、拝殿の横にある古い木の根元に座っていた。大きな木だった。幹の周りが一抱え以上ある、年を経た木。その根が地面から盛り上がって、自然な椅子みたいな形を作っている。子供の頃、その根の上によく座った。

 結衣は目を閉じていた。

 寝ているのか、考えているのか。表情は穏やかで、背中が木の幹にもたれていた。夕方の光の中で、輪郭がやわらかかった。

 蓮が近づくと、目を開けた。

 驚いた様子はなかった。来ると分かっていたみたいな、静かな目の開け方だった。

「来た」

「来たよ。何してた?」

「聞いてた」

「何を」

「夕方の音」

結衣が目を細めた。

「朝と昼と夕方と夜で、ぜんぶ音が違うんだよね。夕方は特別で、蝉が変わる時間がある」

 蓮は耳を澄ました。

 確かに聞くと、アブラゼミとヒグラシが混じっていた。日中の、真っすぐで強いアブラゼミの声の中に、カナカナカナという音が混じっている。遠い方から聞こえてくる。どこか山の方から、夕暮れに引き寄せられるように鳴いている。

「ヒグラシ」

蓮は言った。

「うん。好きなんだよね、この音」

「なんで?」

「終わりの音がするから」

 蓮は少し驚いた。

「終わりの音?」

「うん。夏が終わる前に鳴く感じがして。ヒグラシが鳴くと、夏がもうすぐ終わるな、って思う」

 確かに、ヒグラシの声には独特の寂しさがある。カナカナという音の繰り返しが、何かが終わっていくリズムに聞こえる。子供の頃も、夏休みの終わりにヒグラシが鳴き始めると、胸が少し締まる感じがした。宿題が終わっていないとか、もっと遊びたいとか、そういう理由だけじゃない。もっと形のない、終わることへの抵抗みたいなもの。

「秋が来るのが嫌?」

 結衣は少し間を置いた。

「……秋は来ないんだよ、私には」

 蓮は結衣を見た。

 木漏れ日の中にある顔。夕方の光が横から当たって、影の部分が深かった。

「どういう意味?」

 結衣が笑った。

 でもその微笑みは、これまで目にしたどの表情よりも遠く感じられた。いつもなら、触れそうなほど近くにあるはずの笑顔なのに。石段に座って並んでいるとき、ラムネを飲んでいるとき、雲の話をしているとき——結衣の笑顔はいつも、手を伸ばせば届く距離にあった。

 今日の笑顔は、違った。

 形は同じだった。目が細まって、頬が上がって、同じ顔が笑っている。でも距離が違う。手を伸ばしても届かないような、ガラスの向こう側にあるような距離だった。

「夏だけなの」

結衣はそれだけ言った。

「私がいられるのは」

「……それ、どういう」

「ほら、ヒグラシ、また鳴いてる」

 結衣が空を見た。

 カナカナカナ。木の向こうから、繰り返す声が来た。

 話題を変えたのか、本当に聞いているのか、蓮には分からなかった。結衣の横顔は静かで、感情が読めなかった。夕方の光の中で、その輪郭がすこし滲んでいるように見えた。

「結衣」

「うん」

「今言ったこと、どういう意味か教えてほしい」

「……ヒグラシ、今日は多いね」

 答えなかった。

 蓮は何か言おうとして、やめた。言い方を変えて聞き直そうとして、でも結衣の横顔を見て、今じゃないと思った。聞いても答えてくれる顔じゃなかった。答えたくないのではなく、まだその時間じゃない、という感じがした。

 二人でしばらく、ヒグラシの声を聞いていた。

 夕暮れが深くなっていった。橙色が濃くなって、木々の影が長く伸びた。境内の空気が少し冷えてきた。昼間の熱気が少しずつ抜けていく、夕方だけの時間。

「蓮、もう帰った方がいい」

結衣が言った。

「暗くなる」

「結衣は?」

「私はここにいる」

「暗くなっても?」

「うん」

 また「ここにいる」だった。どこにも行かない。どこへも帰らない。ここにいる。

 蓮は立ち上がった。

「また明日来る」

「うん」

結衣は笑った。今度の笑顔は、少し隣に寄り添ってくれるような温かさがあった。

「来てね」

 鳥居をくぐるとき、蓮は振り返った。

 結衣はまた木の根元に座って、目を閉じていた。

 夕暮れの光の中で、その姿が静かだった。まるで最初からそこにあった何かみたいに。木と同じくらい、自然にそこにある何かみたいに。

 蓮は前を向いて、坂を下り始めた。

 *

 帰り道、蓮は商店街を通った。

 夕方の商店街は少し賑やかだった。買い物帰りの主婦が袋を提げて歩いていた。自転車に乗った小学生が、ベルを鳴らしながら通り過ぎた。アイスクリームを食べながら歩く高校生が二人、笑いながら何かを話していた。

 見慣れた風景だった。

 でも今日は、いつもと違う目でそれを見た。

 この人たちはみんな、秋が来ることを知っている。

 夏が終わって、涼しくなって、紅葉が来て、冬が来ることを、当たり前のように知っている。来年の夏も来ることを知っている。夏の次に何があるかを、体で知っている。

 結衣は「秋は来ない」と言った。

 夏しかいられない、と言った。

 その言葉を、どう受け取ればいいのか。

 比喩なのか、本当のことなのか。

 比喩だとしたら——結衣は夏が好きすぎて、夏以外を夏と感じられない、という意味かもしれない。詩的な言い方をする人は、たまにそういう表現をする。でも結衣はそういう大げさな言い方をする人じゃなかった。むしろ逆で、感情を大きく言葉にしない人だった。てんとう虫の点を数えて、雲が育つのを見て、ヒグラシを「終わりの音」と呼ぶ。小さいものを、ちゃんと見る人だった。

 そういう人が、「夏しかいられない」と言った。

 本当のことのように聞こえた。

 本当のことだとしたら。

 蓮はその先を考えようとして、止まった。

 考えることが怖かった。四日目の夜に感じた怖さと、同じ種類の怖さだった。知ってしまうことで、何かが変わる。今のまま、每日神社へ行って、結衣と話して、それで帰ってくる。そのサイクルを壊したくない。

 でも「夏しかいられない」という言葉は、もうすでに何かを壊し始めていた。

 心のどこかで、ずっと分かっていたことを、言葉にされてしまったような感じがした。

 夕焼けが、商店街のアーケードの隙間から差し込んでいた。橙色の光が、アスファルトに長い影を作っていた。

 蓮の影が、西の方へ長く伸びていた。

 自分の影を見ながら、蓮は考えた。影は夕方にしか、こんなに長くなれない。朝と昼は短い。夕方だけが、こんなに伸びる。

 それが何かの比喩になっている気がしたが、うまく言葉にできなかった。

 夕焼けの中を歩きながら、

「夏だけなの、私がいられるのは」

という結衣の声が、繰り返し聞こえた。

 まるでヒグラシの声みたいに。

 終わりを告げる声みたいに。

 繰り返し、繰り返し。

同じ形の笑顔なのに、距離だけが違いました。伸びた影は、夕方にしかできません。夏だけ、という言葉を、蓮はまだ置き場所のないまま持ち帰ります。

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